1章 雨を呼ぶ者
第1話 黒き祈り
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真冬の早朝。
溜め息が冷気に凍えて取り巻く霧と同化する。
立ち込める朝霧の中にぼんやりと浮かぶ
整然と敷き詰められた石畳の上を真っ直ぐ進む。耳にしているのは、お気に入りのローファーが鳴らす無機質な靴音だけ。
響く木霊、コツコツと一定のリズムを刻む足音が、覚悟の有無を問うている。
少女は強ばる頬を無理に緩めた。
大丈夫、身体は少し震えているが、足の運びに淀みはない。
――分かっている。この路を行けばもう戻れない。
意を決して顔を上げたその時、繋ぐ友人の手が彼女を後ろへ引いた。
「止めないで。いいの、それにもう、これしか手立てはないの、分かって」
友人の目を見つめていう。
「うう、うう」
既に人語ではない。それは声のような音。逡巡を見せる友人が物憂げな様子で俯いた。
人外の者に成り果てた友人の灰色に曇る目と引く手が思いを伝えてくる。少女は物言いたげな友人に微笑みを返し首を横に振った。
「行こう」声をかけ歩き始めると友人はゾロリと地を這う音で渋々応じた。
霞の中を泳ぐようにうねる下肢は蛇。上半身は辛うじて人の姿を保っているが、身に纏うセーラー服はもはや名残でしかない。
この姿に変化してから無為に時を経過させてしまった。人の性を完全に失いつつある友人はいつ人を喰ってもおかしくない程に飢えている。急がなくてはいけない。彼女をこの世に縛り付けている曰くを取り除き、人として往生させるためには贄がいる。
足を運ぶたびに、凍てつく北風が吹き付け頬に鋭い痛みを与える。ふわりふわり、マフラーの隙間から漏れ出す暖気は、捨てたはずの人の温度だった。
「寒いね」
少女が呟く。吐き出した温もりが白い煙となって消えていった。
口を堅く結び、気を取り直す。いま一度、深呼吸をしてから胸に手を当てた。
掌に伝わってくる心音。自分はいま生きている。この身体の中に命があるという、この感覚はまぎれもない実感。取り出して目に見せることは出来ないが確実に命というものは存在する。
それでも、解らない。人の生とは何ぞや。誠の命とは何ぞや。
少女は問うた。人の形を失った心優しき友人と、人の形のまま心を失わせる自分。今この時、果たしてどちらが人間なのだろうかと。
少女は目的の場所を睨み付けた。既に自覚している。これは罪過を問う行為だが愚行には違いない。だけど躊躇はしない。人の心など、捨ててきた。
拝殿の裏に着くと聳える銀杏が迎えてくれた。その場で瞳のみを持ち上げ幹に打ち付けられた藁の人形をジッと見つめた。
大樹の泰然と構える生命力と相反するように佇む死の穢れ。
打ち付けられた鋼の釘が深い悲しみを想起させる。
少女は歯を食いしばって私憤を抑えた。
友人がおろおろと心配するような眼差しで見つめてくる。
目を逸らして、前にある大樹を見上げるとそこで新芽に目が留まる。
意図せず溜め息が漏れた。
息吹は春を予見させるもの。だが自分には春は来ない。
叶えたい一心でここに来た。確かにこれは希望と呼べるものではないだろう。
――私にならば出来る。私にしかできない。そう、これは課せられた義務。迷ってなんかない。
彼女は、心の中に僅かに残る情を振り切る。
ここに居るのは喜びという感情をどこかに置き忘れた器。涙など枯れ果てている。時は過ぎたが、取り残された心はあの日から一歩も先へ進めていない。
強く拳を握り真っ直ぐ前を向く。死を渇望する藁人形を見つめる。
――死を望むこの想いもきっと愛なのだ。
悲しみに暮れる者の思いを背負う。彼女は悲しき穢れに向かって強く頷いた。
「死ななければいけないのは、この世から消えなくちゃいけないのはアイツらの方だ」
命は失ってしまえば決して取り戻せないもの。そのことを世界は知るべきだ。きちんと知らしめるべきだ。少女は紛い物の呪いを見つめながら本物の人殺しを決意する。
「本当に、これでよいのか?」
背後から柔らかな声色で話しかけられた。
不意を突かれビクリと肩を振るわせたが、おかげで張り詰めていた気持ちが解けた。振り返り、にっこりと笑う。にわかに腰を屈めると、身を案じてくれている黒い大型犬の頭を撫でた。
「心配して来てくれたのですか」
「あ、ああ、まあな」
黒い犬は真紅の瞳を泳がせた。少し照れるような仕草が可愛らしい。
その犬は神。今は大型犬のような格好をしているが、真の姿は神社に備え付けられている石の犬に似ている。感謝の気持ちで黒い犬を抱きしめると体温が伝わってきた。底冷えのする石畳の上に唯一の温もりを感じ取ると、そこで彼女は気づき顔を上げた。腕の中にあるフサフサとした毛皮からほんのりと爽やかな香りがする。
