九(1/2)

 美沢優衣みさわゆい。十六歳。高校二年生。

 人間の一生からすれば、十六年という歳月なんて大して長くはないんだろうけれど、一つの物事を経験するには十分すぎる時間だと思う。

 何が言いたいかというと、それだけ生きている私でも、幽霊なんて言うものは一度も見たことがない、ということだった。

 時折「幽霊を見た」とか「怪奇現象に遭遇した」なんていう話をする人間もいるらしいけれど、それもやっぱり、他人の気を引くためにでっち上げられた作り話なんじゃないかという疑念は残る。

 結局のところ、私がこの部屋に越してきてから見舞われた数々の出来事は、現実に説明のつくものばかりだ。それが幽霊の仕業なんだと言われても、とても信じられない。

 けれど、私と同じ経験をした住人が過去に何人もいて、中には死人さえ出ているという秋崎先輩の話は、確かに不可解なもので。

 ……本当にその出来事が事実なら、の話だけど。

 所詮しょせん、私はほんの最近になってこのアパートに越してきただけの新参者に過ぎない。本当に過去にそんな出来事があったかなんて判断のしようがない。先輩の話を疑いたくはないけれど、それだけ突拍子もないのは事実だ。

 そう思っているにも関わらず、私は脳が焼け飛びそうな恐怖を感じて震えていた。

 だって万が一にもそれが事実だとしたら。

 あの三○二号室に住んだ人間が辿った末路を考えたら、それは私の身にも降り掛かる可能性があるということでもあって……。

 そう考えると、途端に死が私の眼前に手を伸ばしてきているような気がした。この恐怖はもう、払拭のしようがない。

 先輩と話した日の翌日。

 その日は部活がないので昼近くまで寝ていて、起きたのは十時過ぎだった。ここ最近見舞われている非常識な事態のせいで、あまり寝付けないからだ。しかもほとんど意識があったような、眠っていたのかいないのかわからないような睡眠状態だった。

 食欲はない。

 冷蔵庫からミネラルウォーターだけを取り出してコップに注いで、度々たびたび溜め息をこぼしながら、ちまちまと喉に流し込む。

 一向に意識はクリアにならなかった。

 もやもやと思考がかすかっていて、頭の奥にちり付くような不快感がある。

 再び転居するべきかという考えが脳裏に過るものの、すぐにそれは現実的じゃないという結論に至ってしまった。ただでさえここに越してきたばかりで、諸々の資金に余裕があるわけじゃないのだから。

 口が裂けても、母にそんなことは提案できない。

 そうやって進むことも戻ることもできないような閉塞感に頭を悩ませていたときだった。

 唐突に、リビングに置いてある固定電話が静まり返った室内の空気を震わせた。

 私は「ひっ!」と短く甲高い悲鳴を漏らして、思わず肩を飛び上がらせてしまった。……まったく、心臓に悪い。

 とりあえず、こんな精神状態ではまともに応対できないので、早々に気持ちを落ち着けて電話に向かい、そして何の疑念も警戒心もなく受話器を取った。


「はい、もしもし、美沢です」

『…………』


 私は定型句で応答するも、返ってきたのは息遣いも聞こえないような無言だった。

 しばらく待ってみたものの返答がないので、再度受話器に声を向けてみる。


「もしもし?」

『…………』


 しかしやっぱり、返ってきたのは変わらない無言だった。

 やがて、電話の向こうに聞こえるほんの微かなノイズがいやに耳に障り始めて、私は根拠のない不安感を覚えて受話器を置いた。

 静かに、ゆっくりと、まるで見咎みとがめられるのを避けるように。

 起床が遅くなったせいで昼が近いこともあり、室内にはエアコンが掛かっている。高めの設定温度にしてあるとはいえ、暑さのせいだけじゃない、嫌な汗が首筋を伝い落ちていった。

 言い知れない悪寒が全身を這い回る。


 トゥルルルルルル――と、再び電話がコールを鳴らした。

 しかし、私の手は一向に受話器を拾い上げようとはしない。

 今、私の脳裏に張り付いて離れない嫌な予感はただの気のせいなのかもしれない。

 さっきは何らかの原因で偶然無言に聞こえただけかもしれない。

 あるいはこの電話の主は、さっきの電話の主とは別人かもしれない。

 けれど、どうしても。

 私の手が受話器に伸びることはなかった。

 どうしてもこの電話に出なきゃいけない理由も……ない。

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