届けない想い

稲井田そう

第1話


 朝の通学途中。建物の柱に身を預け、スマホをいじるりょうの元に駆け寄る。


「おはよー諒、待った?」

「別に待ってない」


 彼はぶっきらぼうにそう言って、耳につけていたイヤホンを取りポケットにしまう。私が来ると、必ずイヤホンを取ってくれる。そんなところも好きだ。


「手」


 ふいに差し出された手に目を見開くと、諒は何の興味も無さそうな目で私を見て口を開いた。


「路面凍結の恐れってあった」

「う、うん」

「どっかの間抜けが滑って、轢かれるとこなんて朝から見たくない」


 諒は私の手を取る。そのままぐいっと引っ張りながら歩き始めた。


「え、え、りょ、諒?」

「何?」

「て、手、何これ」

「間抜けが滑らないよう掴んでるだけ。俺はお前が滑って道連れに成るほどやわじゃないしな」


 淡々と話す諒。だけど私を心配してくれているのが分かって心が温かくなる。


「ありがと……。でも、ま、間抜けって」

「間抜けだろ、この間のテスト、俺が教えてやったのに赤点ぎりぎりで、今日補習課題が出たくせに」

「それはそうだけど、そんな言わなくてもいーじゃん」

「事実だろ、俺は嘘が嫌いなんだよ」


 言葉を交わしながらいつもの通学路を諒と並んで歩く。隣歩く横顔を、気付かれないよう盗み見する。


 私、紅平千明べにひらちあきは、幼馴染の弥本諒やもとりょうのことが好きだ。





 学校に近付くにつれ、繋いだ手は徐々に離れていく。校門に辿りつく頃には完全に離れた。


 私たちは付き合ってない。ただの幼馴染だからだ。


 諒と出会ったのは、本当にお互いが生まれてすぐの頃だった。


 諒の両親と私の両親が幼馴染同士で、家が近く。関わらないということが不自然なほど私と諒は一緒に居た。勿論幼稚園も、小学校も、中学校も一緒。そして今年高校も同じ学校に入学した。


 家が近いから一緒に遊ぶ。親同士が仲が良いから一緒にどこかへ出かけるのも多かった。ずっと一緒にいるからそばにいるのが当然で、幼稚園に入ってからも遊ぶのは諒とだけ。幼稚園に行くのも、家に帰るのも一緒。


 週末はお互いの家を行き来し泊まったりもしていた。大きくなって泊まることは流石になくなったし、学校の中で一緒に居ることはなくなった。そうして関わり合い方が変わっていく中で一緒に学校に行き、一緒に家に帰るのは今もなお続いている。


 諒は幼い頃から、とても独特な感じの子だった。


 口下手で良く言えば冷静、悪く言えばぶっきらぼうで子供らしくない子。


 照れ隠しでちょっときつい言葉を言う。それは成長した今も同じで、自分からはあまり人と関わろうとせず、休み時間は基本スマホでゲームをしているか、イヤホンで曲を聴いているか。


 友達はいるけれど、休み時間とお昼ご飯の時だけ集まって後は解散。かなりあっさりしている感じの付き合い方だ。男子生徒の中では目立つ立ち位置にはいないけれど、決して隅にいない独特な立ち位置に居る諒。


 女子からの人気は結構ある方で、ちょくちょく遊びに誘われたり話しかけられたりしている。けれど誘われるたびに諒は断ったり素気無く返事をしていて、どちらかと言えば女子に対して線を引き冷たい。


 でも、私にはちょっと違う。世話を焼いてくれるし自分から声をかけてくれる。何より勉強を教えてくれる。


 私は勉強が苦手で、身体を動かすことの方が百倍好きだ。


 だから成績もあまりよくない。


 いや、かなり良くない。進級の危機には陥らないまでも、補習やテストの点が低いことで追加で出された課題には度々引っかかり、そのたびに諒に助けを求めている。諒は「次は無い」と言いながら、毎回助けてくれる。


 そんなところも、好きだ。



「ねえ弥本くん、今日カラオケ行かない?」

「何で?」

「文化祭の打ち上げしよーよ!」


 昼休みが始まった直後、ふと諒の座席の前に同じクラスの女の子たちがやってきて、彼を囲むように立つ。バレない様に弁当を取り出しながらゆっくりと聞き耳を済ませると、どうやら諒は打ち上げに誘われているようだった。