驚きに眉を持ち上げ確かめるように相手の顔を覗き込む。
「これは……良い香りですね」
「き、気に入ったか」
黒い犬は声を上ずらせたあと垂れた耳を揺らすようにして余所を向いた。
「ええ、私は好きですよ、その香り」
「そ、そうか、それならば良かった。これは、ア、アロマオイルというものらしい」
その猛々しい様相に似合わぬ繊細な心遣いが一時だけ心の氷結を溶かす。思わず顔を綻ばせると黒い犬はぶっきらぼうに体裁を保とうとした。
「な、何がおかしいのか!」
「何がって、神様なのですよね? それに犬なのですよね?」
「それがどうした」
「神様なら分からないけど、犬なら、そんな強い香りはお辛いのではありませんか?」
心配する気持ち半分、揶揄する気持ち半分で尋ねる。
「そ、そのようなことは心配には及ばぬ。俺は、確かに犬としての
「……ちなみに、アロマオイルは身体につけるものではありませんよ」
少女は悪戯心で笑みを浮かべ教えた。
「――なぬ!」
「お気遣いありがとうございます。でも、無理はしないでくださいね。わたしなら大丈夫ですから」
頬を緩ませ礼を述べた。もちろん世辞ではなく本心を伝えるための笑顔だった。
そんな少女を心配そうに見つめて黒い犬が言う。
「もう、後戻りは出来ぬのだぞ」
「……分かっています」
作り笑顔のままで答えた。
「その穢れ、俺ならば祓うことが出来る。目覚めさせてくれた礼と思えば安いものだ」
黒い犬が獲物を見るような目つきで狙いを定める。
少女は友人を守るように背に庇い申し出を拒んだ。
穢れの正体が、自分の血筋に深く関わりがあると教えられてもピンとこなかった。八百年前に起きた事件について教えられても、だからなんだと思うだけ。心にあるのは目の前にある不幸に寄り添いたいという気持ちだけだった。
「私は――」
「人を呪わば穴二つというが、それは人に対して、その道には入るなという忠告でもあるのだぞ。それを果たせばどうなるのか、お前もただでは済まないかも知れぬ」
「もう、決めたの。だから止めないで。私はこの『呪い』を私のものにする」
傍らで憂える黒い犬が困り顔を見せる。少女はこの手で始末をつけると言ったあとに肩から力を抜いて曇天を見上げた。
何故、世界にこのような理不尽があるのか。
儚く散った命を思いながら、雲の向こうに天国を思い浮かべる。その後、往くことも留まることも許されぬ友人を見つめた。
彼女は良い人であった。彼女には何の罪も無かった。
それなのに、彼女は死んだ。いや、殺された。
殺した奴らは、その心に罪の意識も持たずに生きている。
この春から高校に進学する。奴らも同じように新しい生活の扉を開いた。
――あんな奴らに、この子が失った眩しい世界を、平気面して歩ませることなど出来るものか。
「私は、許すことなど出来ない。この国の仕組みが許し、世間がこの子の死を忘れたとしても私は忘れないし、許さない」
「それが、お前の正義か」
「正義かどうかなんて知らないわ」
「やれやれ……。黒の血を引く者との縁と思えばみすみす見過ごすことは出来ぬのだが。それでも、俺を目覚めさせた黒の巫女の、これが願望というのならば仕方なしといったところか」
鞄から丸鏡を取り出すと黒い犬が深い溜め息を吐いた。
ある日、倉の中で鏡を見つけた。これは鏡に導かれるようにして結ばれた縁だった。少女は八百年も昔に封じられた神を目覚めさせた。
この出会いはきっと偶然ではないのだろう。神の解放がこの様なことを成すための巡り合わせであったとは思わない。それでは彼女の死が前提になってしまう。
だから違うと断言する。
この神との出会いにはもっと別な意味があったのだ。
……だが、少女の心には、その別の意味とやらを考える隙間などない。
見つめる先、太い幹の真ん中にそれはある。
自身から見ればやや低く思えるその位置で、大の字に形作られた藁の人形は、ちょうど心臓の位置に突き刺された鋼の釘によって幹に貼り付けられていた。
やり方を教わったわけではない。
呪詛の言葉なども知らない。
ただ、それを成せる力が備わっていたことには感謝する。
少女は人形に右手を翳し瞳を閉じた。
後は祈るだけ。今はただ、それを成すことだけに集中すれば良い。
遺恨は断罪者の存在を許す。執行する。たとえ罪人が己の罪咎を忘れたとしても、厳として報いは訪れなくてはならない。
丸鏡を胸に、右手を釘にそっと触れさせ言の葉を継いだ。
「消せない罪を、あるべき処へ。受けるべき罰を、然るべき者へ。いま、呪怨は解き放たれる」
灰色が覆い尽くす空は重い。一面に広がる黒雲は、時を黎明と言わせぬほどに世界への光を遮っていた。
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