座敷狐と釜炒り緑茶とプリン

1話

 ホテルの調理場は眠らない。

 朝から晩まで客は絶えず、深夜はひたすら仕込みの時間だ。翌日のために、大量の野菜の下ごしらえをし、何時間もスープやソースを煮込む。

 夜勤の仕事は地味な作業ながら、奥が深く勉強になる。いまどきコンソメスープを一から作る店はそうそうない。昼より夜勤のほうが手当も多い。

 稼ぎながら学ぶなら、これほどいい仕事はないとみことは思っていた。

 けれどやはり体力的にはキツい。もうそろそろ限界かもしれない。夜勤明けのその日、命はひどく疲れていた。

「朝日が目に痛いわね」

 ぼやきつつ駅へ歩く。早朝だというのに今日も新宿は人が多い。日曜だから、これからもっと人が増えるだろう。

 重い足を引きずって、やっとの思いで中央線のホームまで辿り着く。

 命の家は立川で、中央線で新宿から一本だが寝過ごすと大変だ。西へ行きすぎれば、終点は豊田か高尾。あるいは立川で分岐する青梅線で、青梅まで行ってしまう。

 寝ぼけた目でぼんやりと電車が来るのを待ち受ける。ホームドアが開いた瞬間、車内にふわりと白い綿毛が見えた気がした。つい目で追ってしまい、気づくと椅子に座っていた。

 瞬きしたら、白い綿毛は消えていた。立ち上がろうにも、今日はどうしようもなく疲れている。

「寝過ごしても良いか……」

 うとうとしながら考える。これはどこ行きの電車だったかな? 

 終点から折り返して、また都内に出てしまうのかな……そう思いつつ眠りの淵に落ちていった。

 オレンジ色のラインの車両が、西へ、西へと走り出す。


 ふと命が目を覚ましたら、そこは見慣れない駅だった。どこまで寝過ごしたのかとホームに出て気づく。

 目の前に山があった。振り向いても山。どこまでも山は連なり、山の中に駅があった。

「ここ……どこ?」

 さっきまで新宿にいたはずなのに、山の中に放り出され、狐に化かされたような気分で、駅名を確認する。

 「奥多摩」

「……なんで奥多摩?」

 青梅線の終点は青梅で、その先に奥多摩線があり、終点は奥多摩駅だ。とはいえ、一度青梅駅で乗り換えが必要なはずだ。

 時刻表を確認し解った。命が乗ったのは「ホリデー快速おくたま」だったのだ。

 土日の朝に三本だけ。新宿から乗り換えなしに奥多摩まで辿り着く。

 何千回中央線に乗ったかわからないが、こんなレアな列車に乗ったのは初めてだ。

 時刻を確認すると、新宿から一時間半ほど。短い時間とはいえ、しっかり寝たせいか妙にすっきりしている。

 何より山の新鮮な空気が清々しく、せっかくここまで来たのに何もしないで帰るのはもったいない気がした。


 駅舎を出て振り返る。古い田舎の土蔵のような駅舎には、筆文字で荒々しく「奥多摩駅」と書かれている。その背後には雄々しく山がそびえていた。

 駅舎の前、通りを挟んで向かいには、バスが何台も止まっていた。ここから更に山の奥に向かうにはバスに乗り換える必要があるのだろう。

 登山客が行き交う駅前には、スーパーもコンビニもなく、ひなびた田舎のような、雑貨屋や肉屋が並んでいる。

 先ほどまでコンクリートジャングルの中にいたせいか、妙に新鮮な気分になった。

 ちょいちょい。

 パンツの裾を引かれるような感覚に、思わず足下を見下ろすと、白い動物がいた。最初は猫? とも思ったが、三角の耳と太いしっぽから狐だなと思い直す。

「駅前に狐……? なんだか小さくない?」

 手のひらサイズというくらい小さな狐は、しきりにみことの裾をひっぱってとことこと歩き出す。

 しばらく歩くとくるりと振り返り、じっと命を見つめた。

「まさか、ついてこいって言ってるの?」

 いくら山の中とは言え、駅前に狐がいたら注目を浴びそうなものだが、誰も狐を見ていなかった。

 おかしいなと思いつつ、狐を追いかけて命は歩き出した。

 駅を出て左の道沿いを歩き、交差点を右に曲がると橋があった。狐は欄干の上にひょいと飛び乗る。

 危なくないのだろうかと橋から下を見下ろすと、深い渓谷が眼下に広がった。

「多摩川だっけ? ……綺麗」

 水底まで見えるくらい水が澄んでいて、流れる水流の音が心地よい。山の緑と川のせせらぎにしばらく見とれていると、袖をくいと引かれる。

 狐の黒い瞳が『こっちにこい』と言ってるように見えた。

 しかたなくついていくと、橋を渡り終え、脇道へと入っていく。なぜ、狐に案内されて歩いているんだろう……と自分でもよく解らなくなるが、寝起きでぼんやりする頭は物事を深く考えるのには向いてない。

「まいっか」

 思わず口癖がこぼれ落ちた。

 細い脇道を少し歩いた辺りで、立派な門構えの家に辿り着く。瓦屋根と今時珍しい敷居がある門は、少し空いていた。

 その隙間から狐はするりと中に入り込む。

 流石に人の家に勝手に上がり込むのは……とためらうも、よく見ると門の入口は蜘蛛の巣だらけ。門の向こうの庭先は雑草まみれだった。

「空き家なのかな? それでも不法侵入だけど……まいっか」

 また狐に急かされそうだと観念して、扉をもう少し開けて敷居をまたぐ。


 ぱきん。何かを壊した感触があった。枯れ枝を踏み抜いただろうかと思いつつ門をくぐり抜けると、甘い匂いが漂った。桃色の花弁がひとひら風に舞う。

「桜?」

 あたりを見渡すと飛び石が並び、右手側に平屋の一軒家があった。正面奥の先に桜の木が見えて、その向こうは渓谷があるのか、川の水が流れる音が聞こえた。

 ゆっくりと近づくと、満開に咲き誇る桜色が新緑の中に彩りを添えて美しい。


 桜を見上げたまま、一歩踏み出して、また何かを壊した感触があった。

 いきなり突風が吹いて桜吹雪が宙を舞う。思わず目を閉じて、ゆっくり目を開くと桜の花びらが敷き詰められた地面に男が倒れていた。

 浅葱色の着物を着ている。長い白銀の髪は日の光に照らされて輝き、その頭には狐のような耳があった。

 色白の肌、長いまつげと鼻筋の通った綺麗な顔立ち。

 桜と着物と狐の耳が雅な風情を醸し出していて、うっかり見惚れた。

「……コスプレ撮影、とかじゃないわよね」

 思わず周囲を見渡すが、カメラマンはいない。着物に狐耳と、現実離れしてる外見が、コスプレにしか見えない。

 異常だ。だが、考えるのを放棄した。

「まいっか」

 気にしても仕方がない。人が倒れているなら助けないといけない。しゃがみ込んで顔色を伺う。肌は白いが頬は薄ら赤みがあって、顔色は悪くない。長いまつげがぴくりと震えた。

 ぐ〜。腹の音が鳴り響く。

「もしかして、お腹空いてる」

 小さく頷いた気がして、思わずくすりと笑みが零れる。

 男が薄く眼をあけると、金色の神秘的な瞳が現れる。ぼんやりみことを見つめた。

「ご飯食べる?」

「……ご飯」

 ぼんやりとした視線が、ピントがあったように輝いた。

 その瞳が邪気のない子供のように見えて、自然と手を差し伸べた。

 それが彼との出会いで始まりだった。

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