 文化祭の、打ち上げ。


 先週あった文化祭、私は諒と回った。私のクラスの出し物は展示で、特に当日何かをしなければいけないことは無かったから、二日間私と彼は一緒に居た。


 そして私は文化祭の日、諒に告白するつもりだった。でも出来なかった。言うチャンスは何度もあったのに、文化祭だから勇気が出ると思ったのに、結局私はそのチャンスを全部無駄にしてしまったのだ。


 好きで好きで仕方が無いのに。


 もう、何年も一緒にいるのに好きになるのが止まらないのに。


 こんなに好きなのに。


 小学三年生の頃、「紅平」という苗字を、「こうへい」だと読めるからという理由で、男子にからかわれた私を助けてくれた諒。


 お礼も言えず逃げ出すように走り去った私を追いかけて来てくれて、ぶっきらぼうな言葉で慰めてくれた諒。私が泣いているのを見えないように背中に隠してくれた諒。


 私を庇うその背中に恋をした。


 それから気が付けば諒を探して彼を想っている。少しでも接点を探して彼のいない時、彼と関係のあることを見つけて勝手に嬉しくなったりする。


 でも、気持ちが伝えられなくて告白しようとしてはチャンスを無駄にする。最近では図書室のリクエストコーナーで、幼馴染に告白したいけど出来ない勇気が出したいと相談するくらいだ。諒は図書室に行かないし筆跡も変えた。私だと分かることはない。


 占いにも縋る。毎朝各局の星占いの恋愛項目を見て一喜一憂して、一位の時は告白しようと決めて家から出て結局告白せずに帰宅する。


 背が伸びるのと同じように、年を重ねるごと大きくなった恋心は、際限なく毎年毎年積み重なる想い。


 いつか伝えなきゃと思うけれどあと一歩が踏み出せない。


 だって私と諒は幼馴染だ。


 恋人同士じゃなくても、特別な枠にはいる。


 前と、後ろ、右と左に線を引くみたいにして、諒にとって何でもない人じゃなくて特別な枠。


 幼馴染だから一緒に帰って、幼馴染だから一緒に勉強して、幼馴染だから優しくしてもらえる。


 そこにどうしようもなく安心してしまう。毒のような依存性の高い、居心地の良さを感じてしまうのだ。


 きっと諒は打ち上げの誘いを断って、課題を手伝ってくれるはず。だって私は幼馴染だから。その枠さえあれば、私は……。



「いいよ、カラオケ。行く」


 聞きなれた声に目を見開く。時間が止まったような感覚がする。何で、どうして、諒?


 声をかけてしまいたくなるのをぐっと堪え、お弁当に視線を固定する。


 いつもなら断るのに。今日私が補習あるの知ってるのに。


 何で?


 頭の中で疑問がいっぱいになる。諒の前の女の子たちも想定外だったのか、嬉々として諒と予定を立て始める。彼はいつも通りのぶっきらぼうな口調で返事をしている。


 変わってる。何かが。変わってる。


 私はその場から動けず、ただじっと手元のお弁当を眺めていた。



「はーあ」


 放課後の教室で一人課題に取り組む。外はもう日が暮れかけていて、教室の電気をつけた方がいいけれど、何となく立ち上がる気にもなれず見えづらくなった課題の文字を目を凝らしながら読み込んでいく。


 文化祭の日。


 あの日諒に告白していたら、もしかして今日は目の前に諒が居たのだろうか。


 それとも諒に避けられて、そもそも朝一緒に登校することすらなかったのかもしれない。


 なら告白しなくて良かった?


