4章 宿怨
第16話 宿怨の発露
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――あの時もそうだった。
取り巻く空気が淀む。身を圧迫するような重たい空気に息苦しさを覚える。これは怪異の領分に踏み込んだときの感覚である。
今ならば分かる。あの雨の日に、生徒玄関の前で感じた傘の重さは気分の問題だけではなかった。怪奇を肌で感じ取っていたのだ。直ぐ近くに何者かがいたのだ。
――くそ! なぜ気付けなかった。
ハルは油断を悔やんだ。
怪談話が鳴りを潜めて一ヶ月あまり、街の中にも校内にも異常は見当たらず淡々と日々は過ぎていった。その間に、ハル自身は妖怪の争い事に巻き込まれていたのだが、それ以外には何ごとも起きていなかった。呪いの藁人形も沈黙し、茜も仙里もこれといって気になるような動きは見せず。もうこれ以上は何も起きないのではないかと思い始めていた。だが、希望的観測は打ち砕かれる。
彼女は何かから逃げていた。悲鳴を上げ、助けを呼んでいた。彼女は屋上の淵へと追い込まれ、そこで何者かに押されて空の中に消えた。
目撃した事実。自殺ということで処理された事件は、不可解な要素を多分に含んではいたが、奇怪な事実についてはハルのみが認識していたことであり、公には自殺であると認知された。
――あれは自殺ではない。殺人事件だ。
その日の放課後、帰宅の途についたハルは生徒玄関を出た所で悲鳴を聞いた。
異様な気配を察知する。プレッシャーのようなものを感じ取った途端に世界が揺れた。ハルは直ぐさま危機を探した。だが、周囲を見回すが見ている光景は普段と何も変わりがない。行き交う生徒達の動きにも表情にも異変を捉えた様子は見えなかった。
――聞き違いか? 空耳? でも……。
いま立っている場所と目に見える世界にズレを感じる。景色が二重に見えていた。まるで二つの世界に跨がっているような奇妙な感覚に陥ると一瞬、現実感を失わせてしまいそうになった。
『誰か! 誰か助けて!』
また声が聞こえた。やはり空耳ではないと、この二回目の悲鳴で危機を確信した。世界はこの奇怪な現象を受け止めていない。助けを求める声はハルだけに聞こえているようで、他の生徒たちの誰にも届いてはいない。胸が苦しい。悪い予感が事態の切迫を知らせた。
「くそっ! マジか!」
この時点ではまだ、この異変が呪いの藁人形に関係しているとは思っていなかった。それでもハルは既に世の不思議を現実として受け入れる素養があった。誰かが怪しい何者かに狙われている。
――どこだ!
直ぐに声が聞こえてきた方を見る。探すも、一見して代わり映えのしない日常の景色の中に危険を感じさせる事象は見えなかった。
『い、嫌! 来ないで! 来ないで!』
また声が聞こえた。今度はハッキリと聞き取った。
ハルは再び声の出所を探した。目を凝らす。正面から右、後ろと順に自分の身体をひと回りさせて丁寧に周囲を探った。
――いない! どこだ! 声はたしか……。
思いつくままに視線を持ち上げ、校舎の窓を一階、二階、三階と注視しながら探していくと屋上に人影を見つけた。直後にハルはその場所に向かって走り出した。
校舎内に駆け込み、螺旋のように続く階段を一つ飛ばしに掛け上がっていく。
視界の中を生徒達の普段と変わらぬ笑顔が流れていく。すれ違う生徒の誰にも慌てる様子がない。やはり助けを求める声に気付いている者はいなかった。もう疑う余地はない。これは普通の出来事ではない。
屋上に向かう途中で教師の一人を捕まえる。ハルはその教師にとにかく一緒に来て欲しいといって強引に腕を引っ張った。
最後の踊り場を蹴って見上げれば開いた扉の向こう側に青い空が見えた。
気は焦り、事は急を要す。息はとっくに切れて胸は苦しかった。ハルは歯を食いしばって最後の階段を駆け上がり勢いのまま青空の中に飛び出す。薄暗い場所から急に飛び出したせいで景色が白くぼやけていた。そこで目を細めて探した。
「どこだ! おい! どうした! 大丈夫か!」
大きな声を出し視線を左右に振って悲鳴の主を探す。後ろでは、一足遅れて教師も屋上に辿り着いた。
日の光に眼が馴染むとハルは屋上の端に悲鳴の主を見付ける。驚いた。その人物は呪いに関係している四人の内の一人だった。
――登校していたのか。
おそらくは校内が落ち着いたことを機に普段の生活に戻ったのだろう。ハルは油断を悔やんだ。
女生徒の顔が恐怖に歪む。何かを見て恐れ、その何かから逃げるように後退りする。
「ダメだ! そっちは!」
叫びながら飛び出した。が、そのハルの腕を、後を追って屋上へと出てきた教師が掴んだ。
「いかん! 待て!」
ハルの伸ばした腕の先、視界の中から女生徒が消えた。
それから僅か数秒後に大きな衝突音が聞こえ、間もなく階下から悲鳴が聞こえてきた。ハルと教師はしばらくの間、呆然とその場に立ち尽くした。
「せ、先生……」
震える声で呟き、救いを求めて教師を見た。
教師は眉間に皺を寄せきつく目を瞑っていた。その後、間に合わなかった、残念だ、といって首を振った。
「くそっ! 何で、何でだよ……」
下を向き唇を噛んだ。
確かに女生徒と自分との間には距離があった。彼女が身を投げるまでほんの僅かな時間しかなかった。たとえ教師に止められなかったとしても手は届かなかっただろう。しかし、ハルは人の死を目の前にして自分を責めずにはいられなかった。
ガクリと膝を突く。項垂れて拳を握った。怒りのままコンクリートの床を殴りつけようとしたそのときのこと、ふっと背後に気配を感じ取る。誘われるままに振り向き、その姿を見て唖然とした。
視線の先、屋上の出入り口の方、平面から突き出した四角いコンクリートの箱の上に佇む彼女を見る。仙里が青い空を背にハルと教師を見下ろしていた。
仙里はハルの存在を意に介さず不敵な笑みを浮かべた。
「……仙里様、なんで」
ハルが掠れた声を発する。そんなハルの様子を見て教師は首を傾げた。どうやら教師には仙里の姿が見えていないようであった。
うかうかと第二の事件を見過ごしてしまった。知っていて手を届かせることが出来なかった。
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