2話

 空き家の古民家は意外とこぎれいに整っていた。

 川を眺められる縁側に座ると、みことは鞄の中からおにぎりを取り出す。

 ホテルの調理場で余ったご飯で作ったおにぎりだ。本当は全て廃棄しなければいけないのだが、捨てるのがもったいなくて、こっそりと作って持ち帰っていた。

「はい、どうぞ」

 おにぎりをさしだすと、男はふわっと笑みを浮かべた。

「握り飯ですか。美味しそうですね」

 見た目は綺麗で女性みたいだけど、耳に心地よい低音が響く。

「いただきます」

 きちんと手を合わせて頭を下げて受け取り、美味しそうに頬張る。

 その間に水筒とタンブラーを取り出す。タンブラーの中に煎茶の葉が、水筒にはお湯をいれてある。水筒からタンブラーへ素早くお湯を注いで蒸らし、プラスチックのカップに注いだ。

 横を見れば、よほど慌てて食べたのか、男は喉をつまらせたように咳き込んでいた。

「はい、お茶をどうぞ」

「ありがとうございます」

 ぺこりと丁寧に頭を下げて、受け取り一口。

「凄いですね。味が濃い……美味しい」

「良かった。狭山の煎茶。味がしっかりしてるからおにぎりによく合うの」

「こんな味のお茶、初めて飲むけれど、とても美味しいです」

「埼玉県の狭山茶は火入れの強さが特徴で、力強く旨味が強いお茶なの」

 みことが嬉しそうにお茶を語りだすのを、男は穏やかに聞いていた。命の話を丁寧に聞き、優しく微笑む姿が怪しい人に見えない。衣装は限りなく怪しいのだが。

 新緑が眩しい庭に、川のせせらぎが聞こえる。平屋の縁側は、どこか懐かしい気配がした。

「貴女はとてもお茶に詳しいのですね」

「私、お茶専門のカフェを作るのが夢なの……こんな場所でお店ができたら良いのにな……」

「お店?」

 男が首を傾げて問いかけると、命はするすると楽しげに語り出す。開業資金を貯めるために頑張って働いて、ある程度貯まってきた。

「でも、都内はどこもテナント料が高くって」

「てなんと……?」

「場所を借りるお金ってこと」

「なるほど。間借りする賃料ですね」

 どこか古風な言い回しに、命はくすりと微笑んだ。

「もしここが店なら、貴方が記念すべき、第一号のお客さんよ」

「客と言っても……僕は、お金を持ってないけれど。店なら対価が必要ですよね?」

 口元についたご飯粒を拭って、申し訳なさそうに頭をさげる。

「お金はいらない。美味しそうに食べてたから。見てて楽しかった。お金にならない価値がある……プライスレス」

 ちゃきーんとキメ顔で言ったら、男はぽかんとした後、くすくす笑った。

「ぷらいすれす……という言葉は知らないけど、君はずいぶん前向きな人なんですね」

 前向きという言葉は、最大の褒め言葉だ。よくて、おおらか、楽天家。

 友人達なら、能天気、後先考えない、無鉄砲と散々に言うだろう。

 でも……命は幸せも不幸せも、それなりに経験し、それを乗り越えて今があって、そして悟ったのだ。

「悩んだり、泣いたり、立ち止まってても幸せはやってきてくれないから。だから『まいっか』っていいながら、今が楽しければそれでいいって、そういう気持ちで前に向かって歩いて、毎日を生きる。そのほうが楽しいの」

