頭上で回るは観覧車

森陰五十鈴

第1話 早苗あとり

 地上五十メートルから見下ろした景色は、燃えていた。

 低くなった太陽の光線が、辺り一面を赤く染め上げていた。

 町も、山も、遠くの湖も、なにもかも。すべて炎の中に放り込んだようだった。


「すごいなぁ。壮観だなぁ」


 円形の筐体ゴンドラの中に設置された、簡易なベンチ。斜向かいに座った父が、手を翳して赤い光から目を庇いながら、外の景色を見渡している。


「本当。綺麗ね」


 隣に座る母も、ひねりのない台詞ながら同調する。あとりの頭越しの視線は遠く。たぶん湖の辺りを見ているのだろう。

 騒ぎ立てる両親に対して、子どもたちは静かだった。まだ小学四年生のあとりは、分厚いアクリル板にべっとりと貼りついて真下を見下ろしている。高校生になったばかりの兄は、枠に肘を置いた頬杖で遠くの山の稜線をつまらなそうに見ている。


「ほら、あとり。あそこを見て」


 静かな子どもたちになにを思ったか、母が娘の肩を叩いて左下方を指さした。


「お兄ちゃんの通っている学校。こうしてみると、結構広いね」


 ほんとだぁ~、とかそんな反応が欲しかったに違いない。けれど、あとりは一瞬だけしかそちらに目を向けず、「ふーん」の一声だけで反応して、視線を再び真下に戻した。

 父が、母が、苦笑する。


「変な子ね」


 変わっている。母の言葉はおそらく、文字通りその意味しかなかったのだろう。けれど、あとりはなんだか否定されたように感じてしまった。不貞腐れて、なお俯く。その間も、視線は真下から離さない。――離せない。

 真下にあるのは、遊園地。さっきまで家族みんなで遊んでいた場所。昼夜関係なく夢を与えるその場所だが、薄暮を迎えて灯った金色の電飾が赤い景色の中にぽつぽつと浮かび上がっていて、いっそう幻想的だった。

 劣化して白馬が黄ばんでいたメリーゴーランドは、きらびやかな光の下では中世の舞踏会を思わせる豪華さがあり。

 白鳥のボートが走る池では、水面に映った三色のイルミネーションが揺らめいて。

 ジェットコースターはレールに沿って光が走って、まるでSFのロケット発射台のよう。

 青い光に暗く照らされた廃墟風のお化け屋敷でさえも、夢の一幕にしか見えなくて。

 華麗も綺麗もカッコいいも不気味も、過去も未来も、全部ごちゃ混ぜに詰まった、まるでおもちゃ箱。

 そして、それらが炎に放り込まれているような様がまた――あとりには魅力的だった。


 まだ遊び足りないのかしら、と母が見当違いなことを言う。確かに、あとりが誕生日のお祝いにと強請った遊園地だったけれども、一日中歩き回れば、さすがに子どもだってへとへとになるというのに。

 そうかもね、と笑う父。こちらもやっぱり娘を解っていない。

 そんな中で。


「ああ――」


 これまでずっと、感心なさそうだった兄の言葉が、拗ねたあとりの顔を上げさせた。

 向かいに座った兄は、やっぱり興味なさそうにしていたけれど。

 その素っ気ない言葉は、八年経った今でも強く、あとりの耳に残っている。



***



 夏はまだ遠いのに、早くも暑さが訪れた。開放されたスライド式の窓から、風に乗って楽しそうな絶叫があとりの耳に届く。

 芥子色のリボンを緩めた首元から、シャツの下に手を突っ込む。指先に触れた細い鎖を摘み胸元から引っ張り出すと、少し大きめの紺色のブレザーの袖から伸ばした左手で鎖の先についたレンズを窓のほうへ翳した。

 階下に見える雑多とした駐輪場。

 その奥の砂埃舞うグラウンド。

 学校の敷地を囲む天然の松林の上を渡る幹線道路。

 お隣、といっても差し支えのない、不適切な距離にある遊園地。

 もろもろの景色をレンズの中から覗き込む。

 平日日中も休みなく回っている大観覧車を映すと、南中の太陽の光も入り込んで縮小された景色を白く灼いた。眩しさに目を細めながらも、レンズの中を覗き込み続ける。小さくなっただけで裸眼で見るのとなんら変わりのない景色。それでもなにかあるのではないか、と目を凝らす。


「――早苗さん」


 遠慮がちに掛けられた声に、あとりはレンズから視線を離した。振り向くと今度は昼休みにざわついた高校三年生のクラスを背景に、一人の女子高生が立っている。


「ごめんね。今日、進路希望調査票の提出期限なんだけど、早苗さんまだ出していないみたいだから」


 いま持ってる? と確認する女子高生――もとい、学級委員長。名前は確か、榎本。背は高めで、髪は短めで、黒縁眼鏡を掛けた顔に化粧っ気も洒落っ気もない、地味で大人しめな彼女は、紺に塗りつぶされたスカートを穿いていなければ性別を間違えてしまいそうだ。下の名前も〝純〟と男にも女にもありそうな名前。


