第4話 妖怪仙狸

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 冷たい雨が二人を濡らすしじまで少女の流す涙に釘付けになる。切なさに胸が締め付けられた。声はなんとか出せるようになっていたが、今度は掛ける言葉を見つけられなくなっていた。


 少女の伏した瞳がゆっくり持ち上がる。ハルの意識はじゃく々と心悲うらがなしい仕草に引き込まれていった。美しい緑色、涙を溜める瞳は自ずと畏怖を抱かせてしまう程に澄んでいた。


「……お前は、私のことが見えているのか」


 ついに少女が言葉を発した。耳に入った旋律が電流のように身体中を駆け回った。


「見えている? それは、どういう……」


 聞いた言葉の意味を理解出来なかった。

 少女から沈黙が返る。その僅かの間にも必死に考えた。ハッとする。まさか、「見えているって……もしかして幽霊とか?」ハルは思いついたまま独り言のように訪ねた。


 気後れしたまま上目遣いで見る。言葉を返さない少女の唇は閉じたままで開く様子もない。どうやら会話をする気はさらさら無いようだった。

 その後も無視は続く。場を取り繕うように話し続けるがどうやっても会話にはならない。目はこちらに向いているが少女は無表情のまま押し黙っている。

 息が詰まるような状況に追い詰められていく。それでも諦めきれず、矢継ぎ早に言葉を並べるがハルの気持ちはどんどんと上滑りをしていくばかり。


 ――もう駄目なのか。


 この少女もあの美猫と同じなのか。心が諦めに埋められようとしたその時、少女の口角が少し上がった。


「まったく、喧しいことだ」


 ようやく少女が口を開いた。美しい声が耳に届いた。

 甘美なる音の美しい旋律に心は高揚する。欲望が突き抜けて渇望となる。ハルは声の余韻が耳の奥から消え去る前に次の「音」を求めた。激しい欲求が胸の奥から突き上げてくる。心が叫ぶ、もっと声を聞かせてくれと。


「あ、でも、これもご縁。もしお困りならば僕に何かお手伝い出来ることは――」

「去れ、人間」


 少女の音、拒絶の言葉にも酔いしれていた。心はもう揺るがない。


「人間? では、それではやはりあなたは」

「聞こえなかったのか? 私は、お前にこの場から去れと言ったのだが」


 またもや拒絶である。しかも今度は怒気が含まれていた。


「あ、ああ、そうですね」


 ヤバいことなのかもしれないと悟ったが軽い感じで返した。しれっと会話を続けようとした。確かに怖さはあった。もはや頼みの綱は根性だけだった。それでも切望する心は不屈の意志を見せる。


「やれやれ、八百年ぶりに話した人間がこのように相手に気遣いも出来ぬ不躾者ぶしつけものだとは……」


 少女は呆れ顔で肩を落とし溜め息をついた。

 ハルは八百年という言葉を無視した。恋心を燃やすこの時にそのようなことは些末な事。見ている美少女が人間ではない事はもう承知の上だった。ハルはきっぱりと割り切ってしまっていた。


「す、すみません。あ、いや、でも……」

「私を見て、かぶいておるつもりかもしれぬが止めておけ。私の事が見え、私の気に耐え、私に語り掛けることが出来たその気概は認めてやるが、私はお前など知らん。早々に失せるが良い。命は取らぬ」

「命を取る? それではあなたはやはり怨霊――」

「怨霊だと! 無礼な! この私に向かって怨霊とは何事であるか!」


 少女の鋭い怒気が圧となってハルを叩いた。


「すみません、すみません。違うのですね。失礼をいたしました」


 慌てて謝罪をする。


「……まぁよい。時は流れ世も変わった。問うてもそれは詮無きことだ」


 少女の怒気が少し和らいだことを感じて、ほっと胸を撫で下ろす。


「あの……それで……あなたは?」

「様だ」

「え?」

「様を付けろ」

「あ、え、あ、えっと、はい。それであなた様は……」

「うむ。それでよい」

「で、あなた様は一体?」

「お前が何故に、この私の気に当てられてもなおそこまで正気を保っておられるかは知らぬが、それでも、聞けば命が縮まるぞ。良いのか? お前には私と、このせんたる私とえにしを持つ覚悟があるのか?」

