59、友達の代償

リリスが視線を落とし、話し始める。

シンとした食堂に彼の少年らしい高く澄んだ声が響き、肩でうとうとしていたヨーコ鳥も目を覚まし耳を立てた。


「私は……師のお供で神殿や他のドラゴンの方々、身分の高い方と接する機会が多くございました。

でも、そのたびに養育係の方に厳しく、自分の立場を知るよう、間違いの無いよう教えていただきました。

ですから……巫子様をお友達とはとても口に出せません。恐れ多いことでございます。」


いつだったろう、神殿にお供で行って、イネスと遊んで楽しかったことを家でうっかり養育係のベレナにらした時。

あのベレナから受けた折檻せっかんはひどい物だった。


思い出したくもない。

恐ろしい。



あの時……

同年代の友達など一人もいない、仕事ばかりで他の子供と遊んだこともなかったリリスは、初めて髪や目の色を気にすることもなく、子供同士で子供らしく本当に嬉しくて楽しくて舞い上がっていたのだ。


イネスと釣りに行き、森の中でかくれんぼをして一緒に遊び、勉強のあとは甘く濃いシビルの乳とほっぺが落ちそうなお菓子を一緒に食べ、楽しいおしゃべりにきょうじ……掃除を手伝うとたいそうほめられてうれしかった。

