父娘とアールグレイときゅうりサンド

1話

 金曜の朝。駅の改札をくぐった所で限界がきた。

「やっぱり、会社に行きたくないなぁ」

 田中たなか敦子あつこは上り電車のホームへ歩く人混みから離れ、スマホを取り出した。

 風邪だと嘘をつき有給を願うと、上司は何の疑いもせずに、いたわりの言葉をくれて電話は終わった。

 初めて会社をズル休みした。このまま家にUターンすることもできるが、せっかく改札をくぐったなら、このままどこか遠くへ行ってしまいたい。人気の少ない下り線に乗って、座ってから行先を確認する。

「これ、青梅行きか……そういえば、青梅の先って奥多摩じゃなかったっけ?」

 青梅も奥多摩も名前は知っているが、行ったことはない。見知らぬ土地への好奇心が、嘘をついた罪悪感を少しだけ和らげてくれた。

 立川を過ぎ青梅駅につくまで、沿線はずっと住宅地が続く。その景色ががらりと変わったのは青梅駅だった。

 終点の青梅駅でホームに出ると、ぐるりと周囲を見渡す。敦子は思わずため息を零した。

「……不思議な駅。まるでここから先は世界が違うみたい」

 来た方向を見れば、住宅地が連なり、駅前にビルがあり「都市」でしかありえない。

 されど反対側を見ると、連なる山々と峡谷がどこまでも続く「田舎」でしかない。

 都市と田舎の境界の駅。それが青梅だった。

 駅のホームには山小屋のような木造の待合室があった。焦げ茶色の壁に『室合待』と逆向きに書かれた看板が飾られている。壁には昭和の古い映画の広告が描かれ、レトロ過ぎる雰囲気が逆に新鮮だ。

 ホームで立ち止まってきょろきょろ見ているうちに、奥多摩行きの電車がやってきた。

「せっかくだし、このまま最後まで行ってみようかな」

 リュックを背負った登山客が多い中、パンツスーツの敦子は浮いている。ほんの少し気後れしたが、電車が発車したらそんな気持ちも吹き飛ぶ。山肌を滑るように走る電車からの眺めが絶景だったからだ。

 新緑が眩しい山々の連なり。山の合間を縫うように流れる多摩川。川の上にかけられた橋は、どれも大きく立派で。トンネルをくぐり抜けるたびに、異世界へ旅している気分になった。

「あの橋に行ってみたいな」

 橋から見る眺めはもっと綺麗だろう。


 奥多摩駅から三分歩いた所に橋はあった。

 橋の中央に立ってぐるりと周囲を見渡す。両岸にそびえ立つ山にへばりつくように、ポツポツと戸建ての家屋があった。

 橋の下を見下ろせば、底が見えるほどに澄んだ川が見える。落ちたら死にそうな高さだが、恐怖心はわかず、日差しを浴びてきらきら輝く水面についつい見とれてしまう。

 川の両側は河原になっており、いくつかテントが並んでいた。

「いいな……私もこういう所でキャンプしたい」

 川の流れる音に耳を傾け、澄んだ空気を吸い込むうちに、会社に行きたくないと思い詰めた気分が晴れていく。

「ここに来てよかった」

 敦子はしばらく橋の上から景色を堪能していたが、ずっと直射日光を浴びていたせいで汗がでてきた。

 汗を拭おうとビジネスバックからハンカチを取り出した時、悲劇が起こった。

 ハンカチを取り出した弾みで、バックの中から御守りが一つ転がり落ちる。

「……あっ」

 気づいた時には遅かった。風に吹かれて御守りは橋の下へと落ちていった。

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