『吾輩は猫である』の読み方
吾輩は猫である。この、最後まで読んだ者はだれもいないと言われている小説を再読した。
ちゃんと頭から尾っぽまで読んだ者は少ないが、いることはいるので、上の文言はまちがっている。
しかし、頭から尾っぽまで通読する必要のない小説という話なら、私は首を縦に振る。
結論から言えば、この小説の醍醐味は軽妙な会話にある。その部分だけ読めばよい。
そこで、そのシーンがどこにあるのだと問われれば、答えは簡単である。空白の多いページの前後を読めばよい。空白が多いということは、会話の場面ということだからだ。
この小説は、筋などあってないような作りだが、ストーリーが進む部分は苦労せずに読める。
問題は、主人公をはじめとする『太平の逸民』(高等遊民)たちが繰り広げる雑談にある。ここでだれかが演説を口にしだすと、とたんに読みづらくなる。空白が一行もないページに遭遇する。
そして、この『太平の逸民』には、主人公である、名無しの猫も含まれており、その猫の独白が展開される第七話が、読了するうえでの最大の難所になっている。
七話は読み飛ばして一向に構わないと私は思う。
個人的な白眉は、最終話で繰り広げられる『太平の逸民』たちの最後の掛け合いである。ネットであらすじを読んで、ここだけ読むのもありだ。
あと、飼い主夫婦の会話には外れがないので、そこも読みどころ。
溺れながらの猫の独白で、急にこの小説は終わるのだが、それは、結果的に、この小説を終わらせる動機の説明にもなっている。
ネットなどを見ると、猫は最後に溺れ死んだことになっている。しかし、その直接的な描写はなく、直後に救われたと考えることもできる。続編に含みを持たせた終わり方と、私は受け取った。
最後に、吾輩は猫であるは、『高等落語』と揶揄された。しかし、『高等落語』だからこそ、他の同時期の作家の小説が読まれなくなったなか、この小説は生き残れたにちがいない。
文豪夏目漱石の作品だからというわけだけでなく。
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