第3話 家族の乗り物
「別に脅そうとか考えているわけじゃないよ」
強張った純の表情を見て、あとりは慌てて口を開いた。どうもあとりはさっきから、純を困らせてばかりいるらしい。
「ただ、家族とさ、あんまうまくいってないんじゃないかなって思って」
「なんで」
強張った表情が青褪める。たぶん、純にとっては他人に指摘されたくない事実だったに違いない。
その気持ちもあとりには解る。それでも、敢えて踏み込んだのは――
「夜に一人で歩きたくなる理由ってさ、だいたいそんなもんじゃない?」
あとりも、塾帰りの僅かな間とはいえ、夜道を歩いている。両親の迎えを断ったのは、遠慮からではない。
逃げているのだ。家族から。
「違ったらごめんね。でもさ」
進路希望調査の紙を出したとき。
さっき、家族の話をしたとき。
彼女の瞳が翳りを帯びるのを、あとりはしかと見ていた。それが、自分の目の色と似ていることも、また。
「……よく、わかったね」
純の肩の力が抜ける。控えめな降伏。
「言ったでしょ。
「
小さく笑う。お互いが同志と判ったことで、ようやく二人の間に壁がなくなった。
「昔ね。まだ小学生だった頃。家族とここに来たの。私と、お父さんと、お母さんと――それから、お兄ちゃん」
この遊園地で遊び尽くした後、この観覧車に乗って夕焼けの景色を見た。
「その中で、遊園地の灯りがさ、すごく気になったんだよね。炎の池の中で、金色の光が浮かんでいて、さっき遊んでいた場所がおもちゃのように見えて――それが、とても綺麗でさ」
両親が遠くの景色を勧めるのにもかかわらず、あとりは真下を見続けた。窓に貼り付いて、じっと。
それを両親は、変わってる、と笑った。
「でも、兄貴だけは、『ああホントだ、綺麗だな』って言ったんだ。……見たの一瞬だけだったから、適当なこと言ったんだと思うけど」
それでもその素っ気ない一言が、あとりの中で強く強く響いていた。八年経った今もまだ、こうして残って蘇るほどに。
「別に仲の良い兄弟じゃなかった。高校生で自分の社会を持っていた兄貴は、歳の離れた妹のことなんて興味なかったんだと思う。趣味とかも全然被んなかったし。私も別に兄貴のことはどうでも良かった――と、思うんだけど」
あとりは言葉を切って、シャツの首元から胸元へ手を入れた。引っ張り出したのは、細い鎖に引っ掛けられたプラスチック製のレンズ。
「これ、なんだと思う?」
純は眉間に皺を寄せ、小首を傾げる。
「……虫眼鏡?」
「惜しい。眼鏡」
あとりはいつもしているように、凹レンズを親指と人差し指で挟んで景色を透かし見た。早くも七色のネオンを灯した観覧車が、レンズの中で小さく映る。
「眼鏡のレンズ。兄貴の眼鏡に嵌まってたの。左っ側はタイヤに踏みつけられてバキバキに割れてたけど右側は無事だった。それを加工して、ペンダントにした。まあ、形見だね」
金属フレームであったため棺の中に入れることはできず、仏壇に飾るにしてもあまりに悲惨な状態だった兄の分身。あとりはそれを自ら貰い受けた。
「交通事故だった。一年前。それから私の家の中は、なんだかぎくしゃくしてる。たぶん、
両親は、兄を喪った悲しみが大きすぎて、その胸の穴を埋めるように毎日仕事もがむしゃらに頑張るようになった。
「今では、平日ほとんどお互い顔を合わせることがなくなったかな」
それでも、あとりのことは気に掛けてくれていた。ご飯は手作りが用意されているし、夜遅くに終わる塾の迎えだって、本当は申し出てくれた。両親の夫婦としての仲も悪くない。
ただ、二人は自らを忙しくさせることで、必死に兄の存在を頭から追いやろうとしているのだ。
「でもね。私はね、兄貴を忘れることに抵抗があるの。あの日、家族で唯一私を認めてくれた兄貴が、なくなってしまうのが嫌だから」
兄の形見の眼鏡をこうして持ち歩いているのも、その所為だ。
「今になってね、もっと兄貴のこと知っておけばよかったって思うの。これまではまさか兄貴がいなくなるなんて思っていなかったから。だから、たまにこうして、兄貴の眼鏡を覗いてみるの。兄貴が見ていた景色ってどんなんだろうって。そうすればなにか解るかなって?」
同じように、進路も決めた。兄の跡を追うように、兄の通っていた大学を目指すことにした。
しかし、あとりの一連の行為を両親は快く思っていなかった。あとりの為すことに苦言を呈し、あまりに続くと苛立ちを隠せなくなって、どうして忘れさせてくれないのか、と責め立てるようにもなっていた。両親には、あとりのほうこそ二人を責めているように映るらしい。
「逆だね」
ぽつり、と純が言葉を落とす。
「私と、逆だ」
純は訥々と自分のことを話した。弟ができるなんて、それまで思っていなかったこと。その新しい家族ができたことによって、純の進路が決まってしまったこと。家族のことは大好きだし、家族は自分を尊重してくれるし、進路だって結果的に自分で決めた。それなのに、何処か引っ掛かりを感じてしまうこと。
二人の葛藤の根源は真逆だ。でも、ただ一つ、感じ合うところがある。
今いる家族を息苦しく感じてしまうところが。
「観覧車、見に来たけど乗らないのはさ――」
あとりは目の前の観覧車を見上げた。
「ゴンドラの中って、狭いじゃない。その上高いところに連れて行かれて、逃げ場がない」
日没しかけた太陽が、赤い光を観覧車に照射している。色を染めた観覧車の円形のゴンドラに家族が乗っているのを、遠目で見つけた。
色落ちした箱の中、白っぽいアクリル板越しに見えるのは、期待に満ちた子どもの表情。それを優しく見守る親。家族としての理想の形。
「そんな箱に一緒に乗れるのって、やっぱり家族か恋人くらいなもんだよね。でも、私は今、両親と観覧車に乗れそうにない」
仮に現在、両親と観覧車に乗ったとして、あの子どもと同じ表情を、あとりは作れる気がしなかった。無理だ。だって今、日常生活ですら、息苦しいのに――。
「……うん。そうだね。解るような気がするよ」
あとりは顔を純のほうに戻して控えめに破顔した。やっぱり勘に間違いはなかった。純ならあとりのこの心境を解ってくれる。塾に帰り道に見かけたときから、そんな気がしていたのだ。
「でもいつか、乗れるようになると良いなって、そう思うよ」
だから、わざわざこの場所に来て、観覧車を見上げている。今は叶えられない理想。だが、憧れていないわけではない。
そうだね、と、またしても純は同調してくれた。
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