八(2/2)

 先輩はそこで、一度言葉を切った。

 その先は、薄々予想がつく。

 

「つまり、玄関の鍵穴の周りが誰かに傷つけられていたり、部屋が誰かに物色されていたり、外を一人で歩いていると誰かに後をつけられている気配がしたり……」


 予想は的中する。

 やっぱり、それは私が今体験している出来事とまったく同じだった。

 ただ、十年前のそれが現在のそれとどう繋がるのか、やっぱりその疑念は消えずに残る。


「血のついた手紙が送られてきたり、執拗に無言電話が掛けられてきたりもしたらしい。明らかなストーカー行為だね。もちろん警察にも相談したけど必要最低限の対応しかしてくれなくて、なかなか収まってくれなかったんだって。……それが何ヵ月か続いて、心身共に限界が来始めていた時に、それが起きた」


 こちらを窺うように流し目を向けた先輩に、私は息を呑む。

 そこで起きた何かというのがその女子大生の命運を左右する決定的なものだというのは、確認するまでもなかった。


「出掛け先から帰宅したときに、留守中に部屋に忍び込んでいたストーカーの男とはち合わせちゃったんだって。住人だった女の人も忍び込んでいた男のほうも混乱して、男は口封じに女の人を殺そうとしたらしい。いや、元々そのために忍び込んでいたんじゃないかっていう見方もあった。もちろん女の人も抵抗した。けど、その抵抗が行き過ぎて……揉み合っている内に勢い余ってストーカーの男を返り討ちにしちゃったんだ」

「それって要するに……」

「殺されそうになって、逆に殺しちゃったってこと。正当防衛は成り立たなかったらしい」

「…………」


 私が今まさに生活しているあの部屋で、人が死んでいる?

 背筋が凍りつくような錯覚に見舞われた。

 けれど。


「今回のこととそれに、なんの関係が……?」


 ストーカーの男は不幸にも住人の女性に返り討ちに遭って既にこの世にはいない。

 十年も前のそんな事件が、現在の私に何の関わりがあるのか。


「問題はここからなんだ」


 そう改めて切り出そうとする先輩の纏う空気に、どこか悲壮感さえ漂い始める。


「十年前のその事件から今までも何人かの人があの部屋を借りたけど、若い女の人が入居すると、必ずストーカーの被害に遭ってるんだ。十代後半から二十代前半の若い女性は、必ず」


 私の背筋はもう凍りっぱなしだった。

 最初のストーカーは殺されてしまったはずだから、別のストーカーということになるんだと思う。

 けれど……。

 私は上の――三○二号室のあるほうを見上げる。

 そこに入居した若い女の人は、必ずストーカーの被害に遭う?

 意味がわからなかった。

 模倣犯が最初のストーカーの後を継いでそういう嫌がらせをしているっていうこと?

 十年間ずっと?

 何のために?

 意味もなくストーカーなんてしてもリスクを無駄に負うだけで、何の得もないような気がする。

 それとも結局、最初の人と同じ趣向の持ち主だということになるのだろうか。

 あの部屋に入居した若い女の人を無差別に狙うなんて、気が多いにも程があるとも思うけれど。

 理解が及ばなかった。

 今日、部活で友達がぽつりと漏らしていた疑問が脳裏にぎる。


「どうしてストーカーなんてするんだろうね」


 と、人をそんな行為へと走らせてしまう心理状態への不可解さ。

 鳥肌が立った。

 理解が及ばないことは怖い。

 不明瞭なことは怖い。

 不鮮明なことは怖い。

 それは死ぬことに恐怖を抱くのと同じなのかもしれなかった。


「それだけじゃないんだ」


 それは今日、この話を初めてから一番弱々しくて、震えていて儚い、消え入りそうな声だった。


「今までに何人の女性があの部屋でストーカー被害に遭ってきたのかわからないけど……実際に四人、最初の女性と同じ、心臓麻痺で亡くなっている女性がいる」

「! それは、どういう……」


 理解が追い付かなくて、あまりにも突拍子が無さすぎて、脳が思考することを拒否している。先輩が告げた事実を上手く処理できない。

 苦渋の滲む顔で、先輩は続ける。


「それが本当にわからないんだよ。ただ、この辺りに住んでる人は殺された女性たちがストーカー被害に遭っていたことは知ってるから、当初はそのストーカーに殺されたんじゃないかって噂が広まったらしい」

「でも心臓麻痺なんですよね?」

「心臓麻痺なんだけど、さすがにそれだけ続くのはおかしい……っていうことで、警察も懸命に色々調べてくれたらしいんだけど、一向に何の手掛かりも得られなくて、とっくに捜査も打ち切られててさ、今ではこう噂されてる。『十年前に返り討ちにされたストーカーの男が、化けて出て復讐に来てるんじゃないか』って」

「…………ははっ」


 思わず乾いた笑いが漏れた。

 これはもう笑うしかない。

 だってこともあろうに、幽霊なんて。

 どう考えてもありえない。

 非現実的過ぎる。非科学的過ぎる。

 ……ただ、頑なにそう思い込もうとしながらもその笑いが乾いたものとなってしまったのは、秋崎先輩の表情が揺るぎないほどに神妙なものだったからで、嘘や冗談を口にしているようには見えなかったから。

 どちらかと言えば、信じたくなくても信じざるを得ないというような、そんな苦渋の表情。


「でも噂……なんですよね?」

「うん……」

「その幽霊を、誰も見たわけじゃないんですよね?」

「……うん」


 私の問いかけに、先輩は肯定の意を返す。

 けれどその真意は、その言動とは正反対のものだということは確認するまでもない。

 数秒か数分か、どちらともなく口を開かなくなって、ただただ沈黙が二人の間に流れた。

 私が招き入れられたときにオンにされたエアコンの冷気が何度も私の肌を撫でて、妙に冷たく感じるその感覚は、まるで見えない何かに触れられているようにも感じた。

 そしてまたいくらか時間が流れた後、気遣わしげにこちらに視線を向けて言った。


「俺の連絡先教えるから、また何かあったら連絡して。いつでも力になるから」


 俺に出来ることはほとんどないかもしれないけど……と、自己嫌悪気味に付け加えて。

 その言葉が、先輩自身、ストーカーの霊を否定していないことを何より裏付けていた。

 私たちはお互いの連絡先を交換すると、先輩は私のお母さんが返ってくるまで、私を部屋に置いてくれた。

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