タイミング的にすべて母のイタズラかと思ったけれど、性格的にそれはないと思った。

 それに今さっき起きたことを話すと、母は普通に鍵を開けて入ってきただけだという。

 玄関のドアが何者かに殴打されるような音が止んだ後、母がそのドアを開けるまで一分もなかったと思うけれど、どうやら母も犯人の姿を見てはいないらしい。

 このアパートはセキュリティなどもまともに整ってはいない賃貸物件なので、防犯カメラなんていう気の利いたものもない。実質的な被害――被害の痕跡など――もないとあって、警察への通報は見送ることになった。

 ただのイタズラかもしれないし、とりあえずは様子見ということで、私もそれに同意した。

 それから数日。

 やっぱり取り越し苦労だったのか玄関のドアが誰かに暴力を振るわれるようなことはなく、何事もない日常を過ごすことができた。あれはちょっと進化したピンポンダッシュくらいの、やっぱりただのイタズラだったんだろうと判断し、あの日抱いた恐怖心も徐々に薄れていっていた。

 しかし、仕事で忙しい母に頼まれて食材の買い出しに出た、その帰りの話。

 数日前にアパート前の公園で話した陰気で根暗な印象のあの男の人が、この日もまったく同じ場所に佇んでいた。

 この公園がアパートの目の前にある以上、もう毎日のように目に入ると言っても過言じゃないんだけど、本当に毎日、男はそこにいた。公園のベンチの上で空を見ていたり、寝ていたり、遊びに来ている子供たちをぼーっと眺めていたり。

 そんな公園の入り口近くにご近所さんだと思われる中年のおばさんが三人いたけれど、もうあの男の人が公園にいるのは恒例となっているのか、そちらのほうには見向きもせずに世間話に花を咲かせていた。

 本当に他愛のない、どうでもいい話。

 そんな話に夢中になっていたおばさん方は、けれど私が近くを通り過ぎようとすると、ふとこちらに気付いて話を止めた。


「こんにちは」


 その視線に気付いて私が挨拶をすると、一応は快く挨拶を返してくれる。

 そしておばさんたちに背を向けてアパートに向き直ると、私の背中にヒソヒソ声が聞こえてきた。


「あの子よ、あの子。あの部屋に新しく入居した子」

「あの三○二号室に? 本当に?」

「かわいそうにねぇ。今度は前みたいにならないといいけど」

「秋崎さんとこのお子さんが早速声を掛けてたわよ」

「また? 手が早いわねぇ」

「手が早いってあなた」


 突っ込みじみたその一言を皮切りに笑いが巻き起こる。

 一応は声を潜めてはいたみたいだけど、聞こえていないとでも思ってるのかな。足を止めずに階段を上っていったのに全部丸聞こえだった。

 話に出ていたのは、私とあの三○二号室、そして秋崎先輩。

 私が噂されるのはわかる。このアパートに引っ越してきたばかりの新参で、話好きな主婦の話のまとになるのは避けられない流れだと思う。

 けど、どうして秋崎先輩が話に出てくるの……?

 何とはなしに疑問に思いながら階段を上がっていた私だったけれど、三○二号室の前にたどり着いた途端、その思索も強制的に打ち切られた。

 鍵を差そうとしたドアノブが、何か鋭いもので引っ掻き回されたかのように傷つけられていたことで。

 冷静に努めて思い返してみるけれど、買い出しに出た時はこんなんじゃなかった。出掛ける前、鍵を掛けた時には傷一つない、綺麗なドアノブだった。間違いない。

 また、誰かのイタズラ?

 なんだろう、この感じ。

 じわじわと、帰宅中の夜道で霧が立ち込めてきたかのような不安感。

 漠然と、不穏な先行きを感じる。 

 さっきのおばさんたちに噂されていたことを思い出す。

 これは本当に、ただのイタズラなのか。

 放っておいていい問題なのか。

 言い知れない不安を抱きながらもこれからの身の振り方を考えていた私の思考は、またもや硬直を強いられることになった。

 私の私室にある物の位置が、出掛ける前と比べると明らかに動いていた。

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