 ずっと、このまま気持ちを伝えなければ、どれくらい一緒に居られるんだろう。


 それが全く分からないから、辛い。結果が分からない、先が見えないから、怖い。


 一生気持ちを伝えず傍に居られるなら、そうするのに。


 でもそうしていたら、幼馴染から一生抜けられないことも分かってる。本当に欲しい諒の心が一生手に入らないことも知ってる。


 でも言えない。


 だって好きだと言うことは、幼馴染の特権で傍にいることが出来る未来を壊してしまうかもしれないこと。


 私は諒の、もっと特別になりたい。本当は好きだと言いたい。……言ってほしい。


 諒が私をほんのちょっとでも女の子として見てくれているなら、望みはあるかもしれない。


 でも本当にただの幼馴染としか見ていなくて、他に好きな女の子がいたら。


 幼馴染特権はきっと永遠に使えなくなる。傍に居られない。


 諒の傍に居られなくなるくらいなら、このまま黙って傍にいたい。


 でも諒に彼女が出来た時、私はきっと後悔するのだろうとも思う。勇気を出していれば隣を歩くのは私だったのかもしれないと、諒と彼の彼女が歩く姿を見て思う。


 気持ちを伝えて諒の傍に居られなくなること、気持ちを伝えず彼が彼女と幸せになるのを見守ること、どっちが辛いんだろう。


「あーあ……」


 今日も「好き」と「でも」ばかり繰り返して、終わってしまった。


 来年、諒と同じクラスになれる保証なんてどこにもないのに。同じように彼に彼女が出来ない保証なんてどこにもないのに。


 今日も私は何も出来ない。溜息を吐くと、がら、と教室の扉が開く音がした。


「何泣きそうな顔してんの?」


 不意にかけられた声に反射的に顔が上がる。そこにはいつも通りの諒が立っていた。


「諒……? 何で? う、打ち上げ行ったんじゃないの?」

「校門出てすぐ、家の用事あるって言って抜けて来た」

「え……? じゃあどうしてここに……」

「用事あるならここ来てない」


 諒は溜息を吐きながら私の前の席の椅子を引き、こちらに向かって座る。


「う、嘘吐いたの?」

「ああ」

「だ、だって嘘、嫌いじゃあ……」


 目の前の光景が途方もなく嬉しい。なのに嬉しいと伝えられず、どうでもいいことを指摘してしまう。諒は気怠そうに背負っていたリュックを机の上に置いた。


「お前に嘘吐くのが嫌いなだけで、別に嘘が嫌いな訳じゃない。補習にのこのこ引っかかった幼馴染置いて、打ち上げに行くとか終わってるだろ」


 はあ、とため息を吐きスマホをポケットから取り出す諒。


「六時からランキングイベあるからそれまでの間だぞ。しっかり集中してやれよ」

「……ありがとう、諒」


 諒が来てくれた。打ち上げ断ってまで、私のところに。幼馴染としてだけど、


「……別に。お前の為じゃないし」


 諒はスマホの画面に目を向けながら、ぶっきらぼうにそう答えた後溜息を吐いてから、呟く。


「それにお前が馬鹿になったのは、俺にも責任があるからな」

「ば、馬鹿って言わなくてもいいじゃん」


 本当は馬鹿って言われてもいい。諒が一緒に居てくれるなら何でもいい。けれどどうしても恥ずかしくて、おどけるようにそう言うと彼はこちらに目を向ける。



「馬鹿だよお前は。……ほら、さっさとしろ、もう一時間切ってる」

「はーい」


 諒がいる。それだけで気持ちが明るくなる。


「諒、ありがと」

「……ん」


 諒はゲームに集中し始めたのか、もう返事すら適当だ。そんな諒の表情を気付かれないようにそっと見る。


 実は、補習。帰ってもいいって、言われてた。


 ……でも何となく帰る気になれなくて。それにもしかしたら諒が来てくれるんじゃないかって、期待して残ってた。


 そんなことあり得ないって考えながらずっと期待してた。諒のこと待ってた。


 そう言ってしまえたらどんなに楽なんだろう。





 そろそろ頃合いかと、カラオケボックスに向かっていた足を止める。ある程度規則正しく立てられていた足音がぴたりと止んだ。

「悪い、俺、用事思い出したから帰る」

「えっ弥本くん?」

「う、うそ、弥本くん来ないの?」

 唐突に発された俺の言葉に、戸惑いの目、引き留める声が纏わりついてくる。

「本当悪い、じゃあ」

 それらを振り切るようにして、踵を返し学校へ駆けていく。はやく早く戻りたい。彼女の元へ。千明のもとへ。



「あれ、弥本どうしたんだよ」

「忘れ物」


 校門に差し掛かったところで部活の走り込みに向かうクラスメイトに声をかけられ、足を止めることなく短く答え通り過ぎる。


 不意に空を見上げると、空は血のように赤かった。遠くは既に群青が赤を上から抑えつけるように侵食していっている。その青を見ていると日が暮れる早さを実感するとともに、鮮やかな光を穢し侵していく暗闇はまるで千明と俺のようだと静かに思った。


 千明。


 俺の好きな、たったひとり。


 今頃、補習授業をしていることだろう。俺とさえ出会わなければ、きっと受けることが無かった補習を。


 千明は元々そこまで学力の低い人間じゃ無かった。本人は身体を動かす方が得意だと言うけれど、授業の話はちゃんと聞くしノートだってしっかり取る。補習に出なければいけないような成績では決してなかった。


