第15話 黄昏時の希望

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 街から外れ田畑が広がるここまで来れば人の気配は薄くなる。長閑な景色は昔日の佇まいから些かも変わりないように見えていた。

 宵闇のあぜ道で蛙の合唱を聴く。歩く度にふわりと揺れる銀の髪。田園の一本道を白の小袖を揺らしながら進む。山裾に佇む寺院を臨むと向かう先に見えている明かりは山陰の中にポツリと一つだけ。そんなはぐれ蛍のように侘しい灯火を見て仙里は溜め息を零す。――ずっと考えていた。驟雨しゅううがもたらせた話は朗報か、はたまた凶報なのか。


 ふと畦の傍らで歩みを止める。仙里は眉間に保たれている緊張に気づくと額に手を当て笑った。「……私としたことが、バカバカしいことだ」サワサワと鳴る草の音とせわしない蛙の声を聞きながらひとしきり笑った彼女は、今はまだ尚早と溢した後に息を吐きながらゆっくりと強張りをほどいていった。


「……詮無きことだな」


 独り言が薄闇に溶けた。仙里は天を見上げる。

 驟雨の言い分を安易に受け取れば、この変事は兆しと言えなくもない。このようなことはこの八百年の間に一度も無かった。

 幻想の如き希望が目の前にチラつく。それでも気分は、驟雨の話を聞いてなお一向に変化を見せない。期待すらしていなかった。仙里は再び大きく息を吸い込んで、貯めて、吐いた。

 

義親よしちかさま……」

 身につける生地に咲く紫色の花の上で目が留まる。白地に映える紫色の花。桔梗ききょうと名付けてくれたのは、大峰兼五郎義親おおみねけんごろうよしちかという武人。まだ幼かった仙里に世の色々を教え、人の情を教えたのも義親である。親など知らぬ仙里にとってそれは初めて知った情愛というものでもあった。湧き上がる思いが失笑に変わる。

 

 ――あやつは素地に持つ力で無自覚に私を縛った。主という認識もないという。余程の大物か、それとも破格の馬鹿か……。


 田畑の上を優しい風が走ると仙里の白銀の髪が揺れた。

 つむじ風に包み込まれた刹那に少女の姿を溶かす。巻き風がやむと同時に二尾の猫の姿を出現させた。夜目が寺を捉えると、殿しんがりの風が猫の髭を揺らして去った。


 表の参道を小走りに抜ける。猫は軽々と山門を飛び越えた。

 境内にふわりと着地すると、仙里は本堂の裏手の方に蒼樹ハルの気配を感じ取った。伝わってくる気は随分と虚脱しているようであった。


 年がら年中発情しているような少年の腑抜け様に首を傾げる。

 建物の影から顔を覗かせると思った通りのしょぼくれた姿があった。蒼樹ハルは広い枯山水を望む長い縁側の真ん中あたりに座り、呆けるように空を見上げていた。やはり馬鹿の方だったか、仙里は頭の片隅でしたり顔の驟雨を嗤った。

 

「よくも飽きないものだ。あやつはよほど空を見上げることが好きらしい」


 少し驚かせてやろうと思い立ち気配を殺す。ふふ、と悪戯心に笑みをこぼし少年の背後に近づこうと前足を一歩踏み出した時だった。


「仙里様、おかえり」


 体がビクリと震えた。思わぬ事態に驚いたのだが、そのままハルを見てまた驚く。馬鹿だと思っていた子供は後ろを振り向いてさえいなかった。

 訳も分からぬと首を傾げた。仙里はハルを見ながら「何かある」といった驟雨の言葉を思い出した。これは満更でもないのかもしれない。仙里は眉間の上に力を込めて少年を凝視した。だが、覇気どころか、力の片鱗さえも見えない。心眼をもってしても見えないのか、それとも見せないのか。蒼樹ハルとはいったい何者なのか。


