4話

 翌日、いつものように店にやってきた榊は、氷雨の姿を見て呆れ、永久を見て笑った。

「まぁた、あやかしが増えたのかい? 狐が不機嫌になってら」

「爺さん、うるさい」

「この人、うちが見えるん?」

「いいから、洗い場に戻りなよ。注文は僕が担当、何飲むの」

 氷雨をキッチンに追いやって、永久が注文用紙とボールペンを手に意気込む。

「いや。茶は何入れるか、いつも嬢ちゃんに任せてるからねぇ」

「他に、食べ物は」

「それも茶に合わせて、嬢ちゃんに任せてる」

「……注文がとれない」

 しょんぼり落ち込む永久を、命は手招きしてキッチンに戻す。

「できあがったら永久に運んで貰うわ」

「わかりました。命さん」

 榊に出すお茶を選びつつ、カウンターの中で永久と命は、話をする。

「それにしても……火が使えない雪女が淹れられるお茶ってあるんですか?」

「……ないわけじゃないんだけど……問題は、楠原さんの好みに合うか、なのよね」

 お茶を入れた戸棚の前で考える。

「楠原さんがいつもこの店で頼むお茶は焙じ茶なの。焙じ茶って熱いお湯で淹れればいいだけで簡単だけど、逆に熱いお湯が使えないと、どうやっても美味しくならないのよね」

「緑茶は少し温度が低くても、淹れられますよね。たしか、深蒸しは八〇度。もっと低いお茶もあるとか」

「そうね。低い温度で淹れる方法もあるけど、焙じ茶ではできないのよね……」

 その時、トントンと戸を叩く音が聞こえた。振り向くとガラス戸の向こうで楠原が立っている。

「縁側にお邪魔しますね」

「はーい。今行きます。すみません、榊先生。ちょっと待ってもらってもいいですか?」

「あたしはかまいませんけど……」

 命が縁側に向かうのを見て、永久へ問いかける。

「お前さんは注文取りにいかないのかい?」

「……犬は嫌いだ」

「馬鹿だねぇ……」

 榊がけらけらと笑うと、持ってきた荷物をしまい直した。

「気が変わった。今日はあたしも縁側にお邪魔しましょ。天気も良いし、外で茶を飲むのにいいですよ」

 榊が荷物を持って、縁側に向かうと、楠原に軽く頭を下げた。

「ご一緒しても?」

「もちろんどうぞ。犬がお嫌いでなければ」

「あたしは猫好きですけど、犬も嫌いじゃないですよ」

「榊先生もこっちで飲まれるなら、座布団持ってきますね」

 命は慌てて奥から座布団と水を持ってくる。

「楠原さんはいつも通り焙じ茶の種類おまかせと、おまかせデザートですか?」

「はい、いつも通りに」

「焙じ茶しか飲まないのかい?」

「本当はお茶は何でも好きなんですけどね」

「え? そうなんですか?」

 いつも焙じ茶を頼まれるので、焙じ茶しか飲まないのかと思っていた。

 なぜ他のお茶を頼まないのか気になったが、命は厨房に向かった。

 二人分のお茶とお菓子を用意して、命が縁側席に戻る頃には、榊と楠原はすっかり親しく話し込んでいた。

御嶽神社みたけじんじゃにペット祈祷にいくのかい?」

「ええ、ズンちゃんも、もう年ですし、長生きしてほしいからご祈祷してもらいたいんですけど、舗装されてるとはいえ山を登るようなものですから。ズンちゃんがもし疲れて歩けなくなったら、抱えて降りないといけないけど、一人だとどうにも荷が重くて」

「そりゃそうだ。若い人でも、犬抱えて下りるのは疲れますから」

「ペット祈祷? 神社でそんなこともしてるんですか?」

「あそこは特殊なんだよ」

 榊はすらすらと解説を始める。

「元々『おいぬさま』と言って、この辺りの山岳地帯には狼を信仰の対象にする風習があるんです。武蔵御嶽神社むさしみたけじんじゃは狼が眷属として神に仕えてるんだよ」

「さすが大学の先生をされてた方だ、お詳しいですね」

 楠原が褒めつつズンちゃんへ手を伸ばした。

「あの神社でご祈祷してもらうと、犬形代いぬかたしろという紙を貰えるんです。それで犬を拭くと、拭いた部分から悪い物を払って、健康になると言われてるんですよ。だから犬好きの人がよくお参りしてます」

