第2話 榎本純
部活動開始のチャイムが鳴る。クラスのほとんどが、最後の青春を謳歌するために慌ただしく教室を出ていった中で、帰宅部の純はまだ居残っていた。目の前には、表紙が黒い、分厚い冊子。学級日誌。今日の日直だった純は、授業内容と、先生の連絡内容と、クラスであった出来事と、と誰が見返すのか分からないつまらない日常を、ペン先一ミリのボールペンで、指定された枠内に黒々と埋めていく作業に追われていた。
真面目で優等生と言われる純だが、本性は決して良い子ちゃんではない。こういう作業は実に面倒、投げてしまいたい。しかも文字通り特筆するような出来事なんてなかったものだから、空欄を埋める作業は困難を極めていた。
かといって、〝適当〟な内容も思いつかない。人差し指と中指で挟んだボールペンをくるくる回しながら、頭を悩ませていると。
「榎本さん、今日暇?」
長い髪を無造作に垂らした気怠げなクラスメイトが、机の前に立って純を見下ろしていた。
早苗
「……え? うん、用事はないけど……」
「じゃあ、これから付き合って。奢るから」
ぽかん、と純の口が開く。誘われた。なにに? いや、なんでもいいが、なぜ自分。
ペン回しの手を止め呆然としている純の前で、あとりは前の席の椅子を勝手に引き出すと、リュックを背負ったまま横座りした。スマートフォンを取り出してポチポチと弄りながら、ちら、とこちらへ視線を投げる。
「それ、早く書いちゃって」
「あ……うん」
予想外の展開に空回りする頭でなんとか言葉を絞り出し、なんとか本日分の学級日誌を書き上げようとペンを動かす。
――そういえば、名前で呼ばれた。
いつも「委員長」って呼ばれているのに。
二人で学級日誌を職員室に届けて、学校を出た。校門を左に曲がり、杉林の真横を通る起伏の多い歩道を進んで十分ほど。
「え……ここ……?」
またしても純は、ぽかん、と口を開ける。
着いたのは、学校からも見える遊園地だ。
いつも遠くに聞こえる絶叫が、頭の上から降り注ぐ。がたがた、という耳を塞ぎたくなるような振動音も。
目玉のジェットコースターの下にある入園口で、あとりが二人分の入園料を払う。本当に目的地はここらしい。純は呆然としながら、その後をついていった。
「なんか乗りたいものとかある?」
ゲートを越えて、振り返らぬまま、あとり。
「え? ……ううん、特にない。……って、私が早苗さんに付き合っているはずなんだけど……」
「うん。そうだね」
純は口を閉ざした。このあとりという少女、思考が読めない。目的もさっぱり見えないが、訊いたところでなんだか煙に巻かれそうな気がして、黙って彼女が歩くままに任せた。
赤茶色のアスファルトの緩やかな坂道を登っていく。雑多な植え込みの中から、道化の格好をしたウサギとクマが出迎えた。笑顔で固定された彼らが黄砂を被ったままであるあたりは、やはり田舎の遊園地だ。
だが、平日の夕方でもあるのにも関わらず、客数はそれなりにあった。メリーゴーランドや空中ブランコなどの定番のアトラクションに列ができているのだから、閑散とは呼べないだろう。
「榎本さん、家族は?」
「え……?」
唐突な質問に、ぼんやりと人の行き来を眺めていた純は、表情を曇らせたあと、
「両親と、一歳になった弟が一人」
「そっか。私と逆だ。うちはお兄ちゃん。六歳差だけど」
歳が近い。まだ喋り方さえ拙い兄弟を持つ身としては、羨ましくなってしまう。
「十七歳差か。すごいね」
兄弟というよりは親子に近い歳の差に驚いたのだろう、あとりの言葉に、純は素直に頷いた。
「私もね、今更弟ができるなんて思っていなかった」
「そっか。そうだよね。やっぱり、私と逆だ」
その言葉の意味が不可解で、純は眉を顰めた。
敷地の奥に行くにつれて、坂の勾配がきつくなる。ちょっとした丘と呼べそうなところに、大きな観覧車があった。日没の赤い光を正面から受け止めながら、早くも七色のネオンが点っている。
「……ここでいっか」
観覧車の搭乗口が見えるちょっとした広場に着くと、あとりは辺りを見渡した。往来する人の間を縫いながら、広場の隅へ。ちょっとしたオブジェの隣の、丸太を半分に割ったようなベンチにリュックを下ろすと、中をごそごそと弄る。
取り出したのは、蘇芳色の革の長財布。
「ちょっと待ってて。タピオカ買ってくる」
財布で向かいのキッチンワゴンを指さした。近くに立てかけてある黒板に、黒い珠が沈んだドリンクの絵がカラフルなチョークで描かれている。
「え、じゃあ私も――」
肩に引っ掛けた鞄を探りはじめた純に、
「いいよ。奢るって言ったでしょ」
そこ座ってて、とベンチを指し示して、あとりはキッチンワゴンへと走っていった。
荷物を置いていかれては、純もその場を離れられない。仕方なくベンチの端に腰を下ろした。
隣で、白雪姫に出てくる小人のようなオブジェが、黒く塗りつぶした瞳と固まった笑みを向けてくる。……虚ろな表情が、少し怖い。
数分の後、あとりが二つのプラスチックのカップで両手を塞いで戻ってきた。
「ミルクティーで良い?」
「……うん。ありがとう」
受け取りながら、彼女の手にあるもう一つのカップを見る。緑が沈んだ白。抹茶ミルクだ。人によって好き嫌いが分かれそうなそれを持っているということは、はじめから抹茶ミルクを飲むつもりだったのだろう。
