雪娘と氷出し緑茶
1話
「みこ。この花はニセアカシアと言うんだ」
「偽物なの? 本物は?」
「本物のアカシアは黄色くて、ぽんぽん丸い花を咲かせる。でもな。俺はこのニセアカシアが好きなんだ。この花から採れる蜂蜜は美味いんだぞ」
「蜂蜜食べたい!」
温かく懐かしい記憶。その夢は幻のように儚く消えていき、命は現実に引き戻された。
目が覚めた命は思わず目元をぬぐった。夢の残滓を残したまま立ち上がり、庭に向かう。
この家には元々、庭木がいくつも植えられていたが、一つだけ命が植えた木がある。それがニセアカシアだ。六月は花の盛りで、まだ小さい木に白い花が咲いている。
父が好きだった木。その木を店に名付けて「あかしや」にした。
父との絆を失いたくない。そういう想いで名付けたこの店で、父と再会できる日が来るのだろうか。
六月。まだ梅雨入りしていない。夏が近づくせいか気温が上がってくる。しかし木々に囲まれた山の町・奥多摩は、暑さを感じさせない爽やかな風が吹いていた。
今日もあかしやは暇である。
命が庭の掃除でもしようかと外に出ると、門の前に立ち止まってる年配の男性を見かけた。小柄で細身で人が良さそうな顔をしている。
「よかったらお茶飲んで行きませんか? サービスしますよ」
「いや……飲みたいのはやまやまなんだけどねぇ」
困ったように男性が下を見ると、足下にポメラニアンがいた。男性がリードを持っているから犬の散歩中なのだろう。
「犬を連れて店には入れないでしょう?」
「他にお客さんがいると、困りますけど」
今、店に客はいない。けれどこの後、犬が苦手な客が来るかもしれない。少し考えて、ぽんと手を叩いた。
「特等席にご案内します!」
張り切って案内したのは縁側だ。
「縁側席か。これはいいね」
庭の先には峡谷があり、涼しげな水音が聞こえる。冬は寒いが今の時期なら外で飲む方が気分が良いだろう。
座布団を持ってきて縁側に並べ、水とおしぼりを置き、メニューを差し出すと、やはり茶の多さに驚かれた。
「焙じ茶にしようかな。それに、何か甘い物。お勧めありますか?」
「実は今日、良い蜂蜜が入荷したんです。蜂蜜パンケーキとかどうですか?」
「焙じ茶にパンケーキ? それも良いですね。お願いします」
リードを柱にくくりつけて、男性は縁側に座ってのんびり景色を眺め始めた。
命はキッチンに戻って、お茶とパンケーキの準備をする。
「永久。私、パンケーキを焼くから、お茶だしてきてくれる?」
「嫌だ」
「え?」
永久が接客の仕事を断るのは珍しい。
「どうして? あの人があやかしだったりするの?」
「普通の人間と犬。でも、僕、犬が嫌い」
犬嫌いという意外な理由に、命は吹き出して笑った。
「笑うことないじゃない」
「そうね。あやかしだって、嫌いなものあるわよね。小型犬でも怖いわよね」
「怖くない。ただ嫌いだから顔を合わせたくないだけ」
嫌いな物を無理させたくない。お茶とパンケーキを、命が一緒に持って行くことにした。
「じゃあ、お茶を淹れておいて。焙じ茶だから、難しくないでしょ」
そう言いながら加賀棒茶を選ぶ。茶葉を見て永久は目を丸くした。
「このお茶、変わった形だね」
「お茶の茎の部分を焙じた、香りの良い焙じ茶よ」
焙じ茶は熱湯を使う。ちょっとぐらい茶葉の量が違っても、あまり味に差がない。長く蒸らしすぎずに、さっと淹れるのがコツだ。
「雑に淹れても美味しいし、安いし、親しみがあるところが焙じ茶の魅力よね」
「良い香りですね。僕も後で飲もう」
お茶を淹れるのを永久に任せて、命はパンケーキを作る。