「犬を連れてお参り。しかも山の中なんですよね。面白いです。たしか、御嶽山には天空の集落って呼ばれる所があるんですよね? 図書館で借りた本で見ました」

 命が興味津々に食いつくと、榊が生徒に物を教えるように、やんわりと話す。

「それは御師おしさん達が住む宿坊街しゅくぼうがいだね」

「おしさん?」

 懐から取り出した万年筆でメモ帳に『御師』と書き、その横に『御嶽講みたけこう』と書き足す。

「鉄道もなかった昔は、山の中にお参りをするのも大変だし、山と信仰者を繋ぐ『こう』という集団がいたんですよ。団体旅行で旅費を浮かせて、みんなで山を登るみたいなもんだね。そのこうの参加者を『宿坊しゅくぼう』という宿で持てなすのが御師さんだ」

「団体旅行……そんな遠くから御嶽神社に来る人達がいたんですか?」

「講は関東に広く分布していたのさ。南は川崎の方から北は……どのへんかね。埼玉までいくと、別のお山の神社の講も盛んだからね」

「へぇ……川崎から御岳山まで歩いてくるなんて、それは旅行ですね」

「その逆もあったんだよ。御師さんが講の人々が住む土地まで行って、ありがたい護符を配って歩いたのさ」

「それは大変ですね。御師さんは神主さんとは違うのですか?」

「神事を司る神主もいるし、宿坊で旅行客を持てなす人もいる」

「今でも宿坊って泊まれるんですか?」

「ああ、歴史的な風情のある宿坊もあって、中々良い所ですよ。まあ、これだけ近いとあまり泊まりにはいきませんけどね」

 話を聞けば聞くほど、興味が湧いて、命は行きたくなってきた。

「楠原さん、よかったら、今度一緒に行きませんか? もしズンちゃんが途中で疲れたら、私が抱えて降りますよ」

「良いんですか?」

「飲食業は体力勝負なんですよ。これでも体力に自信があります。平日なら空いてますし、来週の定休日にでも一緒に行きましょう」

「ありがとうございます。とてもありがたいです」

「いえいえ。私もその天空の宿坊街とか、ペット祈祷を見てみたいし、楽しみです」

 すっかり話が弾んでからキッチンに戻ると、永久と氷雨は話を聞いていたようだ。永久は渋い顔で、氷雨は目を輝かせ、命の戻りを待っていた。

「あの山、犬がたくさんいるから、僕は行きたくない……けど、命さんが心配だな」

「うちはもちろんついてくわぁ。あの人が行くところなら何処でも嬉しいんよ」

「永久は無理についてこなくても、留守番でも良いのよ」

「うちが代わりに、命を守ってあげても、ええんよ」

「やだ。命さんを守る役目は譲らない」

 しっぽをぶわっと膨らませつつ怒るので、命は永久の頭を撫でて宥めた。

「苦手な犬がいる所に、無理に行かなくてもいいけど、ついて来たかったら、一緒に行きましょう」

「犬が怖いって情けないねぇ」

 縁側席から店内にやってきた榊が、からかうように囃し立てる。

「怖いんじゃない。嫌いなんだ。昔からそりが合わない」

「……まあ、犬は狐の天敵みたいなものだからねぇ」

「そうなんですか?」

「さっき狼信仰が盛んだって話しただろ。おいぬさまの御利益の中には、狐憑きを退治したり、害獣の狐を狩ったりするのも含まれるのさぁ。つまり、このあたりでは狐は人間に害なす悪者で、犬は神様の眷属で人の味方ってことさね」