「仙里様、教えてくれませんか、まるで分からないんだ。僕はいったい何に巻き込まれているの?」


 ハルが上の空のまま後ろへ話しかけてきた。

 言葉の意を汲み取って推測する。どうやらこいつは何かしらの話を聞かされたのだろう。話を聞かせたのはあの朱髪か睡郷の姫であろう。


「君は、いや、君も何か知っているのかい?」


 問われて首を傾げるが、ハルは仙里の困惑を気にも留めず一方的に話を続けた。


「仙里様も『雨様』のことを知ってるんでしょ?」

 

 あの真神めに聞かされたのだろう。下らないことだ。

 

「茜ちゃんはさ、雨様なんて現れないって、真子はさ、僕が雨様だって、仙里様は? 仙里様はさ、作り話だって言ってたよね」


 茜とはあの朱髪の娘。酒呑の血筋と教えられていたが、「雨」に関わる者とは聞いていない。――驟雨め。

 仙里は「雨」の存在を否定していた。だが、ここにきて真神どころか、あの朱髪の鬼巫女までもが何かしらの縁を持つ者であるとなれば、これは、もしかするのではないかと思わせられる。


 因果を束ねるとはよく言ったものだ。仙里はハルを見て、まるで宿命のようではないかとほくそ笑んだ。


「呆れちゃうよ、僕の知らないところで『雨』だのなんだのって言われてもね」

 

 仙里は同意した。憐れと嗤った。蒼樹ハルは益体も無い凡人。無理に英邁えいまいなる陰陽師の衣を被せたとてどうなるもでもない。


「僕はただの人間なんだ。雨の陰陽師か何か知らないけど、伝説みたいに言うけど、僕は僕だ。僕はそんな者になることを望んでなんかいない。僕は雨様じゃない」


『分かるぞ。そうであるな。お前はただの人間だ』

 仙里は心の中で応答した。


「そうだよね。僕はただの人間なんだよね……」


「こいつ、なんだ!」


 驚きの声が口から飛び出す。

 契約を結んだからといって直ちに心を通わせることなど出来ない。それなのにハルは仙里の心の呟きを聞き取って言葉を返してきた。どういうことだ? 深く眉間に皺を寄せる。即座に警戒心を抱いた仙里は少し慎重に構えることにした。


「慈悲を与えるってなんだよ……僕はどんな偉い人間なんだ。誰かを救えといわれても出来ない。僕は誰も救えない無力な人間なんだ」


 ぼそぼそと話す様子を見て仙里は溜め息を零す。

 手違いの成り行きとはいえ、このように気骨もない主を頂いてしまったことに落胆していた。


「高校に入ってから碌なことがない。妖怪ってなんだよ。僕はただ、普通に生きて、普通に恋して、普通に笑って……。なのに、全然思った通りにならないじゃないか」


 物憂げに話すとハルはポケットの中から石の玉を取り出した。


 ――あれが、雨玉アメダマ

 噂に聞いた青の御霊を見る。確かに何かの気配はするが、だからといってどうということもない。ただの石ころにしか見えなかった。


「真子……」


 力を見極めるべく青の御霊を見つめていた仙里の耳にハルの気概のない細い声が届く。


「男子のくせにウジウジと、もはや情けないとの言葉も通り越してしまうほどだな」

 仙里は苛つく心のままにハルの正面へと飛び出した。

 

