第16話 再会

どこまでも何もない空間を、僕はウォータースライダーのように流された。


体を少し傾けると流れる方向が変わるので、彼女のクラシックギターの音を頼りに体を右に左に操縦した。ギターの音が小さくなると、慌てて体の位置を変えて元のルートに戻ろうと体を捻った。


死後の世界はこんなにも何にもないんだなと思った。

どこまでも真っ白で、景色という景色がなかった。


どれほどの時間が経ったのか分からないが、急にクラッシックギターの音が大きくなってきた。その旋律は少しずつ激しさが増していき、まるで彼女が喜んでいるようにさえ聞こえた。


「全く、こんなところまで来るとはね。」


流れが止まったので、僕はゆっくり起き上がった。目の前には見覚えのあるテーブルセットがあり、一人の女性がそこに座っていた。

女性は屋上で会ったスミカとは見た目が違っていて、それでも僕はすぐに彼女が『松尾純夏』の大人になった姿だと分かった。


「なんというか…ごめん。」


僕は一体自分が何に対して謝っていいのか分からなかったが、ひとまずは彼女に謝罪の言葉を告げた。

彼女はクスッと笑って、いいのよ、と言った。

目の前にいる松尾純夏は、穏やかな笑みを浮かべていた。


「私こそごめんね。あんな冷たい態度取っちゃって。でもそれがルールなの。奉仕活動中は対象者と過度な接触は禁止されているの。私だって本当は話したいことが沢山あって、我慢するのが大変だった。」


「けど全然見た目が違うじゃないか!あれじゃあ絶対気づかないよ!」


松尾純夏は僕の様子を見てクスクスと笑った。


「一度死んだ人間が同じ容姿で下界に行くわけにはいかないからね。ゲームみたいにカタログから好きな顔を選べるのよ。せっかく転生出来るなら思いっきり美人の顔型を選んじゃった。驚いたでしょ?」


「相変わらず趣味が悪いね。それで、奉仕活動っていうのは?」


「こっちの世界はね、時々ボランティアを募集してるの。主に人間界で困っている人を助けるのが目的なんだけど。ずっとここにいても飽きちゃうから、私もたまに参加するようにしてのよ。もちろんすごく人気だから、当選する事は滅多にないんだけど。」


松尾純夏はハキハキと喋り出した。彼女は今まで起こった出来事の答え合わせを嬉しそうに始めた。


「私に与えられた奉仕内容は、『恋人に振られて自殺しようとしている男を救え』だった。なんでわざわざあの世からそんな事しに行かなきゃいけないんだろうと思って、初めは断ろうと思った。でも対象者の名前を見たらビックリ!偶然にも同級生の名前があるじゃないの。すぐに立候補したわ。」


あの世の気の利いたシステムに感心しながらも、僕には色々と引っかかっている事があった。純夏は訝しげな顔をしている僕の顔を嬉しそうに長めながら話を続けた。


「もちろん、誰でも転生出来るわけじゃないの。私の場合、生前に大切にしたものを魂の媒介にする必要があった。そう、あのオーガスタね。ありがたい事に、店長さんがまだオーガスタを枯らさないで育ててくれたおかげで、私は転生することが出来た。」


僕は初めて屋上庭園でオーガスタを見た時のことを思い出した。その時スミカが少しだけ笑った気がしたのは、きっと僕が彼女の存在に気づいたことを喜んだんだろう。


「僕が花屋でパキラを買ったことも関係してる?」


「察しがいいわね。今回の場合において、パキラはあの世とこの世を結ぶゲートの役割をしている。あなたがパキラをマンションに持ち込んだことで、初めてこのボランティアは成立したのよ。逆に言えば、転生はそれくらい偶然が重ならないと出来ないことなの。まあでも、あなたはこんな所に来てしまったから、結果は大失敗だけどね。」


純夏は肩をすくめ、僕の方を恨めしそうに見た。そう言えば、生身の僕は8階建てのマンションの屋上から飛び降りたはずだ。その時の事はあまり覚えてないけれど、僕がここにいるという事は、つまりはそういう事なんだろう。せっかく純夏がボランティアで僕を助けて来てくれたというのに、僕は最悪の形で終わらせてしまったことになる。

僕は改めて、ごめん、と彼女に言った。


「あの屋上庭園も、クラシックギターも、落ち込んだ僕を慰めようとしたものだったんだね。」


「そうよ。それにしても、あなたが屋上にサンドイッチとワインを持ってきた時は可笑しかったわ。」


「まさか君があんなに酒豪だとは思わなかった。」


「私は植物を媒介にしているからね、固形のものは一切食べれなかったの。でもお酒ならいけるかなって思って。ワインがあんなに美味しいものだなんて知らなかった!ビックリしてゴクゴク飲んじゃった。次の日は植物のくせに二日酔いしたわ。ああ、あのサンドイッチも食べてみたかったな…」


「それならまた作るよ!僕もこれからはここの住人になるんだ。ライ麦のパンがボソボソするんだけど、慣れるとすごく美味いんだよ。こっちの世界だってそれくらいはあるんだろう?」


純夏は宙に浮いた細く長い足をプラプラとさせて、僕の方を見ながらゆっくりと首を振った。


「残念ながら、そろそろ時間よ。」


彼女に言われて僕は自分の手を見ると、その指が薄らと透けていっていることに気づいた。


「これは、どういう事?」


「あなたは直感で私があの場所から飛び降りたと思ったみたいだけど、実は逆側なの。安心して。あなたはまだ死んではいない。すぐ下の階のバルコニーに落ちただけ」


「そんな!せっかくここまで来たのに!まだ話してないことがたくさんあるんだ!」


僕はどんどん薄くなっていく自分の体に焦った。彼女の正体も、彼女が現れた原理もどうでもいい話だった。そんな事よりも僕は彼女に伝えなければいけない事があった。気づけば僕の口はすっかり消えていて、残りは顔の半分が残るだけだった。


純夏は笑っていた。

彼女は立ち上がって、半透明な僕の前に近づいた。

細くて白い指が、僕の半分になった顔を優しく撫でた。


「私に対して、もうどんな贖罪も反省もいらない。あなたがあのマンションから飛び降りる姿を見て、私はどんなドラマや映画よりも感動したわ。もうあなたは卑屈で小さな人間じゃない。誰かの為に自分の身を投げ出せる、勇気のある人間なのよ。弱い自分はもう死んだわ。孤独を恐れず、これからはちゃんと自分のために生きなさい。それが私の…」


彼女の言葉は最後までは聞こえなかった。僕の目は涙で溢れていて、その水滴の粒は僕の視界から彼女の姿を見えなくした。それでも僕は彼女の伝えたかった事をほとんど完全に理解した。その世界のカケラになるまで、僕はしっかりと彼女の温もりを感じていた。

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