そして夜は肌触り良くシミ一つ無い夜着よぎそでを通し、ふかふかの布団で包まれるように一緒に休み、見たこともない美しい絵本を読んで貰った。

神殿では誰もがリリスを大切にし、子供らしく扱ってくれて……

その、夢のような時間。



でも、その楽しい思い出は、簡単に踏みにじられ地獄のような記憶にすり替わってしまった。

そして彼女にはその時、二度と地の神殿には行かないときつくちかいを立てさせられたのだ。

でも、リリスはその後もウソをつき、頻繁ひんぱんに地の神殿へとひっそりと勉強に行った。


ウソなんてついたことがない自分の、あれは、ほんの少しの反抗だったと思う。

しかし……ベレナはもう家には来ないけど、思えば確かに巫子様を友達なんて言えた身分じゃない。

彼女の教えの通りだ。

折檻せっかんで傷ついたあとは自分の身分の低さが身にしみて、それからイネスとの間に一線を置くようになったのはいなめない。

巫子は王の次の位。

本来、家無し孤児の召使いが、口をきくことさえ許されないお方。


イネスにはそれがもどかしいのだろうけれど、それは仕方のないことだった。


サファイアが口元に微笑みをたたえ、うなずいた。


「わかっていますよ、私は知っています。」


どきっとリリスが顔を上げる。

サファイアのすべてを見透かしたような顔は、時々怖い。


「なにを……でしょう?」


「セフィーリア様が、ひどく案じていらっしゃいました。

私も偶然そばでお聞きし、驚いて印象に強く残っております。

でも、イネス様はご存じありません。それはきっとあの方が傷つくから……」


「何を……」


「あなたがセフィーリア様の留守に……

養育係の方にイネス様と遊んだことが知れて、激しくムチ打たれたことです。

ひどいケガで数日熱が出て起き上がれなかったとか。

セフィーリア様は、まさかあそこまで養育係があなたを傷つけるとは思っていらっしゃらなかった。

原因を知って、大変なショックをお受けになっていました。

家にいれば安心と気を抜いた、自分のせきであると。」


あっとリリスが息をのんだ。

セフィーリアがそれを知っていたとは知らなかったからだ。

ベレナは服で隠れる部分ばかりを執拗しつように、それはしつこく打ちえた。

起き上がれず、なんとかって自分の部屋に戻ったのは覚えている。

だから、痛みを我慢してなんとか風邪で誤魔化せると思ったのに、やっぱりご存じだったのか。


「あれは……私が悪かったのです。

身分を忘れ、巫子様を友達と軽々しく呼んで激しくしかられました。

どうか、もうお許し下さい。」


思い出したように、ブルリと一つ身をふるわせる。そして、ハッと目を開けテーブルに置いた手を握りしめた。


あれは、助けてくれる者もなく恐ろしかった。

でも……でも今はそれ以上に……


『ムチで、叩かれた』


それを知られたことが、今のリリスにはとても恥ずかしくなった。

こんな身分の高い方々が聞いて、どう思われたことだろう。


「子供をムチで叩くなど、ひどいことです。許されません。」


サファイアがため息混じりに漏らす。


「ムチは、あの、小さい頃からしつけで……あの…………」


小さく、つぶやくように返した。

なんと言っていいのかわからない。

唇をかみ、まともにサファイアの顔を見ることが出来ず、うつむいて言葉をさがす。

きっと、心の中で笑われているに違いない。

自分以外に、人からムチで叩かれる人を見たことがない。

使用人の中で、ムチで叩かれていたのは自分だけだった。

それは自分が何も知らない子供で、家無しだからだと理解していたけど……


そうだ、他の使用人は、笑って見ていたじゃないか。


これは、とても恥ずかしい事じゃないだろうか。


相手は老女で、ベレナの前に5歳の頃までいたサーベラは、同じムチでも愛情があったと思う。

それがベレナに変わってからは、格段に厳しくなった。


城に厳しく言われてきていたのかもしれない。

彼女の振るうムチは、本当に痛くて自分は奴隷なんだと思った。

お尻をムチで叩かれているのを見られて、他のお弟子様にひどく笑われたこともある。

恥ずかしくて、くやしくて痛くて、座れなくて、夜ベッドの中で何度も泣いたっけ。


どうしよう、なんと言えばわかっていただけるのか。


サファイアの腰にもムチがある。

しかしそれは動物を叩く物で、人を叩く物ではないだろう。

同じように思われているかもしれない。


どうしよう、なんだか……ひどく自分がみじめになって行く。




ふと……

リリスの手に、サファイアが手を重ねた。


「怖かったのですね。」


「えっ!」


「怖かったのですね、辛かったでしょう。

だから踏み出せない。

でも、あなたはイネス様の大切なご友人。

今では、あなたのお味方は沢山いらっしゃいます。

あなたは、魔導師としても立派になられた。

私は、もう踏み出してもいいと思いますよ。」


「で、でも……」

思わず、リリスの目に涙が浮かんだ。


やっぱり、


やっぱりサファイアは自分の気持ちを理解してくれる。

恥ずかしいことだとは思っていない。

本当に、親身に思ってくれているのだ。


「でも、まだ……

どうか、しばし時間を……」


「もう、すでにあなた方が出会って5年になります。

あなたは恐らく、その時もう会ってはならぬと言われたはず。しかしあなたは、変わらず神殿へ来てイネス様の心のいやしとなって下さいました。

イネス様は他の巫子様と兄弟としてお育ちになりましたが、ずっと友人が無く寂しかったのです。

何より代えがたい友であるあなたと、こんな身分などという物で距離を置くことほど、何の実も結ばぬ事だとは思いませんか?」


涙が、あふれて落ちた。


でも……

でも私は……


『イネス様は大切なお友達です』


たったこれだけの言葉が、どうして言えないんだろう。

重い鉛が喉にあるように、あのムチの痛みと鬼のような老女の顔が、思い出されて言葉が出ない。


あのとき何度謝って、泣きながら床に頭をすりつけ懇願こんがんしても、打つのをやめてくれなかった。

裸にされて、背中が焼けるように痛くて苦しくて……

ひどくみじめで悲しくて……

自分はセフィーリア様がいないと、本当に誰も頼れる人はいないのだと、涙が止まらなかった。



ああ、私が王子であったなら。



その時、初めてリリスの心に王家の人々の顔が浮かんだ。

それはキアンをうらやむ気持ちであり、父であるはずの王に対して口惜しく思う気持ちでもある。

出生を知ってから、ずっと心の奥に閉じ込めてきた暗い感情。


世継ぎじゃなくてもいい、せめて王の血筋を認めてくれたなら、こんなに苦しむことはなかったのに。

どうして、どうして自分は捨てられたんだろう。

どうしてこんな色で生まれたんだろう……


でも……ああ、でも、イネス様を失いたくない。

かけがえのない、本当に大切な。

本当は、身分など関係がない。

でも、身分の違いが……忘れられない、目をそらせない。

また、誰かにムチ打たれるような恐怖が、胸を締め付ける。


どうしたら、どうしたらいいのでしょう、母上様。


「時間を……しばし時間を……」


落ちる涙が、テーブルをらす。

サファイアが顔を上げ、ドアに首を振った。



ドア口で聞いていたガーラントが、サファイアにうなずきため息をつく。

そしてそっとドアを閉め、廊下にいるイネスに視線を移した。

イネスは、間を置いて食堂へ来るようにサファイアにうながされたのだ。

何故リリスがその言葉を言えないのか。

その理由を知るために。


イネスはうつむき、ギュッと握った手を握りしめている。

そしてくるりときびすを返し、歩き始めた。


「お戻りになられるか?」


小さく問うても、答えは返ってこない。

無言で部屋に向かう彼を、ガーラントが追った。

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