 また男は驚いて、今度はくしゃりと顔を崩して笑った。

「禍福はあざなえる縄の如し。貴女は不幸も幸福に変えて生きていくんですね。凄いな」

 男の所作も話し方も上品だ。落ち着いた老人のようでもあり、無垢な幼子でもあるような不思議な空気を纏った人だ。

 美味しそうに最後の一口を食べ終えるのを見ていたら、命もお腹が空いてきた。もう一つのおにぎりを取り出してかじりつく。

 がぶり。塩気の効いた白米の中から、肉の旨味を感じる。ローストビーフの切れ端を拝借して入れたのだ。切れ端とはいえホテルで出すもの。捨てるのがもったいない。

 塩加減もほどよく、米もしっとりしている。

 おにぎりを食べて、お茶を飲み、お腹が満たされると一気に眠気が襲ってきた。

 電車で少し寝たとはいえ夜勤明けだ。確実に睡眠不足で、視界がぼやける。

 外で、見知らぬ男の隣で寝てはいけないと理性は告げるのだが、眠気に負けて命はまぶたを閉じた。


「……みこ……そろそろ起きた方が良いんじゃないかな」

 耳元でささやくような低い声が聞こえる。温かな何かに包まれて、まどろむ時間が心地よくて。まるで父の腕の中で寝た子供の頃のようだ。もう少しだけ寝かせて……と思ってはたと気づく。

 布団の感触じゃない。ここは何処だ?

 おそるおそる目を開けると、自分を見下ろす金色の神秘的な瞳と目があった。

 男に抱きしめられるような形で寝ていたことに気づいて、慌てて起き上がる。

「ど、どうして……」

「急に眠ってしまったからびっくりしました。人間は弱いし、温めていたんです。でもそろそろ日も傾くし、いつまでも寝てると風邪を引きますよ」

 おっとりと微笑む姿は落ち着いていて、まるで親に注意されているようでばつが悪い。

 気まずさで命は目を逸らし、空を見上げた。陽は傾き、夕暮れに近づいている。春とはいえ、冷えはじめる時間帯だ。ぶるりと身を震わせると近くに温かい気配を感じた。

 縁側の近くで、青い焚き火が燃えている。不思議な色合いに思わず凝視してしまう。

 焚き火が燃えても、雑草は燃える気配がない。その現実離れした光景に冷や汗が流れた。よく見れば男の耳もしっぽも動いている。コスプレの耳が動くか?

 男はじっと命を見つめて告げた。

「貴女が寝ている間、ずっと考えていました。貴女の食事もとても美味しかったですし、とても優しそうですし……決めました」

 男は立ち上がり、綺麗な所作で小さくお辞儀をした。

「食事をご馳走してもらった対価。身体で払いましょう」

「身体で払う?」

「そう。貴女の店で僕も一緒に働きます」

「働くって……私貧乏だから給料なんてまともに払えないけど」

「生きる上で最低限の衣食住さえあれば、お金はいりません。それにね……」

 そう言った瞬間、男の身体から小さな光の泡が立ち始める。きらきら光る泡に包まれた姿は、幻想的なほどに綺麗で思わず見惚れた。男が手のひらを差し出すと、青い炎が浮かぶ。

「僕は人間じゃなくて妖狐だから。お金の使い道。知らないんです」

 青い焚き火も、手のひらの炎も、手をかざすと温かく、トリックには見えない。

 そのとき父の言葉が頭を過ぎった。

 ――あやかしは怖いんだぞ、みこをさらってしまうかもしれない。

 一瞬ぶるっと震えて男をじっと見る。だが、よく考えれば寝ている隙にいくらでもさらえたのだ。寝てしまった命を起こさず、そっと温めてくれた優しさに、あやかしだとしてもお人好しなんじゃないかと思ってしまう。

「まいっか。安く雇える従業員と思えば良いかも」

 妖狐と言われて、まだぴんとこない。

「……本当に前向きすぎて心配になりますね」

「よく言われる」

 私が笑ったら、男も釣られたように笑った。

「どうして……ここで行き倒れてたの?」

「僕のうちだったので……」

「へ?」

「たぶん……何十年も、あそこで眠ってたんでしょう。久しぶりに起きました。貴女が見つけてくれて、結界を破ってくれたから、僕は起きられました」

「結界?」

「この家に入るときに壊してくれましたよね」

 ……枯れ枝でも踏んだかと思っていたが、結界を壊していたらしい。

「この家をお店に使ってください。長年、誰も使っていない家ですが、僕がいたから痛んでないはずです」

 この狐は古民家に憑いた座敷童のようなものだろうか?