 俺はそれを少しずつ、少しずつ変えた。


 授業の話をちゃんと聞くしノートだってしっかり取ったままの千明に、勉強会と称して勉強を教えることで彼女の学力を崩していく。


 本来の解法とは別のあえて応用に近い解法を教え、最終的に俺に助けを求めに来るよう仕向ける。


 今後に関わる重要な部分を学んだ日はあえてその日のうちに復習させないよう、ゲームの手伝いという名目で呼び出す。


 そうして成績が悪くなった千明にテストに向け勉強を教え、ぎりぎり補習に引っかかる学力に調整し補習を受けさせる。


 結果的に千明の成績は落ち、補習に頻繁に引っかかるようになった。


 それら全ては千明に好かれるために行った自作自演の行為であったなら、まだ救いがあったように思う。けれど俺はそれですらない。全ては彼女の傍にいる理由を作るためだ。


 そうでもしなければ幼い頃から話すことが下手な俺の傍に、千明はいてくれないだろうから。千明と一緒にいられないから。


 こんなにも想いが歪み始めたのはいつからだろう。少なくとも初めは純粋な恋心だった。家が近くで親同士の仲が良くて、幼稚園で周囲と溶け込めない俺の手をいつも引いてくれていた千明。人付き合いが苦手で話が下手な俺に大丈夫だよと笑いかけてくれた千明。そんな笑顔に恋をした。


 毎日毎日、雪のように降り積もっていく想い。それはいつの日か氷のように硬く鋭くなり、取り返しがつかないほど捻れていた。


 その歪みを決定的に自覚したのは小学校の頃だ。それまでずっといっしょに居てくれた千明が、俺だけと話をしていた彼女が俺じゃない人間と……同性の女の子と会話する機会が増えた。


 今思えば、当然だと言える千明の変化。


 なのに俺はそれが怖くて仕方がなかった。千明にいつか捨てられると思った。だって俺は面白くないし、足もそこまで速くない。勉強が少しできるくらい。でもそれが何になる? 俺には彼女を引き留めるものが何もない。小さい頃から一緒にいたという思い出しかない。


 だから他の子の良さが分からないように、俺が何にもないやつだと分からないように他の子と話さないで、遊ばないで俺だけと話して、俺だけと遊んで……そう言ってしまいたかった。でも言えなかった。


 だって千明は俺と親同士の仲がいいから俺と話す。俺の傍にいる。俺と幼馴染だからだ。俺じゃない別の人間が千明と幼馴染であったなら、千明はその人間と仲良くする。仲良く出来る。そんなところも好きだ。それでいて苦しい。


 だから俺は千明が傍にいてくれるように、彼女の学びを崩して将来の可能性を狭めている。


 そんなことをして好きになってもらえるはずがないのに。


 なのに千明は俺に言う。


「いつもありがとう、諒」

「いつも悪いね、諒」

「本当助かるよ、諒」


 そして俺はこう返す。


「別に、お前の為なんかじゃない」


 千明がその言葉を謙遜として受け取っている。


 そんなはずない。千明の為を想うなら正しく勉強を教えている。彼女から離れている。


 全部痛いくらいに分かっている。自分のしている行いが正しくないことも、千明を苦しめる結果になることも。この好意は彼女の枷になり毒になることも。


 なのに止められない。時間が止まってくれとただただ願うことしか出来ない。


 それならば想いを伝えてしまえば良い。なのにそれすら出来ない。言葉を伝えて拒絶されることが怖い。


 どう言葉にしていいか分からない。


 好きと言ってしまえばいいのにうまく出来ない。馬鹿みたいに策略ばかり巡らせて、種明かしをしたら嫌われることばかりしてして、好かれる行動一つ一つが悉く出来ない。


 今日だって普通に打ち上げに出ないと最初から言ってしまえば良かった。千明を不安にさせる必要なんてなかったのに、打ち上げをするメンバーが教室に残り彼女と二人きりになれなかったらと考え、打ち上げメンバーが早々に校舎から出るよう中途半端な態度を取った。


