ネットで尊いとされている例の生き物の話

 我が家には猫が二匹いる。

 うちの倉庫で母猫が産み落とした子猫を、よせばいいのに私の母が飼いはじめた。

 我が家において私に発言権などはないので、飼うのをやめさせることはできなかったが、おぼえやすくて短いなまえにしてください、という要求は通った。

 猫たちには、「毛の色、二文字」という、最もシンプルな名前がつけられた。


 世の中には、猫が飼いたくても、飼えない人が多くいる。

 住んでいる場所や世話をする人の問題があったりと、それぞれの事情で飼いたくても飼えない人がいる。

 そういう人の中には、猫カフェで欲求を満たしつつ、「いつか猫を飼いたい」と、店の猫をなでている人も少なからずいるだろう。


 それにしても、世の中というものは、本当に巡り合わせがよろしくない。

 猫と一緒に暮らして、できる限りの愛情を注いであげたい。

 一緒に寝てみたい。

 SNSに「うちの猫ですよ」と、画像を添付して自慢したい。

 そう考える人がいる一方、家に猫がいながら、ほとんど関心を示さない輩もいる。

 ここまで書ければお分かりの通り、私がそのひとりだ。


 我が家では、二匹の猫が、家中を我が物顔でかっしている。

 私はそれを苦々しく思いながら、我が母の指導にもとづき、トイレ用のトレイの横を通りがかかるたびに、中を確認して、ふんがあれば掃除をしている。

 彼らは、信じられない量および回数の糞をする。

 「なぜ、私がこんなことをしなければならんのだ」といきどおりながら、私は、我が母の目を気にして掃除に勤しんでいる。


 猫に興味のない人はご存じないかもしれないが、近頃は、やつらを外に出さないで飼うのが主流である。

 それに加えて、我が家の前には大きな道路があり、昔飼っていた猫がはねられた経緯から、彼らを外に出すのは厳禁である。

 しかしながら、猫の野生の血がそうさせるのか、彼らはすぐに外へ出たがる。

 私がドアや窓を開けるとき、音もなく忍び寄っていることがあるので、細心の注意を払って、それらを開けなければならない。

 そのたびに私は、なんで人間様がいちいち気を使わなければならないのだと憤慨を禁じえない。


 いちばん気をつけなければならないのは網戸である。

 少しでも隙間があると、爪を器用に使って外へ出てしまう。

 そうすると、帰宅途中に「どこかで見たことのある猫だなあ」と注視した末に、それが我が家の猫であることに気づいたり、「あれ、屋根の上に何かいるなあ」と近づいたら、我が家の猫だったりするのである。


 私が外で猫を発見すると、それは私にとっても彼らにとっても、徒労のはじまりである。

 私と彼らの関係は、伝説巨人イデオンにおけるロゴ・ダウの異星人とバック・フランの間柄、言い換えると、分かり合えないし、分かり合おうともしない関係にある。

 要は、私が近づくと猫たちは逃げるのである。

 どこまでも、いつまでも。

 結果、お互いに、体力と時間を不毛に消費することになる。

 それならば、放っておけという意見もあるだろうが、そうすると私が我が母に怒られることになるので、それはできない。

 万が一、猫たちが事故に遭ったとき、探していたというアリバイが欲しいのである。


 ちなみに、私の母が呼ぶと、猫たちは素直に彼女の元へ戻って来る。

 愛情をもって育てているので、母親だと思っているのだろう。

 そうすると、私と猫たちは兄弟のような間柄ということになるが、それを受け入れることについて、私はやぶさかではない。

 もらえる遺産が減るのならば、話は別だが。


 しかし、猫というのは不思議な生き物である。

 隙間があれば外に出ようとするし、花瓶を割る。

 食卓やクッキングヒーターの上にはのるし、風呂場でおしっこをする。

 小物をどこかへ持って行くし、ブレーカーを落として家を真っ暗にする。

 そして、これら人間の基準にもとづいた悪さをすれば、怒られることをどうやらわかっているようで、人間に見つかると逃げようとする。

 怒られることを理解する知能があれば、それをしておく理性もありそうなものだが、そこが畜生の悲しさである。

 しかしながら、それは人間もよくやることであり、程度として人間の方が害は大きい。

 我々もしょせん畜生にすぎない、悲しい生き物であることを猫は教えてくれる。


 以上、いろいろと書いたが、私と猫たちは、同じ飯は食わねど、同じ水道水を飲む同居人である。

 猫たちへの不満を口にするばかりでは、つり合いが取れないので、彼らの少ない美徳も書く。


 彼らは世の猫が愛する石油ストーブを好まず、冬でも暖を取る私のじゃまをしないのは、同居人として好感がもてる。

 また、テレビやCMに出てくる猫のように人間へ媚びることなく、常にふてぶてしい面構えを崩さないのもよい。

 なにより助かるのが、TwitterやYou Tubeを見る限り、うちの猫たちは、あまり鳴くこともなく、おとなしい部類に入るようだ。

 ひどいイタズラもしない。

 うちの猫たちが乱暴者に育っていたらと考えると、寒気がする。

 まあ、猫好きの人は、それもまたかわいいと受け止めるのだろうが。

 人それぞれである。


 私と猫たちは同居人であり、よく顔を合わせる。

 よって、仲良くなる可能性がなきにしもあらずな関係である。

 そのために、体がかゆいときにブラッシングを迫られて、いやいやいてやるときや、毎夜、私の部屋の前でドア越しにうるさくおやつをねだるので、静かにさせるためにキャットフードを投げ与えているとき、気まぐれに彼らと遊んでやろうと思う瞬間が私にもある。