「仙里様! いつの間に!」

「はあ? いつからだと? ずっと後ろにおったわ。お前、気づいていたのではないのか」

「え? あ、いやぁ」

 惚けた顔をしてハルが笑った。


「それよりもだ! お前には気概というものがないのか!」

「気概、ですか」

「そうだ気概だ! いいかよく聞け。お前はもう逃れられない。事態はお前の都合とは関係なしに動き出している」

「逃れられない……」

「そうだ。その上にだ、これはお前が起こしたことだと言っても過言では無い」

「僕が? ちょ、ちょっと待ってよ! なんで! 僕は何もしてないじゃないか!」

「馬鹿か、お前はこの私を縛り、あの真神の一件に自ら首を突っ込んであろう」

「縛るって、やっぱり僕は仙里様の――」

「待て! その先の言葉を口に出すな。汚らわしい!」

「け、汚らわしいって」

「お前にはその自覚がない。気付くことも出来なかった」

「……それは」

「今になって悔いたところで始まらん。もっとも、私は大いに悔いているがな。それでも事実は事実で仕方なしだ」

「仕方がない……仙里様のことも、真子のことも全部、僕がやったこと」

 ハルは唱えるようにブツブツと話した。


「理解出来たか、それならばもう下を向くな」

「……でも」

「そもそも、守れなかっただの、力が無いだのと、その様なことをほざいていることが馬鹿らしい。お前、いったい何様のつもりだ?」

「何様って、僕は僕で……」

「そうだろう。お前はお前でしかない。『雨』とは大昔に超絶の力を示した陰陽師のことをいうが、お前がその『雨』であることなどない。魂は輪廻するというが、けっして同じ形で転生しないとも聞いている。その者の言を用いて言うならば、同一人物の再誕などあり得ぬのだ。分かったか」

「なら何で、何で茜ちゃんも真子も、再来の話なんか」

「そんなことは知らん」

「え? 知らんって」

「とにかくだ、どうやらこの先に何事かが起こるのは間違いないようだ」

「何かが起こるって、何が?」

「それも、知らん」

「そんないい加減な……」

「諦めろ、どうやらお前は事態の中心に据えられたようだ。ならば死なぬように抗うしかないだろう」

「僕が……死ぬ」

 ハルは呟き手に持つ石の玉を見つめた。


「気力が果てれば死ぬ。覚悟を決めることだ」

「……覚悟」

 考える様子で俯いたハルは、なんとなく現状は理解出来た気がする、と話した。くぐもった声から不満のような感情が伝わってくる。


「そうか、ならば良い」

 仙里はキッパリと言った。


「それはそうと仙里様、僕にはどうしても知りたいことがあるんだ」

 煮え切らぬ様子でハルが尋ねてくる。


「なんだ」

「僕が真子と出会った夜のことなんだけど……」

「それがどうした」

「あの夜、仙里様は僕を殺そうとしたの? 僕が、その、仙里様の主、なんだよね? その僕を仙里様は殺そうとして嵌めたの?」

「嵌めた? 阿呆か、死地へ向かったのはお前自身だろう」

「でも……」

「あの場所でもどこでも、お前の生死など知ったことか」

「それじゃ、仙里様は」

「それでもまぁ、お前が死んでくれても良かったと、あの時の私は思っていたがな」

「え?」

「くだらない。何を聞いてくるのかと思えばそんなことか」

「そんなこと? いや、そんなことって」

「一つ正しておく、私はお前を認めていない。私はお前を大事と思っていない。お前が死のうと死ぬまいと、そんなことはどうでもいいこと。人間の生き死になど私には興味が無い」

「興味が無い? ということは殺すつもりでもなかったと」

「フン。二度も言わせるな。お前に興味など無い」

 

 言い得ぬ腹立たしさを晴らすために突き放した。今後いちいち助けを求められても迷惑だと思っていた。 だが、言い終えてハルを見れば、先ほどとは打って変わって表情に明るさが差していた。仙里は首を傾げた。


「ええと、猫の仙里様、仙里様は、うちで暮らしているってことでいいんだよね? いつでも、会えるんだよね?」


 何を言い出したかと思えば下らない。頭が痛くなった。考えていることが全く分からない。仙里は呆れて目を細めた後、げんなりと項垂れた。少しでも『雨』などに期待してしまった我が身が哀れに思える。


 ――期待? 私は期待しているのか。馬鹿な、こんな間抜け面したやつに。


 ウンザリした。だが、仙里は目撃してしまう。たった今、ハルの掌に包まれている玉が僅かに青い光を見せた。それは一瞬のことであったが見間違いではない。


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