九(2/2)

 相手がこのコールに出ることはない。

 そう察して早く諦めてくれればいい。

 そう思っていたのに……もうどれほど経っただろう。

 頭がおかしくなりそうだった。

 最初のコールの時点で時間を確認していたわけじゃないからはっきりとはわからないけれど、たぶんもう三十分は一度も途切れることなく、コールが鳴り続けている。

 この時点でもう、電話を掛けてきている人間はまともな人間じゃない。

 私が自分の部屋に引っ込んでもそのコール音は耳に届いて、私の頭を掻き乱してきた。

 ……脳が焼き切れそう。

 コール音がこの三○二号室を支配し始めて何十分経った頃か、私の拙いな精神にもついに限界が来て――私は電話線を引き抜いた。

 しかし、それでも。

 トゥルルルル――と再びのコール音。


「嫌っ!」


 コンセントも抜く。

 今度は一瞬も止まることなく鳴り続ける。


「なんで……どうしてっ!?」


 もうどこにも繋がることはないはずなのに、それなのに!


「…………」


 気づけば私は無意識の内に、電話の本体そのものを持ち上げていた。

 そしてそのまま、ありったけの力を込めて、床に叩きつけた。

 それでもコール音は止まらなかったのでまた拾って、叩きつけて、拾って叩きつけてを繰り返した。

 まるで何かに取り憑かれたように、一心不乱に。

 何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も――。

 ようやくのことで耳障りなコール音がんだのは、ウチの固定電話がほとんど原型を留めていない状態となってからだった。

 

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」


 随分と久しぶりに味わうような静寂。

 そんな中で、私の荒くなった息遣いだけが室内に広がっている。

 ようやく電話が鳴り止んで、ゆっくりとだけど呼吸を落ち着けていくことができた。それに伴って少しずつ心も落ち着いてくる。

 そんなときだった。

 もう原型を留めていない電話の、受話器だったと思われる部位から、ノイズ混じりのその声が発せられたのは。


 ―― コ ロ シ テ ヤ ル ――


 途端に襲う、細胞単位で体が分解されそうな怖気おぞけ

 こんなところにはもう一秒たりともいられない。

 こんな部屋からはさっさと離れようと玄関に向かうと、しかしそれを妨害するかのように、玄関扉が「ドン!」という衝撃音を発した。


 ドンドンドンドンドン! と。


 この部屋に越してきてから間もない頃にも遭遇した、このイタズラ。

 そしてつい先ほど壊れたはずの電話から聞こえた、呪詛のようなあの宣告。

 ……まさか今、まさに玄関の向こうに……?


 ガチャガチャガチャガチャ!


 と、激しくドアノブを捻る、室内への侵入を試みているような音。

 間違いなく、今、玄関の向こうには誰かがいる。

 そう思った次の瞬間――私の中に何かが流れ込んできた。

 それはどす黒く淀んでいて、腹の底から制御の効かない感情を呼び起こしてくる。

 この十六年で私が抱いたことのない、紛れもない殺意だった。

 私の脚は台所へと戻り、包丁を持ち出してきて、再び玄関に向き直る。

 その自分を、心の中の一歩離れたところで見下ろしている自分がいる。

 その自分が行くな叫ぶ。

 その行動は間違いだと主張する。

 包丁などというものを持ち出した自分は間違いなく、玄関の向こうにいる何者かを刺すつもりでいた。

 心の中にはそれを制止しようとしている自分もいるけれど、現実の私はそれを聞いてはくれなかった。

 そうやって激しく揺さぶられる玄関前に立ち、ノブを手にしながらも覗き穴からその向こうを確認しようと眼をすがめると……。

 そこには誰の姿もなかった。

 その間もずっと玄関扉は何者かに……いや、ナニカに叩かれ、ノブを激しく回そうとするかのような強引な訪問に襲われている。

 覗き穴から眼を逸らすこともできず、私はよろよろとたたらを踏みながら後ずさってへたり込む。


「そんな……」


 私は腰が抜けたみっともない状態のまま、のろのろと玄関から這うように後ずさる。


「もう嫌だ……」


 自然とそんな呻き声が漏れる。

 早く日常に戻ってきてほしかった。

 せっかくの夏休みにどうしてこんな思いをしなきゃいけないの?

 両親が離婚してこんなところに越してくることになって、そこでこんな目に遭って……。

 本当に、最悪の夏休みだ……。


「…………」


 まるで走馬灯のようにこの夏休みのことを振り返っている内に、ふとその顔が脳裏を過った。

 秋崎先輩――。

 私は力の抜けた膝を気力で奮い立たせて自分の部屋へと向かった。

 自分の部屋に入ると真っ直ぐに携帯へと手を伸ばす。

 震える手で懸命に、たった数回のタップを何度も間違えながら操作する。

 やっとのことでその通話が先輩へと繋がった瞬間、同時に玄関の衝撃音もぴたりと止んだ。

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