【書評】萩原朔太郎「郷愁の詩人 与謝蕪村」(青空文庫)
与謝蕪村と松尾芭蕉について書かれた薄い本。青空文庫で読めるので、暇ならば一読あれ。
私自身、俳句は門外漢だが、カクヨムの知り合いで俳句詠みがひとり、芭蕉について小説を書いている人がひとりいる。その影響で、蕪村および芭蕉とはどういう人なのか気になり、本書を手に取った次第である。
蕪村と芭蕉に分け、気になった箇所と句を以下に挙げる。
〇与謝蕪村
『ついでに言うが、一般に言って写生の句は、即興詩や座興歌と同じく、芸術として軽い境地のものである。正岡子規以来、多くの俳人や歌人たちは伝統的に写実主義を信奉しているけれども、芭蕉や蕪村の作品には、単純な写生主義の句が極めて尠く、名句の中には殆どない事実を、深く反省して見るべきである。詩における観照の対象は、単に構想への暗示を与える材料にしか過ぎないのである』(42ページ)
『単に対象を観照して、客観的に描写するというだけでは詩にならない。つまり言えば、その心に「詩」を所有している真の詩人が、対象を客観的に叙景する時にのみ、初めて俳句や歌が出来るのである。それ故にまた、すべての純粋の詩は、本質的に皆「抒情詩」に属するのである』(56ページ)
個人的に、これは実にふしぎな話である。カメラというものが登場した際に、写実主義は衰退するのが自然のように思うのだ。前後の流れが逆な気がする。正岡子規的な詩を越えて、芭蕉や蕪村のような詩が生まれたというのならば、私の中で、話がすっきりとするのだが。
写実的なものは、写真や映像に任せてしまえと、どうしてならなかったのだろうか。ふしぎな話である。
上の状況は、小説にも言えることだが、19世紀的な物の見方を引きずっているということか。どうも私はあまり、写実主義の藝術に触れていないので、理解が浅い。
〇松尾芭蕉
『日の道や葵かたむく五月雨』
葵はヒマワリのこと。日本には、17世紀におそらく観賞用として渡来したとのこと。
『凩に匂ひやつけし帰り花』
帰り花は、季節外れに咲く花のこと。返り咲きの花。
『大風の朝も赤し唐辛子』
朝はあしたと読む。とてもよい句だ。こういうイメージがわかりやすく鮮明にわく句はわかる。
『寂しさや華のあたりのあすならふ』
この句には萩原の長い注釈がついているのだが、良い文章である。
『「あすは檜の木とかや、谷の老木のいへることあり。きのふは夢と過ぎてあすは未だ来らず。生前一樽の楽しみの外、明日は明日はと言ひ暮して、終に賢者のそしりを受けぬ。」という前書きがついている。初春の空に淡く咲くてふ、白夢のような侘しい花。それは目的もなく帰趨もない、人生の虚無と果敢なさを表象しているものではないか。しかも季節は春であり、空には小鳥が鳴いているのである。
新古今集の和歌は、亡び行く公家階級の悲哀と、その虚無的厭世観の底で歔欷しているところの、艶に妖しく媚めかしいエロチシズムとを、暮春の空に匂う霞のように、不可思議なデカダンスの交響楽で匂わせている。即ち史家のいわゆる「幽玄体」なるものであるが、芭蕉は新古今集を深く学んで、巧みにこの幽玄体を自家に取り入れ、彼の俳句における特殊なリリシズムを創造した』(80ページ)
『初春の空に淡く咲くてふ』というフレーズがきれい。てふは、蝶のこと。
後半は、私が、新古今集を読むことはできる理由が書かれている。歔欷はきょきと読む。すすり泣き、むせび泣きのこと(広辞苑)。
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