「賃料は?」

「僕は人間ではないから、お金はいりません」

「格安物件に、無料の従業員だなんて運がよかった」

「……自分でいうのも何だけど……身の危険は考えないのですか?」

「悪い人に見えないから。私、人を見る目には自信があるの」

 綺麗だけど男の人にしか見えなくて。空気が柔らかで、穏やかで、優しそうに見えたのだ。

 差し出されたおにぎりを、とても美味しそうに食べて、お金がないと申し訳なさそうに言う。

 素直で誠実な人に見えた。だから……命の直感がこの人はいい人だと告げたのだ。

 命が胸をはってみせたら「僕……人じゃないんですけど」と言いながら、男は盛大に溜息をつき、それからまた笑った。

 ぴこぴこ動く耳や、ゆらゆら揺れる、もふもふしっぽに、触りたくて命はうずうずだ。

「ねえ……そのしっぽ触らせて」

「しっぽはだめ。耳ならいいですよ」

 男が少しだけ身を屈める。そうしないと命の手が頭に届かないから。そうっと狐耳に触れて見ると、予想以上にふわふわふかふかで、幸せ気分。

 ……この触りごこち、つけ耳ではない。

「ペットを飼ってみたかったし、ラッキー」

「ぺっと……というのが何かわからないけど、僕は貴女に飼われるんですね。……貴女の流儀に習うなら、まいっか……かな?」

 くすりと笑って小首を傾げる姿が和む。癒し系ペットのようだ。

「ペットは家族よ」

「家族……それはいいですね。すごくいい。ぺっと、いい」

 とびきりの笑顔を浮かべて、しっぽをぶんぶん振る。どうやら気に入ったらしい。

「私の名前は葛木かつらぎみこと。貴方の名前は?」

「名前……? 久しく誰にも呼ばれてなかったから……忘れてしまったな……あっ、思いだした。永久とわと呼ばれていました」

「良い名前ね。これからよろしく。永久とわ

「よろしくお願いします。みことさん」

 永久は丁寧に頭をさげた。名前を呼んだその時、なぜか今までより、幼く見えた。声も少し高くなった気がする。気になったが、……まいっかと忘れることにした。

 よろしくとばかりに、手を差し出したが、握手を知らないらしい。代わりに指切りげんまんをする。


「ずっと抱えてくれてたの? 何時間も暇だったんじゃない?」

「あやかしにとっては、ほんの瞬きするような時間だよ」

 人間とは時間の概念が違うらしい。

「ありがとう」

 狐耳に触りたくて、子供を褒めるみたいに頭を撫でてみたら、永久が初めて恥じらうように眼をそらした。

「僕を飼うのはいいけれど……たぶん、けっこう、面倒だよ」

「その毛並みを維持するのに、毎日のブラッシングが欠かせないとか……。凄い大飯ぐらいだとか?」

 おそるおそる聞くと。永久は命の髪の毛の先にそっと触れた。

「命さんは僕のご主人様なんでしょう? どんな手を使ってでも、僕は命さんを守るよ。どんな手を使ってでも……ね」

 今までの可愛らしい笑みとは違う。何か不穏なものをにじませた妖艶な笑み。


 …………もしや、この狐。ヤンデレ?

 あまりに面倒な問題で、命は思考を放棄した。

「まいっか」

 想定外の出来事が多すぎて、この先どうすればいいかもわからない。でも空元気でもそう言うしかない。

 後戻りできないなら、人生前のめり。結果オーライ。根拠はないけどきっと上手くいく。

 のんびり田舎で、古民家カフェを始めよう。……あやかしのおまけつきで。

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