「セン? それって?」

「やれやれこれは全くもって呆けた奴であるな。しかし、知らぬも致し方なしか……」

「す、すみません」

「私は『仙』である。もっとも、仙に転変するまではあやかしであったのだがな」

「アカシヤ、ですか……。はぁ……」

「違う! あ・や・か・し、だ!」

「ア・ヤ・カ・シ?」

「なんだ、それも知らぬのか……」


 少女は手を額に当て俯くと、やれやれといって顔をしかめた。


「すみません」

「怪異、妖怪、物の怪、そういった類いのものだ。これで分かるか?」

「よ、よ、妖怪!」

「まぁよい。蒙昧者もうまいものに説明しても仕方なし。それに面倒でもある――」

「そ、それで……」

「なんだ?」

「あ、いや、あなた様の、その……お名前は……」

「やれやれ、不躾な上に、こうも無礼であるとはな。これは流石にもう怒りも通りすぎるくらいであるな」

「はあ……すみません」

「仕方がない話してやる。よいか、よく聞けよ人間。我が種に名を尋ねる行為は人間にとって忌避すべきことであるのだ。その上に『仙』たる私に名を尋ねるは不敬極まりないこと」

「フケイ……」

「そのことを知り、なおも我が名を聞こうとするならば心して聞かねばならぬ」

「心して……覚悟をしてということ?」

「そうだ。覚悟をせねばならん。我が名を聞けば一つだけ誓わねばならぬことがある。それでも良いというのだな? 覚悟はあるのだな」

「誓い? ですか?」

「そうだ誓いだ。誓えば私という存在を知り、それを意識に留める事が出来る。しかし」

「しかし?」

「私のことを誰かに話せば命はない。話せば私はお前を殺さねばならぬ。これはことわりだ」

「……コトワリ?」

「どうだ? 恐ろしいだろう? 命が惜しかろう? 止めておくか?」


 いって嘲るように少女が微笑んだ。


「あ、あの……」

「なんだ?」

「僕にはあなたが人の命を簡単に奪う者には見えないのですが……」

「あははははっ! これは面白い事を言う」

「面白い? ですか」

「そうだな。私を見てそのような事を言ったのはお前が……」

「お前が?」

「よい! ともかく、これは私と人との間の理である。我が名を聞けばそこで契約は成り、お前は私に縛られることになる。万が一縛られた者が契約を破れば……」

「契約を破れば?」

「その者には死という罰が与えられる。どうだ人間? それでも私の名を聞きたいか?」


 あやかしを名乗る少女はハルに死を突き付けた。だが怖くはなかった。既に家族も失い孤独の身である。それに、過去に死にかけたこともあった。なので死の契約など然程の事ではないと思えた。そのようなことよりも今は大事なことがある。ハルの心は強く訴えていた。これは得体の知れない縁ではあるが、それはそれでスリリングな恋の予感と言い換えても差し支えがないだろう。

 美少女との恋にあともう少しで手が届きそうな気がしている。いや、指先はもうそこに掛かっているのではないのか。天使が奇跡を降らせたようなこの出会いは正に大恋愛のビッグチャンス。これは命がけの恋の予感である。


「いいですよ!」

「え、えらく簡単に言うのだな」

「ええ、まぁいいかなぁって思いました。それに」

「それに?」

「言わなきゃいいんでしょ?」

「あ、ああ、まぁそうだな」


 少女は微笑んだ。顔を引きつらせて。


「では、お願いします」

「お、おお。そうか、で、では言うぞ。よいか。私は『仙狸せんり』と――」

「へぇ、センリさんて言うんだ!」

「そうだ。私は仙狸だ。そして――」

「で、それはどんな字を書くのですか?」

「はあ? 字だと? 字とは人間が使う文字というもののことか?」

「そう、文字です。センリとはどう書くのですか?」

「あ、ああ、それはの……」


 少女はちょこんと顎に手を当て思案する。その後、人差し指で宙をなぞるようにして説明をした。


「仙はニンベンにヤマ、狸はケモノヘンにサトだ」

「ええっと、センは仙人の仙、リは……リは……え? タヌキ? 君ってもしかして……」

「断じていうぞ、私はタヌキではない! それに私は列記とした『仙』である!」


 ハルの言葉を遮って少女は断言する。しかしながらそのようなことはもうどうでも良くなっていた。ハルが気にしたのは、どうやら少女が自分の名に「たぬき」という字が使われていることを忌んでいるのではないのかということだった。ならばと妙案を思いつく。妖ならば、戸籍だのなんだのと人間社会の縛りはない。いっそ充てる字を変えてしまえばいいのではないのか。


