3話

 多摩川沿いの河原には、キャンプ道具を広げた人々がいた。日が落ち始めて、みな撤収作業を始めている。

「夏はこういう所でキャンプしてビール飲んだら最高でしょうね」

「びーるというのは、お酒でしたっけ? 聞いたことはあります」

「そうそう。夏はキンキンに冷やして飲むと最高なの」

 もうじき初夏と呼べる季節になる。都心に比べても過ごしやすそうな奥多摩だが、真夏はきっと暑くなるだろう。

 その時命は気になるものを見かけた。

 一人の女性が河原を歩いている。パンツスーツに身を包んだ姿は、キャンプとは雰囲気が合わない。しきりに足下を見ているのも気になる。

 問題はその足下だ。澄んだ川の水面から伸びた手が、女性の足へと伸びている。

「永久。あれ……もしかしてあやかし?」

 手と腕しか見えないが、人の手にはありえない水かきがついている。

「あれは誰かな? 川沿いで人を引き込むあやかしはたくさんいるからねぇ」

「誰かなじゃなくて、川に引き込まれたら大変じゃない」

 命は慌てて駆けだした。河原の砂利道は走りづらく、慌てたせいで足がもつれて滑った。

 バシャン! 川の中へうっかり踏み入れると、引きずり込まれそうな川の勢いを感じた。

「命さん!」

 永久が叫んでぐいっと力強く腕を引く。永久のおかげで、命は川から河原に戻った。

「……ありがとう。危なかった」

「気をつけてください。川の浅いところでも危ないですよ」

 落ち着いて深呼吸した後、先ほどの女性を見ると、驚いた顔でこっちを見ていた。

「……大丈夫? だいぶ濡れてるけど」

「ああ、川に入っちゃったから。大丈夫です。うちの店、近いし。それよりそちらは大丈夫ですか?」

「私? えっっと……あまり大丈夫じゃないかも。落とし物が見当たらなくて」

 悔しげに唇を噛みしめる女性の側に、もうあの手は無かった。あやかしの危機は去ったのかとほっとする。だが、川の側にいたら、また狙われるかもしれない。

 ぎゅるる……元気に腹の虫が鳴った。女性は恥ずかしそうに目を逸らす。

「朝から何も食べてないから……」

「もう夕方近いですよ。よかったらうちでお茶しませんか? 軽い食事も出せますよ」

 女性は少し悩んで、頷いた。


「ようこそ、『あかしや』へ。貴女はこの店第一号のお客様です」

「第一号? 今日オープンなの?」

「はい。誰も人が来ないから呼びに行っちゃいました」

「そう、ならラッキーだったのかな……落とし物は見つからなかったけど」

 田中敦子と名乗った女性は、奥多摩に来た事情を語る。橋の上で大切な御守りを落としてしまい、河原に落ちていないかと何時間も探していたそうだ。

 カウンター席に座ってぽつりぽつりと語る敦子へ、永久は水を持って行った。永久の顔に一瞬見とれて目を逸らす。

 永久は気にも止めずに、置物のように静かに控えていた。

 命は腹ごしらえにサンドウィッチを差し出す。空腹にお茶は胃が荒れる。

「スモークサーモンとクリームチーズのサンドウィッチです。どうぞ」

「わぁ……美味しそう。いただきます」

 よほどお腹が空いていたのだろう。無心でばくばく食べる敦子の口元が緩んでいる。みこともサンドウィッチに手をつけた。

 脂ののったサーモンの塩気とチーズの酸味がさっぱりとしていて、粒マスタードのアクセントが効いている。いくつ食べても飽きない味だ。

「あぁ……美味しかった。ありがとう」

「食後のお茶を淹れますね。何か好みはありますか?」

「わぁ……このメニュー全部お茶? どうしよう……多すぎてよくわからない」

 困ったように顔を上げ、命の後ろにあるものに気づき、あっと声をあげた。

「その紅茶缶! それが良い!」

「トワイニングのアールグレイですね。輸入食品店にいけば簡単に手に入るお茶ですよ」

「わかってる。うちにもあるし。でも、淹れる人が違えば味も違うんじゃない?」

 敦子が放つ期待の視線があまりに強く、命は少し身を引いた。

「このお茶はそこまで繊細ではないので、味が変わるとは思えませんが、淹れてみますね」

 ポットを取り出してお茶の準備を始めた所で、永久が興味津々に問いかける。

「あーるぐれいってどんなお茶ですか?」

「フレーバーティーの代表よ」

「ふれーばー?」

 敦子も解らないようで、命は嬉しそうに語り出す。

「紅茶も緑茶も、お茶の葉だけを原料に作られます。フレーバーティーはそのお茶に香料や花・果物などを加えて香り付けしたお茶です。アールグレイならベルガモットの香料が加わってますね」