 この際、問題なのは、年がら年中、人間に遊んでもらいたい犬とはちがい、猫の方も私と同じくらい気まぐれな存在であることだ。


 猫たちも、私と遊んでやろうと思うときがたまにある。

 私も、猫たちと遊んでやってもかまわないと、寛大な気持ちになるときがたまにある。

 このような関係にある我々に訪れる悲劇は、読んでいる方はすでに推測されていると思うが、お互いの遊んでやろうというタイミングがマッチングしないことである。

 そのために我々は、その距離を縮めることもなく、いつまでも単なる同居人で、家族になれないでいる。

 お互い、家族になりたいと思っていないが。



 ここから、我が家の猫に対して、実は好意を抱いているのではないかと匂わせる方向へ文章を持って行き、「悪口を書いているがやっぱり猫が好きなんじゃないか」と読む人に思わせるのは、エッセイの常套手段である。

 しかし、私はそのようなことはしない。


 長々と書いてきたが、今からが本題である。

 なぜ、私が、猫に対して興味が薄いのかについて話をしたい。



 猫のどういうところが気に食わないのかというと、それは人間を除く動物全般にも言えることだが、言葉が通じない点である。

 私はあなたとちがって、あいびょうと意思疎通が取れており、彼もしくは彼女の言うことがわかる。

 そういう主張をする人もいるだろうが、その手の者の相手は、他の人に任せる。


 しかし、「猫は人語を解さないからいいんだ」という反論には、半分同意する。

 たしかに、会社のぐちを猫に話して、正論で返されたら飼っている意味がない。

「腹が減った。もっと餌をよこせ」

「トイレがきたないぞ。こまめに掃除をしろ」

「暇だ。遊んでやるぞ」

 などと、始終、耳にするのは嫌だ。


 人間は言葉や文字とともに生きている存在である。

 言葉や文字の奴隷と言ってもいい。

 とくに私はその傾向が強い。


 朝、目が覚めたら本を読み、仕事中も書類や法律の条文と格闘し、家に帰ればラジオを聞きながらゲームをし、それに飽きたら自分の頭に浮かんだ文章を文字にする。

 こういう生活を好んで送り、時間がいくらあっても足りない者からすると、言葉や文字で意思疎通の取れない存在を、相手にするのがおっくうなのである。


 いやいや、そういう生活をしていると、疲れたり、ストレスがたまったりするでしょう?

 そういうときに、猫をでてはいかがですか?

 あなたも、ジェイムズ・ジョイスという偉大な作家をご存じでしょう?

 彼の奥さんは、ジョイスが書きあぐねていると、彼の幸運のシンボルである黒猫を部屋に投げ入れていたそうです。

 おそらく、そのときにジョイスはその猫をなでて、気分転換をしていたはずですよ。


 なるほど、もしかしたら、ジョイスはそうだったかもしれない。

 しかし、私はジョイスではない。

 ある本を読んでいて疲れがたまったら、私は別の本を読んでリフレッシュをする。

 猫などは必要ない。

 猫が口を開いて話し相手になり、私の知らないことを教えてくれるのならば話は別だが。


 であるから、たとえば、漱石の「吾輩は猫である」の主人公のような、高等遊民を思わせる教養あふれる猫がいたならば、私は彼を愛し、喜んでその世話をするであろう。

 しかしながら、あの猫はビールを飲んで溺死してしまった。

 もうこの世にいない。


 まとめると、猫は私が伝えたいことを理解できないし、こちらが聞きたいことに答えてくれない。

 だから、私は猫に興味がないのだ。



【中断はじめ】


 いま、猫が部屋に入って来たので、おやつを与えて追い出した。

 猫というのは、万国共通で、パソコンのキーボードを好むのでかなわない。


【中断おわり】



 これは人間の子供にも言える。

 小さい子供というのはかわいいものだが、私はかわいいものにさして興味がないし、意思の疎通がうまく取れないので、一緒にいてもつまらない。

 遊んでいても、どこがおもしろいのかわからないボール遊びに延々と付き合わされ、辟易へきえきする。

 そして、これは猫の遊びに付き合うときも同じことが言える。

 両者の遊びに共通するのは、相手をかわいい存在と思っていなければ、付き合いきれない類いのものであるということだ。


 しかし、人間の子供というのは、おとなの言葉がわかるようになり、だんだん可愛げがなくなると、話し相手や遊び相手としてはおもしろい存在になる。

 それは、私と彼や彼女のやりとりが、言葉や文字で行われるようになるからだ。


 猫と子供はその点がちがう。

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