「あー……ちょっと待って」


 彼女の名前はさておいて、両手でがさごそと机の中を探る。見つからなくて首を傾げて、机の横に掛けた赤いボックス型のリュックサックを開けた。見つかった。丁寧にクリアファイルに入れてある。


「はいこれ」


 クリアファイルから抜き出した紙っぺらを差し出すと、ありがとう、と受け取る委員長。自信なさそうな顔に安堵の笑みを浮かべたあと、ふと紙面に視線を落とした。


「えっ、早苗さん、こんな難しい学校受けるの!?」


 意外だ、とばかりに調査票とあとりの顔とを見比べる純。あとりは、表情には出さなかったが、内心苦笑した。窓側の席なのを良いことに、授業中も休み時間も窓の外を見てぼうっとしている。そんな姿を見ていれば、勉強ができるだなんて普通は思わないだろう。


「兄の行ってた大学だから」


 頷いて簡潔に述べたあとりに、


「いいなぁ」


 純は思わずと言った様子で声を漏らす。

 あとりは少しだけ目を瞠った。羨ましそうな台詞を吐いた純の瞳には、尊敬でも憧憬でもなく、諦念が浮かんでいたから。


「……それ」


 視線を遠くに飛ばした純に声を掛ける。


「プライバシー、じゃないの?」

「あ、わ、ごめん!」


 慌てて謝る純に、別にいいけど、と返す。あとりは本当に気にしていない。けれど、他の人に同じことをしたら反感を買うかもしれない。一応親切心で釘を刺した。


「えっと……確かに預かりました。担任に出しとくね」

「よろしく」


 急にかしこまった純に一言返して、頬杖をついて窓の方に顔を向ける。だらりと胸まで垂れ下がった髪の毛先が目に入った。枝毛で少し白くなっている。そろそろ髪を切るべきか、と面倒に思いながら、枝を毟った。


「あの……」


 再び掛けられた声に、驚いて顔を上げた。用紙を持ってとっくに立ち去ったと思っていた純が、まだそこにいた。

 彼女はあとりの胸元を指差す。


アクセサリーそれ、校則違反でしょ。先生に見つからないように気をつけてね」


 学級委員長の義務感からか、中途半端な忠告を遠慮がちに残していった純は、逃げるように教室を出ていった。どうやらあとりの分が最後だったらしい。


「……」


 あとりは鎖の端を摘み、ペンダントの先を見つめた。細い金枠に嵌められた透明なプラスチックの凹レンズ。純の忠告に従って、一番上のボタンを外した首元からシャツの下に放り込んだ。




 がしゃり、と音を立てながら、パッケージを破る。ホワイトチョコレートがコーティングされたシリアルのバーを袋の上から掴み、端の方に前歯を突き立てた。歯が折れかねない硬さに勝利して、奥歯でガリガリと咀嚼する。甘い。が、だからこそ恍惚とする。

 午後十時。補導時間までの猶予を残して終えた、塾の帰り道。食べ歩きの行儀の悪さなどものともせず、あとりは夜の歩道を歩いた。左側ではまだ数を減らした自動車が走っていて、右側ではコンビニやら飲み屋やら、夜でもやっている店の明かりがちらほらと見える。街灯もあって充分に明るい大通り。夜道の不安がほとんどないので、親の迎えは断っていた。

 春半ばの生暖かい風と、自動車の走行音しかない静寂が心地好い。

 シリアルバーを囓りながら、片手を制服のポケットに入れて悠々と歩く。視線は右側。閉園した遊園地のジェットコースターと観覧車のネオンがまだちかちかと光っている。左側は、向かってくる車のヘッドライトが眩しいので、そちらには顔を背けたまま、ぶらぶらと。


 緑とピンクの些か趣味が悪いネオンを看板にしたゲームセンターの前を通り掛かると、丁度よく自動ドアが開いた。クレーンゲームのけたたましい音楽と、格闘ゲームの戦闘音が、隙を狙って外に飛び出していく。

 一緒に出てきた若い三人組は、なにやら興奮した様子で騒いでいた。お互いの肩を小突きあった様子から、ゲームで勝ちでもしたのだろうか。楽しそうな様子がなんだか羨ましい。

 立ち止まって、脇を通り過ぎる集団をぼんやりと眺めた。その中心にいた人物が目に留まる。


「――委員長……?」


 思わず漏れた声は、すでに小さくなった背中には届かなかったが。

 キャップを被り、黒いジャージの長袖とハーフパンツの、ダサい男装をした人物のその顔は、確かにあとりのクラスの優等生、榎本純のものだった。

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