「それではよいか、人間、よく聞けよ、私の名は……。あ、いやルゥ-――」

「ねね、仙狸、君はその字が嫌いなんだろう? ならばいっそ狸からケモノヘンを取っちゃえば?」

「はあ?」

「だから、その変な名前をもっと美しくしようっていう話さ」

「……」

「いいでしょ? 妖なら戸籍とかって関係ないんだし。それに君はこんなに美しいんだから、名前もほら美しい感じの方が良いに決まっているでしょ。だから僕が名付けてあげるよ」


 言いながら、ポンと一つ柏手かしわでを叩く。我ながらとても良いアイデアだと悦に入る。ハルは高揚するままに人差し指を使って宙に仙里と字を描いた。


「お、お前、な、何を……。それにお前、なんだ……。お、おい、ちょ、ちょっと待て! 待て、人間、待て!」

「いいかい。それでは発表しまぁす!」

「待て! 待て、待て、待て、待て! お前、何を――」

「これからは、これからの君の名は……」

「お、おい! 人間、止めろ! お前、待て、それ以上――」

「これからの君の名は『仙里せんり』だ! 仙に里と書いて仙里だぁ!」


 少女の狼狽には目もくれず声高らかと宣言をした。だが、仙里を見ると何故かガックリと肩を落としている。


「え? どうかしたのですか?」


 心配になって声を掛けたが、仙里は恨めしそうに睨みつけてくるばかりで話をしようとはしない。

 仙里は小刻みに身体を震わせながら口惜しそうに唇を噛んでいた。


「あ、あの……仙里? あ、そっか! 様、だったよね。じゃ、仙里様」

「おのれ人間! 私にも油断があったとはいえこのような屈辱! 覚えておれよ!」


 言葉が木霊のように響く。捨て台詞を吐いた直後に仙里はその場から姿を消した。また置いてけぼりにされてしまった。

 ハルは妖怪に出会った。今でも信じられない思いだがこれは現実である。ジワリと胸に湧く想いも確かなものだ。――だが。

 ふと仙里が見つめていた場所に目がいく。そこには五寸釘が撃ち込まれた藁人形があった。芽生えた恋心とともに見つけた怪しげな呪物。天使と悪魔に同時に微笑みかけられたような気分になった。

 立ち尽くしていたハルはいつの間にか取り巻いていたノイズが消えている事に気付く。あれだけ降っていた雨が止んでいる。見上げると空が薄らと明らんでいた。どこか怪しげな夕焼けだったがそこには胸が締め付けられるような切なさがあった。






 家に着くと叔父の横山よこやま尚仁しょうじんが玄関先までタオルを持って来てくれた。


「ハル、風呂、沸かしといたから直ぐに入るといいぞ」


 兄のように慕っている好青年。この人は何と気が利く人なのだろうと感謝し礼を言う、が、そこでハルはまた驚いた。

 これで何度目だろうか。尚仁があの美猫を大事そうに抱いているではないか。


「お、お前!」


 猫はハルを見て一瞥した後にフンと横を向いた。


「あらぁ、ハルってば嫌われちゃったねぇ」


 尚仁は造作もなく猫の頭を撫でた。


「尚仁さん! その猫はどうしたんですか?」

「さぁて、どうしたんでしょうねぇ」

「どこで拾ってきたんです?」

「拾った? 違うよハル。猫ちゃんはね、どうやらうちに迷い込んできちゃったみたいなんだよぉ」

「迷い込んできた? それに猫ちゃんって?」

「ああ、それね。ほらこの子ってばこんなに美しいだろ、それにどこか気高いっていうかぁ、凛として近寄りがたいっていうかさぁ、それでなんだか名前を付けづらくってさぁ、だから僕はこの子のことを猫ちゃんと呼ぶことにしたんだよぉ」

「……」


 まったくなんて日だ。あまりに奇怪な出来事が凝縮されて詰め込まれたような一日だった。






 快晴になった次の日は自転車で登校した。風が爽やかであった。意気揚々と足取りも軽い。いやはやなんともご満悦、我が世の春を謳歌する。ハルは浮かれ気分で教室に飛び込んだ。と、そこで目を見開く。奇怪なことはまだ終わっていなかった。


「え、えええ!」


 これでもかと目を見開いて仙里を見る。それから教室の中を見まわした。教室の雰囲気はいつもと変わりがなかった。あまりに自然に、以前からずっとそこに居たかの如く仙里は席に着いていた。

 訳を尋ねようとすると、チラリと目を合わせた仙里は直ぐ目を切ってフンと横を向いてしまう。


 ――これは何だ? いったい、なにがどうなっているのだろうか……。

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