同じベンチに隣り合って座って、ドリンクを飲む。隣、といってもなんとなく身体を縮こまらせてしまう。あまり人馴れしていない純は、どうしてもこうやって、心理的に他人との距離を取りがちだ。
一方、あとりはごくごく自然体だった。左手で身体を支え、タピオカパールと一緒に抹茶ミルクを吸い込みながら、目の前に聳える観覧車を見上げている。ただぼうっと見上げているだけだったので、純はあとりがなんの目的でここに来たのかが本当に分からなかった。
「……乗りたいの、観覧車」
「ううん。乗らない」
「……早苗さん、高所恐怖症?」
「違うけど」
純は肩を落とした。
「こういうのって、家族や恋人の乗り物じゃん? 私たちには違うかなって」
「別に友だち同士でも乗ってもいいと思うけど」
「私たち、友だちだっけ?」
何処を見ているかいまいち判別のつかない眼差しで、こてん、とあとりの首が傾く。
肯定する要素がないとはいえ、これは胸にぐさりと来た。
「えっと……その、一般論として……」
しどろもどろになる純に、あとりは目を伏せ、
「……ごめん。別に変な意味はなかったんだ。ただ、友だちって呼んでも良いのかなって」
彼女なりの遠慮だったのだと知り、少しだけ気を持ち直す。
「なんで私を誘ったの?」
「う~ん……強いて言うなら、シンパシー? 榎本さんなら、私のこと解ってくれるかなって」
「え……?」
「榎本さん、夜ゲーセンに入り浸ってるでしょ」
ひやり、と背中に冷たいものが落ちた。
***
たまたま。純の人生は、すべてそれで成り立っていた。
たまたま母が妊娠したから、両親は結婚して。
幼稚園も小・中学校も住んでいるところから近いからとそこに行って――いや、これは普通かもしれないが。
今行っている高校も、学力云々に関係なく、一番近い公立高校だから。
そして。
「ねえ、純。大学だけどさ」
一年ほど前の冬。色褪せた畳の部屋で、小さな炬燵に足を突っ込んで、生まれたばかりの弟に乳を飲ませて寝かしつけた母親は、唐突に進路の話題を切り出した。
「あんた、文理どっち行くか決まった?」
「ううん。まだ決まってないよ」
特別成績が高いわけではないが、純はどんな科目もまんべんなくできた。唯一技術が苦手なくらいか。得手不得手がはっきりしないからこそ、文系理系の選択を前にして悩んでいたわけなのだが。
「もしやりたいことが決まってないならさ……」
妙な前置きに嫌な予感がしたのも束の間。
「隣町の大学に行ってくれないかな」
隣町。電車で三十分ほどのところに、公立の大学があった。そこそこ優秀な、文学部と教育学部だけがある文系の大学だ。
「そこなら
純は母の胸で眠る弟を見た。突然できた兄弟。今はすやすや眠っているが、これから手もお金も掛かるだろう。
家は貧乏というほどではないが、父の仕事は世間では薄給の部類だった。母はパート勤め。ただし、育児で辞めざるを得ず、現在は専業主婦。貯金はしっかりしているようだが、贅沢する余裕がないのはなんとなく知っていた。大学は奨学金前提で国公立で、と予てから言われていたものだ。
それが、大学の場所まで指定してくるようになった。その意味を純は考える。――つまり、下宿させられるだけの余裕がなくなったのだ。
この小さな赤ん坊が来たから。
「別にね、やりたいことが有ったなら、そっちを優先にしてくれて構わないよ? でもほら、純は進学先に悩んでいるようだからさ」
慌てたように取り繕う母に、
「……考えとくよ」
とは答えたものの。やりたいことも特になかった純は、結局母の願いに従って志望校を決めてしまったわけで。
経緯はどうであれ、一度決めてしまうとすっかりその気になってしまい、自分の進路に不満はないはずだった。
「娘が大学行っても、
……その一言を聴くまでは。
ご近所同士の井戸端会議。なんとなく話を合わせただけだろうとは思う。自我が生まれた子どもの制御不能な奔放さは、非常に厄介だ。両親も純も手を焼き、頭を抱えるほどに。
だからつい、調子の良いことを言ってしまう気持ちもわかる。
だけど、もしかしたら母は、と穿った考えが浮かんでしまったら、その何気ない一言が喉の奥に刺さった小骨のように、ちくちくと、純に小さな痛みを与え続けた。
意に介すほどのものではない、虚妄の痛み。だけど、それは次第に膨れ上がって、ついに抱えきれなくなった。
弟を拒絶しているわけではない。しかし、突如として生じた不自由感がもどかしくて、純は夜の街に飛び出した。
はじめは暗い夜道を歩くだけ。しかし、それでも解消しきれなくて、ふらりと立ち寄ったのが、ゲームセンターだ。
胸の中の靄つきを筐体の中のキャラクターに託して、画面向こうの見知らぬ相手にぶつけた。
馴れないゲームに繰り返していた敗戦。しかし、誰かに〝ぶつける〟という行為は気持ちよく、勝利の回数が増えていくうちに友人もできてしまったことで夜遊びの回数は増えていった。
母は、弟の寝かしつけと同時に眠ってしまうので、おそらく気づいていない。
純が部屋に行くのと同時に自室に引き籠もる父は、たぶん気づいている。でも、なにも言ってこないのを良いことに、純の夜遊びを繰り返していった。
知り合いに見つかっても気付かれないように、また万が一の危険防止措置として、男の子の格好を装って。
――それがまさか、
秘密がバレた純の胸の内には、不安が大きく渦巻いていた。
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