まず生卵と牛乳をボウルで混ぜ合わせ、小麦粉を入れて、パンケーキの素を作る。小さい器にアカシア蜂蜜をいれてスプーンを添える。
温めたフライパンにバターを落とした。脂がなじんだところで、いったん濡れぶきんに置いてフライパンの熱を冷まし、とろりとした生地を流し込む。焦げないようにじっくり焼いて、ひっくり返した。
「狐色のパンケーキのできあがり」
「わぁ……美味しそう」
「言うと思った。生地を多めに作ったから、後で永久の分も作ってあげる。他のお客さんが来たら、呼んでね」
店の中の番を永久に任せ、パンケーキと焙じ茶を持って縁側に向かった。
「お待たせしました」
「良い匂いですね。美味しそうだ」
男性はにこにこ機嫌良くお茶をすする。
「香りがとても良いお茶ですね。すっきり飲みやすい」
「加賀棒茶です」
「ああ、これが。ペットボトルで売ってるのは飲んだことありますが、ちゃんと淹れるとこんなに香りが違うのですね」
にこにこと機嫌良く、フォークで切ったパンケーキに蜂蜜を垂らして一口。
「うわぁ……すごくふんわりしている。それにこの生地甘塩っぱい、甘い蜂蜜がよく合うな」
「少しだけ塩を加えて、甘さ控えめにしてます。甘すぎないからお茶にも合いますし」
「本当に。蜂蜜の濃厚な甘さと匂いが、優しい焙じ茶の香りと合って。美味しいですね。わたし甘い物に目がないんですよ。おじさんなんで、ケーキ屋に一人で入るのは恥ずかしいけれど、ここなら気軽に入れていいなぁ」
にこにこ笑いながら、視線は犬のほうに向いている。リードの範囲内で、うろうろしていた犬が「きゃん」と鳴いた。
「可愛い子ですね。お名前は」
「ズンちゃんです。ああ見えて、結構な年なんですよ」
「ああ、だから落ち着いてるんですね。走ったり激しく鳴いたりしない、大人しい子だなと思いました」
「年寄りの割りには元気ですけどね。毎日ばくばくご飯を食べて、お散歩を楽しみにしてて、可愛い子です」
嬉しそうに、楽しそうに犬の話をする。ペットを可愛がる姿は微笑ましい。
「この店、前から気になってたんですけど、いつもズンちゃんと一緒だったから入れなくて」
「これからは気兼ねせず、ここでのんびりしていってください」
「嬉しいなぁ」
男性は楠原と名乗って絵はがきを取り出した。奥多摩の緑豊かな風景を、鮮やかな色彩で描いた水彩絵が美しい。
「この絵、わたしが書いたんです」
「絵描きさんですか?」
「ははは。そこまで有名ではないので、絵描きを名乗るのも恥ずかしいですが」
「なるほど……勤め人だと、平日の昼間に散歩って難しいですけど、絵描きさんなら自由ですよね」
「そうですね。集中して絵を描いてる時は引きこもってしまって、ズンちゃんに可哀想なときもありますが。そのぶん散歩するときは、好きなだけ歩かせてあげたいんです」
「ズンちゃんのお散歩に疲れたら、うちで休んでいってくださいね」
ふわふわの毛並みと黒目がちな瞳のズンちゃんが、あまりに可愛くて、もふもふ撫でたくなる誘惑を、命はぐっとこらえた。これでも飲食業。動物に触るのは不衛生だ。
「ごゆっくりどうぞ。何か御用がありましたら、これで呼んでください」
和紐のついた鈴を縁側におく。あの蔵の中にあった付喪神だ。普通の人にはただの鈴の音しかしないが、命の耳には声が聞こえる。
『呼んでも来ないと、大声で叫ぶからね』
楠原の前なので命は声を出さずに小さく頷いて、店の中へ戻った。
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