「狐は悪者って……そんな、可哀想じゃないですか」

「稲荷神社も、狐の眷属も、この土地じゃあ、余所からやってきた新しい文化なのさ」

 命ははっと想い出す。前にとうこと永久が出会った神社の話をしたとき、榊が首を傾げていた。

「お前さんがいた神社で奉っていた神様は、なんて方だい?」

「……知らない」

 永久はぷいとそっぽを向いた。答える気はないらしい。榊は失望したように小さくため息をついた。

「そうかい、そうかい。まあいいよ。別に。じゃましたね。勘定を頼むよ」

「はい。今伝票出しますね」

「楠原さんも帰りたいって言ってたよ」

「はい、そちらもすぐ行きます」

 ぱたぱたと忙しなく働くうちに、命は『まいっか』と呟いて、狐の話を忘れた。


 二人の客が帰って、静かになった店内で、命は氷雨にお茶を教えることにした。

「氷雨にぴったりのお茶の淹れ方があるわ」

「本当に! なになに?」

「方法は二つ。一つは水出し。これは本当に簡単。お茶パックに必要な量の茶葉を入れて、ポットの中に水と一緒に入れて置いておくだけ。時間はお茶の種類にもよる。四時間くらいの茶葉もあれば、一晩置いた方がいい物もある」

「あの人がよく飲む焙じ茶は淹れられへんの?」

「残念ながら焙じ茶は、高温で淹れるのが美味しいお茶で、水出しには向いてないわ。でも良いんじゃない? 水だしなら、お煎茶から紅茶まで、色々向いてる茶葉はあるわよ」

「ううん……でも、結構時間がかかるんやね。こう、さっと出してあげられるものは、あらへんの?」

「それがもう一つ。氷水だしよ。氷雨。これくらいの氷をいくつか作ってくれる?」

 命が親指と人差し指でわっかを作って見せると、その大きさの氷を氷雨が作る。急須に煎茶の葉を入れて、氷を何個かいれた。

「このまま待って、氷が自然と溶けるころにはできあがり。五分くらいかしら」

「お茶の葉と氷を入れるだけでええの?」

「お茶の濃さも好みに合わせて、茶葉の量を加減するだけ。これは浅蒸し茶が向いてて、紅茶や釜炒り茶は向かないの」

「こんな簡単なら、何度だって淹れてもええよ。でもなぁ……あの人が、いつもここで飲むの焙じ茶やろ? 気に入ってくれるやろか?」

 不安げに俯く氷雨へ命は明るく微笑みかける。

「さっきお茶は何でも好きって言ってたから大丈夫よ」

「そうなん?」

「来週、楠原さんと御嶽神社へ行く約束をしてるから、その時が良いんじゃないかしら? 山登りで体を動かして暑くなったときに、冷たいお茶って美味しいわよ」

「喜んでくれたらええなぁ」

 そう言ってはしゃぐ氷雨を、永久は可哀想な物をみるような目で見ていた。

 命は気になって氷雨に聞こえない所で、問いただす。

「どうしたの?」

「ううん。氷雨や鈴は可哀想だなって、ちょっと思っただけ」

「可哀想? どうして?」

 命から目をそらし、庭を見ながら、ぽつりぽつりと話し始めた。

「だって爺さんは年寄りだし、楠原って人も若くない。そんなに長く一緒にいられない。あやかしにとって数年なんて、ほんのわずかな時間でしかないんだから。いなくなった時、氷雨や鈴は泣くのかな」

 その横顔はひどく寂しい。とうこという大切な人を失ったことがある永久だからこそ、哀れむ気持ちも強いのだろう。

 そこで初めて気づいた。命もまた、いつか永久をおいて先に死ぬのだ。

「大丈夫。僕は命さんが生きてる間、ずっと側にいる。死なないし、どこにもいかない。ずっと家族だよ」

 あまりにも、優しく。だからこそ命は後ろめたさで、心がぎゅっと締め付けられた。どんなに長生きしても、命が先に死ぬのだ。

「……ごめんなさい」

「どうして謝るの? 良いんだよ。最初から解ってて、僕は命さんを主人と決めたのだから」

「……どうして永久は、私を主人に選んだの?」

運命さだめだったんだよ」

 運命さだめという綺麗な言葉で、誤魔化された気がした。

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