第15話 Dive to sky

翌朝、僕はマンションの出入口にある管理人室を覗いた。


当たり前だけどそこにスミカの姿はなくて、初老の男性がうつらうつらと気持ちよさそうに船を漕いでいた。僕はガラスの窓をコツコツと叩いた。

初老の男は突然眠りから覚めて少し不機嫌そうな顔で僕の方を見た。


「あの、急にごめんなさい。このマンションの最上階に住んでいる者なんですけど。」


僕は昨夜考えたセリフを間違えないように注意しながらゆっくりと言った。


「洗濯物が風に飛ばされて屋上に登ってしまったみたいなんです。一緒に取りに行って貰えませんか?」


管理人は怪訝そうな顔をしていたので、僕はもう少しばかりふかすことにした。


「いや、恥ずかしい話なんですけど、実は妻の下着でね。あんなに派手なものを今だによくつけるなと私も思うんですがね。流石にご近所さんのベランダに落ちる前に回収してやりたいと思うんですよ。」


管理人はその話に少し興味を持ったようで、キーボックスの中から屋上の鍵を持ち出して部屋から出てきた。それはそれは、とさぞかし仕方がなさそうな顔をして呟いた。


僕らはエレベーターで最上階まで行き、廊下の端の螺旋階段を登った。管理人の鍵で屋上の扉は呆気なく開いた。


「ありゃまあ、なんだこれは」


管理人が驚いた声でそう言うので、僕は彼の背後から屋上に向かって顔を突き出した。屋上には芝生なんてなくて、なんの変哲もないグレーのシートで覆われていた。

屋上にはカラスが群がっていて、管理人は近くにあった箒で鳥たちを追い払った。カラスが群がっていたところには見覚えのあるアルミホイルが転がっていて、覗いてみると茶色いパンの残骸が見えた。


「誰かがここで酒盛りでもしてたのかねえ」


付近に落ちていた空のワインボトルを拾って管理人が残念そうに呟いた。サンドイッチもワインボトルも、どちらも僕が持ち込んだもので間違いがなかった。


「ちょっと失礼しますね。」


僕はそういって屋上の端まで歩いていった。

四角形の屋上の隅、かつてウッドデッキが敷かれていた場所には、大量の吸殻が落ちていた。もちろんそこに赤い灰皿はなかった。


狐につままれた、という言葉通りだった。


僕は間違いなくこの場所にいて、酒盛りをしたりサンドイッチをしたりタバコを吸ったりしていた。かつての残骸たちがその証拠だった。けれでもそこに植物やウッドデッキなんてなくて、どこにでもあるような殺風景なマンションの屋上の風景が広がっているだけだった。


僕は自分の幻想と現実に少しずつだが線引きをし始めた。


その日、屋上には強い風が吹いていた。僕は屋上の隅までゆっくり歩いていった。遠くから、あんまりそっちに行ったら危ないぞ、という管理人の声がした。

僕はその言葉を無視してどんどん端へ向かって歩いていった。

とうとう屋上の縁まで辿り着いた。そこには柵がなくて、遥か真下に公園が見えた。僕はどうしてか、彼女がここから飛び降りたのだろうと直感で分かった。


急に強い風が止み、当たりが静まり返った。遠くから何か管理人が叫んでいるようだっだが、口がパクパク動いているだけで何も聞こえなかった。空は雲ひとつなく晴れていて、ギラギラとした太陽がどうしようもなく眩しかった。


耳を澄ますと聞き覚えのある音が聞こえた。スミカのクラシックギターだった。その音は僕を慰めるようでも、励ますような音でもなかった。ただ自然に流れる風の音のように、平穏な景色を邪魔する事なくその空に流れていた。


やっぱりそこにいるんだな、と思った。


僕は屋上の縁に足をかけて一気にそこから飛び降りた。

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