第11話 仲介業者

僕はその日、仕事を早めに切り上げて仲介業者の事務所に向かった。

早めに切り上げたとは言っても、時刻は夜の7時を回っていて、事務所は閉店間際だった。


僕は遠くから事務所を覗いた。閉店前の事務所には来客者はおらず、そこには僕に家を紹介してくれた吉田さんが一人デスクワークをしているだけだった。逆に都合がいいなと思った。

僕の姿を見つけると、吉田さんは驚いたように声を上げた。


「橋岡さん!どうしたんですか急に?何かありました?」


家を契約した後に契約者が仲介業者を訪れるのは稀だからか、彼は僕が新居で問題を抱えているんじゃないかと思って不安そうな顔をしていた。すぐに事務所の中に案内して冷たいお茶を出してくれた。


「遅い時間にごめんなさい。新居は快適でなんら問題がないんです。ただ少し気になることがあって…」


吉田さんはそれを聞いてさらに不思議そうな顔をした。新居に不満がないのならなぜこの店に戻ってきたのだろう、という疑問を分かりやすく顔に浮かべていた。僕は彼に、自分の抱えている問題をどの程度話そうか悩んでいた。いきなり自分の幻想の話をしたところで、きっと僕のことを頭のおかしいやつだと思うだろう。


「その、変な事を聞くようなんですが、吉田さんってこちらで働かれてどれくらいでしたっけ。」 


「そうですね、今年でちょうど3年目になります。」


相変わらず彼の顔にはクエスチョンマークが浮かんでいたが、僕の質問には丁寧に答えてくれた。3年目であれば、スミカの事件のことを知っている可能性は低かった。僕は正直に、今自分の住んでいる部屋がネットの表示よりも一万円安くて不安になった事を伝えた。吉田さんは、そんなことか、と安心したように軽く笑った。逆に安くなってよかったですねと呑気に言ったが、僕が思いの外真顔でいたので彼はすぐに店員モードに戻った。


「たしかに橋岡さんの部屋だけ家賃が下がってるのは変ですね。」


彼は姿勢を直してネットの表示を見た。僕が指摘した通り、同じ階でも僕の部屋だけが家賃が低いのは変わった事であることを認めた。


「橋岡さんの気にされている事は分かります。でも事故物件というのはそもそも告知義務がありますし、仮にそうだったとしても家賃はもっと分かりやすく下がるものなんですよ。僕の担当した物件では少なくとも2〜3万くらい下がっているのが相場です。見たところそういった情報はありませんし、管理会社が値段の入力を間違えたとか、そういったところじゃないですかね。」


彼の言う事は最もだったが、僕は引き下がらなかった。確かに事故物件には告知義務があるが、それは自分が住む直前に自殺があった場合のみだと聞いたこともある。仮にあの部屋で自殺があったとしても、8年前であればその告知義務の範囲外ということになるだろう。


「たとえば、数年前にその部屋で事故があったとして、その事を調べる事は出来ますか?」


吉田さんは、出来ない事はないのですが…と曖昧に呟いた。


「吉田さん、僕は仮に今の自分の部屋でバラバラ殺人が起こっていたとしても、決して契約を解除しないと誓います。ただ僕は、本当のことが知りたいんです。僕はどうしてかあの部屋にいると、奇妙な幻想を見てしまうんです。それはあの部屋で何かが起こったとしか思えなくて、不安で不安で夜も眠れなくて…」


そこまで言いかけて僕はハッとした。つい感情的になり言わなくてもいい事を言ってしまった。僕は恐る恐る吉田さんの顔を見た。彼は僕の話を聞いて、笑うわけでもなく、呆れるわけでもなく、ただ顎に手を当てて神妙な顔つきで考え込んでいる様子だった。


「その手の話は嫌いじゃないんで。」


そう呟くと、彼はパソコンのキーボードをカタカタとテンポ良く打ち込み始めた。


「僕は今から少しだけ会社の規律を破ります。ただし約束してください。これから何を見聞きしても、決して誰にも言わないという事を。」


僕は黙って大きく頷いた。僕が彼を信用しているのはこういうところだ。

物件探しの時でも、彼は自分の興味を持ったことがあると仕事の損得関係なく動くところがあった。時に不利益になるような情報でも、僕が踏み込んで聞くと彼は答えてくた。


それからしばらく彼はパソコンと睨めっこをして情報収集に励んだ。

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