【書評】バフチン カーニヴァル・対話・笑い(桑野隆/平凡社)

 丸谷才一の紹介で、バフチンに興味を持って読んだが、基礎的な教養のない私にはむずかしくてチンプンカンプンであった。

 以下、気になった文章にコメントを残す。


『どのようなテクストもさまざまな引用のモザイクとして形成され、テクストはすべて、もうひとつの別なテクストの吸収と変容にほかならない』(12ページ)

 小説というのは、全体で大きな河の流れを構成しており、川上の影響を受けていない川下はありえない。新しく生まれる小説の中に、過去の小説の水はかならず流れ込んでいる。その小説単体で、その小説を理解しようとするのも誤りではないが、今までの流れというものを把握しながら読むと、その豊饒さは増すのではないだろうか。



『重要なのは、作者と主人公が「対等な」関係にあること、かれらの声が「融合していない」こと、そしてそうした声や意識が組み合わさって出来事という統一体をなしているということである』(14ページ)

 作者と主人公が対等ではない、モノローグ的な小説を否定するわけではないが、わたしは、ダイアローグ的な小説のほうが好きである。少なくとも、登場人物の声と作者の声をイコールの関係と断じる人は、小説を読むのに向いていないように思う。



『バフチンによれば、本来、世界あるいはわたしたちには「完結」などはありえないのだが、芸術家の場合は「仮に完結させる」ことが許されている』(39ページ)

 これが小説なり、何なりの芸術作品に触れる理由の一つであろう。我々にはセイカツしかない。セイカツにははじまりもおわりもない。セイカツ(アクセントはセ)に追われ、追い越されて行く我々は、物事の終わりをときにもとめる。



『他者の文化をよりよく理解するためにはいわばそこに移り住んで、みずからの文化を忘れて世界をこの他者の文化の眼で見ることが必要であるという、ひじょうに普及してはいるが一面的で、またそれゆえにまちがった考えが存在する。〔……〕理解にとって重要なのは、創造的に理解しようとしている他者にたいして、理解者が時間・文化において外在的であることである。実際、自分の外貌さえ当人は真に眼にし、その全体を意味づけることはできないのであり、いかなる鏡も写真も助けとはならない。そのひとの真の外貌を見、理解できるのは他の人びとだけであり、それは彼らが空間的に外に位置しており、他者だからなのである』(40ページ)

 人間は社会的な生き物であり、他者を必要とする。それはなにも、社会を営んでいくためだけではない。外的な関係性のためだけではない。内的な、自分自身を知り、規定するためにも、他者の視線が必要なのである。自分の背中の様子は自分の目で見ることはできない。他者の「言葉」を必要とする。背中、自分自身の中にあるが、自分ではのぞくことができないものは、他者に教えてもらうしかない。

 創作物でいえば、主人公に対して、他の登場人物という他者を登場させることができる。しかし、その登場人物が、著者の分身にすぎないとき、その主人公の全体像は、いびつなものになる場合が多い。他者を他者として描けるかどうかは、その作者の力量をはかるうえで、ひとつの物差しであろう。

 他の登場人物の前に、著者という他人がいるではないか。たしかにそうだ。しかし、主人公が単なる著者の投影でしかないとき、主人公の形がずいぶんといびつなものにならざるをえないケースが生じる。



『たとえば「感情移入」なるものに、バフチンはきわめて否定的であった。「貧窮化」とすら呼んでいる。ただ感情移入するだけでは、二人(以上)が出会った意味がない。「他者」として出会うのでなければ、両者のあいだに新たな意味が生まれうる貴重な機会がみすみす失われるばかりか、当人の自己喪失にもつながりかねない、という。感情移入するものは自分に責任を持っていないというわけだ。

 バフチンのこうした姿勢からは、ハンナ・アーレント(一九〇六‐七五)の『暗い時代の人間性について』(一九五八)が思い起こされる。アーレントは、政治空間においては〈同情〉は〈距離〉を廃棄し、その結果〈多元性〉をも破壊するため、他者に対する相互承認の基礎たりえないと述べていた。〈同情〉は〈連帯〉とはちがうというのである。バフチンもまた〈同情〉ではなく〈友情〉を、〈統一〉ではなく〈連帯〉を志向していたといえよう』(43ページ)

 ひとつの見方であり、ちがう見方を否定するものではないと思うが、この文中にある視点を理解、前提としなければ、把握がむずかしい芸術作品があるのもまた、事実であると思う。

 「感情移入」を目的に、文物に触れるのはまちがいではない。しかし、そればかりではつまらなくはないだろうか。他者と出会う、自らが他者となる作品にも触れれば、それは「感情移入」するものばかりに触れてきた者にはおもしろくない、難解なものに映るかもしれないが、視野が広くなる可能性は高い。

 世の中には、感情移入を拒否する創作物もある。今の時代には合わないかもしれないが、その壁の向こうに豊饒な世界が広がっている。そういう作品を読むことを通じて、私も守っていければと考えている。