「ああ、だから匂いがキツいんだ」

 顔をしかめる敦子の姿に、命は奇妙なものを感じた。アールグレイの香りは強い。それを嫌う人はいるが、嫌いなら家で買って飲むというのも不自然だ。

 違和感を敦子に問いかけようとしたところで、永久がまた質問をする。

「どうして茶葉に香りをつけるのですか? お茶はそのままでも良い香りがするのに」

「そうね。今は世界中の美味しいお茶を新鮮なうちに飲めるようになったけど、昔はそうじゃなかったからかしら」

 十九世紀イギリスでは庶民の間にも広がるほど、紅茶は親しいものになった。けれどお茶の産地は中国やインドであり、長い海路の途中でどうしても鮮度が落ちてしまう。

「風味が落ちた紅茶をできるだけ美味しく楽しみたい。そういう工夫から始まったのだと思うわ。ベルガモットの香りの紅茶は十九世紀初頭にはあったらしいの」

「そんなに昔からあったのですか?」

 敦子が興味津々で問いかけたので、命も調子に乗ってしゃべり出す。

「英語で伯爵をアールと呼びます。アールグレイはグレイ伯爵が好んだお茶という説もありますね」

 トワイニングの紅茶缶を手に取って、命は微笑んだ。

「アールグレイを店に置くなら、トワイニングと決めた理由もあるんです。その昔、元祖アールグレイの名を巡って、ジャクソン社とトワイニング社が争ったんですよ」

「歴史あるものは、本家争いをするものだね。どちらが本家になったの?」

「ジャクソン社とトワイニング社が合併して、決着したわ」

「一つになったら、どっちも元祖になるわね。はぁ……そんな歴史がある紅茶だったんだ」

 敦子が呆れたようにため息をこぼした所で、命はしまったと気づいた。調子に乗ってお茶の話をしすぎたかもしれない。慌ててお茶淹れに戻る。

「渋いお茶は好きですか?」

「濃いめの方が好きね」

 ならばと、気持ち茶葉を増やして、蒸らし時間も1分増やす。

 初めてのお客様だから、ティーカップを選ぶのも楽しい。白地に紺のラインが一つ入った、シンプルモダンなティーカップに紅茶を注いで、敦子の前に差し出した。

「どうぞ。お口に合うと良いんですけど」

 敦子はカップを見下ろして、ぽつりと呟く。

「……色が薄い」

「え?」

「あっ……何でもない。いただきまーす」

 そっとカップを持って口をつける。ほんの少し口にしただけで眉間に皺がよる。

「……匂いもキツい」

「お口に合いませんでしたか? 淹れ直しましょうか?」

「あっ、ごめんなさい。大丈夫。私が淹れるより美味しい」

 ゆっくり飲みながらぽつぽつと語る。

「父が好きなお茶だったんだ」

「お父様が?」

 命はどきりとした。過去形の言い方が嫌な予感しかしない。

「一年前に亡くなったけど、今も家に空き缶があるわね。昔は淹れて貰ってよく飲んだな……」

「……ご愁傷様です」

「ありがとう。今日は不思議な日ね。会社に行きたくなくてズル休みして、なんとなく来た奥多摩は良いところで、大切な御守りを無くして、この店に出会った。幸不幸の落差がジェットコースターみたい」

「仕事に行きたくない日もありますよね」

 ちびちびと紅茶を飲みつつ、敦子は悩ましげに眉根を寄せた。

「実は、上司から海外勤務を打診されてて。私がイギリス在住経験があるからって、推薦してくれたの。大抜擢よ。でも……気が進まなくて、断ろうかと思って。でも上司も良い人だし、断るのも気が重いし」

 バックからハンカチを取り出して、ぎゅっと握りしめる。

「無くした御守り、父に貰った物なの。いつもは家にしまってた。今日は勇気を出したいから付いてきて貰ったのに、よりにもよって落とすなんて」

 はーっと地の底まで届きそうなため息をこぼし、カウンターに突っ伏した。

 その姿が忍びなくて、命は思わず声をかける。

「今日はもう暗くなるから、明日、朝になってから私も河原を探してみます。どんな形ですか?」

「神社で貰う赤い御守りで『学業守』って書かれてる。受験の時に買って貰ったやつ。こんな年まで持ってるなんて、ちょっとおかしいかもしれないけど……人間は生涯、学び続けた方が良いって父も言ってたから」

 だから仕事についてからも、スキルアップの勉強を欠かさず、その努力が実って上司に認められた。

「イギリスに住んでたっていっても、もうだいぶ前の話だし、昔と違うイギリスに行ってやっていけるのか心配で」

「街は変化しますが、それでも変わらないものもあると思いますよ」

「海外に住んだことあるの?」

「住んだことはないですが、紅茶の買い付けにインドやスリランカへ毎年行ってます」

「へー。インドにスリランカ。それは……凄いわね」

「いんど、すりらんか……それはどういう国ですか?」

 ずっと大人しく二人の会話を聞き続けた永久が口を挟む。瞳には好奇心の色が見えた。

「私にとっては紅茶の国。もちろん、それだけじゃないけど。特にインドは広いから」

「紅茶の国か……」

 敦子は紅茶缶をじっと見つめた。

「父が亡くなって、同じ紅茶を買って飲んでみたけど、父の淹れた味と違う気がして。淹れ方が違うんじゃないかと思ったけど、プロが淹れても父の味にならないのね」

 敦子が寂しげに語ると、命も苦しくなった。父を思う気持ちは痛いほどわかるから。

「同じブランドの同じ種類。茶葉は変わらない。けど味が違う。どんな風に違いますか?」

「もっと色が黒っぽくて、匂いもここまでキツくなかった気がする。でも味は薄くは無かったの……まあ、だいぶ前の話だし、私の記憶違いかも」

 命がうんと悩んでいると、永久が口を挟む。

「茶葉が同じでも水が違うとか? 紅茶は水も大事だって、命さん言ってましたよね」

 永久の言葉を聞いて、命はぽんと手を叩いた。

「もしかして、それかも。次来る時、お父様の紅茶缶、持ってきてくれませんか?」

「茶葉は入ってない空き缶よ」

「それでもヒントになるかもしれないし、想い出の味を絶対再現しましょう」

「わかった。じゃあ、日曜日にまた来るわ」

 命が力強く言い切るのを見て、敦子は表情を和らげた。

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