 そうしてあと一歩を踏みとどまることを繰り返して、一歩を踏み出した時に想いを拒絶されたら俺は千明を殺してしまうのだろうと思う。それか、俺が死ぬかだ。


 他の誰かと幸せになろうとする彼女の背中に刃を突き立てて、一思いに刺す。


 一体どちらが先なのだろう。


 本当は世界で一番愛している存在。千明さえいれば何もいらない。彼女の笑った顔はいつだって見たくて大好きだ。なのにそれが他の男に向けられるくらいなら殺してしまいたくなる。殺してしまえば、どんなに彼女が俺を好きじゃなくても命は手に入る。手に入れることが出来る。彼女の最後は俺のものになる。


 毎日毎日そう考えては己の考えの醜さに絶望する。それでも好きだと言う気持ちが止められない。


 突然いつも隣にいた幼馴染が死を選んだら彼女はどう思うのだろうか。


 自分を刺そうとしてきたらどう思うのだろうか。


 殺してしまえば永遠に会うことは出来ない。話すことは出来ない。二度と彼女の笑顔を見ることは出来ない。けれどそれは彼女に拒絶された時と同じだろうと思う自分が確かにいる。拒絶されて話さなくなるのも、殺して話さなくなるのも同じだと。


 ならばいっそ、今彼女の隣に恋人として他の男が立っていない今、殺してしまえば。


 そうすれば俺はもしかしたらあの時、千明も俺を好きだったのかもしれないと期待し後悔しながら生きていける。それは千明が他の男と共に歩む未来を見てから千明を殺すより、より一層千明と強い絆が感じられるように思う。


 千明が俺を好きになってくれればいいのに。そうしたら殺さずに済むのに。幸せに出来るのに。


 そんなことあり得ないと分かっているのに、彼女の笑顔を見る度に期待してしまう。


 なんて俺は、馬鹿なんだろう。



「ごめんね諒、すっかり遅くなっちゃって」

「別に」


 補習課題を終え教室を出て、比較的さっぱりとした顔つきの千明の隣を歩く。


 廊下は薄暗く、沈みゆく太陽の余りのような光がかろうじて物の陰影を照らしていた。


「あれ?」


 千明が唐突に声をあげる。彼女の視線の方向を見やると、狭間の暗闇の中図書室の前に一筋の光が差していた。


「あそこ、電気、つけっぱなしになっているみたいだね。消しに行ったほうがいいのかな、誰かいるのかな」


 彼女がそう話しながら図書室の前の天井を指で示し図書室に向けて歩みを進めていく。


「あ、あ、あ、やばい」


 が、突如声をあげると歩みを止めた。


「千明……?」

「や、や、やっぱり作業中かもしれないし、そのままにしておこう、かな、うん、それがいい。それがいいよ、そうしよ?」


 あはは、と明らかに焦りはじめた千明の表情。何かを隠しているのは明らかだ。図書室に何があるのか。


「ま、待って諒!」


 立ち止まる千明を追い越し光のほうへと向かう。あと数歩で辿りつくと思い一歩踏み込むと、彼女は俺を制止するように腕を掴み引っ張り始める。全力で体重を後ろにかけ掴む腕に、確信した。絶対何かがある。


「何?」

「いや、帰ろう? よくないよ! もう下校時刻だし! 帰った方がいいよ!」

「下駄箱まではここが最短ルートだけど」


 そう言って腕を掴む千明ごと引き摺るように前に進み、光に照らされた場所……図書室の掲示板の前に立つ。


 なんてことないただの掲示板だ。図書室に新たに入ったラインナップが書かれた貼り紙、図書室内に設置されたリクエストボックスに投書されたリクエストの回答。


 確か相談を交えたリクエストが増え少し話題になっていたような……。


「これ……」


 図書室の掲示板に貼られたリクエストコーナーの回答。端から三番目のリクエスト用紙の見慣れた文字が視界に入る。筆跡は変えている。でもこれは間違いなく千明の字だ。心臓の音がうるさい。でも。だってこれは間違いなく、千明は、俺を。


 目を見開きながら千明の方を向くと、彼女は顔を真っ赤にして俯いている。


 相手の気持ちが分かって伝えるなんてずるい。でもそんなのどうでもいい。


「好きだ、千明、お前のこと、世界で一番好きだ」


 何千回と心の中で反芻した言葉を口に出すと、千明はゆっくりと顔をあげ頼りなさげな声で「私も諒が好き……」と呟く。その瞳はぼろぼろと涙を零しながら俺を見ている。


 ああ、全部が欲しい。その胸を刺して殺して命を奪うだけじゃ、足りない。過去も今も未来も全部欲しい。


 もう絶対、逃がさない。幸せにして傍にいる。



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