【書評】「時代小説の愉しみ」(隆慶一郎/講談社文庫)を読む

 時代小説家である隆慶一郎のエッセイ。気になった箇所にコメントをつける。


『コンクールに入選することと、プロのシナリオライターになることとは、根底的に違う。プロの場合、自分の好きな材料で好きなように書くというケースが極端に少ないからだ。つまり注文仕事である。お仕着せの仕事にうまく自分を感情移入させる技術は、いいシナリオを書くという技術とは別個のものである』(51ページ)


 大枠で小説家やマンガ家も同じことが言えるのではないだろうか。

 また、原作付きのテレビドラマがうまくいかない理由のひとつも、提示しているように思う。

 お仕着せ(原作)を破壊しないように、自分のカラーを出す技量も度量もない人間がシナリオライターになると、再度、「セクシー田中さん」のような悲劇が起きるように思う。

 自分の仕事がどういうものなのか整理できていないシナリオライターが多すぎる気がする。




『どいつもこいつも、恋愛の自由だとぬかしてべたべた腕なんぞ組んで歩きやがって、手前の御面相を鏡でとくと見ろといいたいね。恋愛ってのは断じて美男美女のものだ。誰でもってわけにゃゆかねえんだよ』(104ページ)


 フランス文学者である辰野隆の有名な言葉。耳目を惹くフレーズなので、池田弥三郎や丸谷才一もエッセイで言及していた気がする。

 現在の日本人のライフスタイルからして、あまり大きな声では賛同できない言葉だが、私はまったくもってその通りだと思う。

 我々にあるのは「セイカツ」(アクセントはセ)、ただそれだけである。凡人は創作物で胸を高鳴らせて、それで満足せよ。




『信長という人間がこの世に存在しなかったら、歴史はどう変っていただろうか。

 恐らくは越前・近江・紀州・播磨・備前・備中には、「門徒共和国」が成立し、広大な寺内町と公界を持ち、最新の武器鉄砲を独占し、「侍身分」の領国と果てしない戦いを長期にわたってくり広げていた筈である。

 ひょっとすると「侍身分」は「百姓身分」に敗北し、日本全国が昭和二十年を待つまでもなく、早々と主権在民の共和国になっていたかもしれない』(116ページ)


 信長の宗教への対応というのは、たしかに、現在の我々に与えた影響が大きい。

 信長、秀吉、家康を経て、日本の宗教界というのは一変してしまった。不徹底ながら、政教は実質的に分離され、宗教組織は、行政の末端に組み込まれた。

 宗教から武器を取り上げるために、信長は徹底的な炙り出しと数度に及ぶ大虐殺を行った。それが必要なことであったかどうかはわからないが、その行動の先に、現代日本人と宗教の今の関係があることを忘れてはいけない気がする。

 信長がいなかったら、明治維新が失敗していたらと、歴史のイフを考えることで、我々のもつ「常識」が揺さぶられて、新しい知見を得ることもある。

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