 たとえば、日本のSFに果たした功績や、オチを味わうショート・ショートの名手という星新一のイメージをいったん払拭して、星とはどういう作家であったろうかと考えたとき、「感情移入」を拒否する文体の作家というイメージが、私には浮かんでくる。星の突き放した文体の根源の謎をとくには、この「他者」がキーワードになるのではないかと考えている。



『晩年のバフチンは、「他者のために・他者を介して・他者の助けによって自身をあきらかにすることによってのみ、わたしは自身を意識し、自分自身となる」と記すとともに、「分離・孤立・自己への閉じこもり」という不自然な状態、錯誤こそ「自分自身の喪失の基本的理由である」と警告を発している。もともとわたしたちは「境界線上」にあって、さまざまな出会いを経験しているものなのである』(127ページ)

 各種SNSのやりとりやニュースなどを読むにつけ、上の言葉は、現代人の抱えている病巣を的確に表現しているように思う。

 我々は世界史という書物の単語にすぎない。意味をなすには、フレーズの中に正しく収まっていなければならない。それは他者を必要とするということである。他者の存在があってはじめて、自身の意味(存在)を固定することができる。

 そういう視点が現代社会では大きく欠如している。



『どんな本も誰かに反論しているのだ』(168ページ)

 先に述べた、川の話につながる考えである。反論が反論を呼び、大きな河を形成しているのである。その共鳴を別の言葉でいえば、豊穣という言葉になる。



『作品というものは、その淵源を遠い過去に発している。偉大な文学作品は何世紀もかけて準備される。(……)。作品をその時代の状況や近い時代の状況からのみ理解し説明しようとすれば、作品の奥深い意味を洞察することはけっしてできない。時代に閉じ込めると、作品があとあとの時代に持つであろう未来の生も理解できない(……)。作品というものは、みずからの時代の境界を打ち破り、何世紀をも生きる、つまり、大きな時間のなかで、それもしばしば(偉大な作品ではつねに)同時代におけるよりも集中的で十全な生を送るものなのである』(235ページ)

 上で語った、大きな河をイメージすればよいように思う。ある作品をその作品の中だけで理解しようとするのは、きわめてもったいない話である(オリジナリティをはき違えている、作者や読者はそうは受け取らないかもしれないが)。その作品が影響を受けた先行物を踏まえたうえで、読んだ方が、理解も早いし、その作品世界が豊饒なものになる。お得な本の読み方なのである。書物の大河の中で、個人のオリジナリティなどというものは矮小なものにすぎない。それにこだわりすぎた作品は、川の横にできた、よどんだ水たまりであり、読む価値はほとんどないと私は思う。

 また、大河という視点を胸に、過去の書物を読めば、その古典は輝き、現代性を帯びる。



『ひとつの意味は、もうひとつの、「他者の」意味と出会い、触れあうことにより、みずからの深みをあきらかにする。両者のあいだにいわば対話がはじまるのであり、対話がこれらの意味、これらの文化の閉鎖性と一面性を克服するのである。わたしたちは、他者の文化にたいして、それがみずからは立てていなかった新たな問いを立て、他者の文化のなかにわたしたちのこれらの問いにたいする答えを求めるのであり、他者の文化はわたしたちに答え、わたしたちのまえにみずからの新たな側面、新たな深い意味をあきらかにする。みずからの問いかけ(ただし真剣でほんものの問いかけ)なしには、別のものや他者をなにひとつ創造的に理解することはできない。二つの文化のこのような対話的出会いにさいしては、両者は溶け合うこともなければ交じり合うこともなく、それぞれがみずからに統一性と開かれた全一性を保っているのだが、たがいに豊饒化する』(236ページ)

 多様性のあるべき姿を端的に表している文章とも読み取れる。ここで大事なことは、「同化」を目指さないことであろう。人類の歴史は、この「同化」という幻想のせいで、ずいぶんと損をしている。他者を認めるという言葉の奥底に眠る、おそらく、本能的に人間が求めている「同化」という欲望に我々は打ち勝つ必要がある。

 「他者」が「他者」として存在しなければ、「私」は「私」として存在し得ない。有史以来、国と国、民族と民族という大きなカテゴリーなだけでなく、家庭や会社という小さなカテゴリーにおいても、「他者」と「私」の垣根をなくそうとする動きが、幻想が、さまざまな悲喜劇、多くは悲劇を生んできた。

 多様性がなければ人類の発展どころか、現状維持すらもむずかしい。その点を大切にして、あらゆる社会的行動はなされるべきであろう。

 また、この話は、本を読む際の方法論としても有益なように思う。



『世界には、最終的なことはまだ何ひとつ起こっておらず、世界の最終的な言葉、世界についての最終的な言葉はいまだ語られていない。世界は開かれていて自由である。いっさいはまだこれからであり、つねに前方にある』(242ページ)

 逆に言えば、終末を世にもたらさないために、我々は、「他者」を強く意識して「私」を認識し、「他者」と「対話」を重ねることにより、世界史という物語が終わらないようにしなければならない。最後の審判がくだるのを、なるべく遅らせなければならない。

 以上、私の知識不足から、バフチンの業績についてはほとんどわからなかったが、彼の言葉などから、いろいろと考えることはできた本であった。

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