第8話 メモリーズ

この街に越してくる一ヶ月前に僕は彼女と別れた。


千夏とは6年間の付き合いだった。

もともとは大学の後輩だった彼女とは在学中特段親しい間柄ではなかったが、学校を卒業後に共通の友人を介して再会した。実を言えば僕はずっと彼女に片想いをしていたので、彼女と再会した事や、その想いが実った時は本当に嬉しかった。


彼女に自分と同じ思いがあったかどうかは分からない。それでも僕は、お互いがお互いを補ってあまりあるカップルだということを信じて疑わなかった。


交際から5年経って、僕らは同棲をする事に決めた。世間の人々がそうであるように、それは結婚を前提にした前準備であった。一緒に物件を選んでいる時は、これからやってくるだろう未来の生活に心を躍らせた。新生活に不安があったが、それでもこの人とであれば苦楽を共にできると信じて疑わなかった。


それでも幸せな時間は長くは続かなかった。同棲を始めてからは今までが信じられないくらい喧嘩が多くなった。愛情が少しづ形を変えていくのを感じた。

僕はそれをすごく自然な形であるように思ってしまったが、彼女はどうしようも無い閉塞感を感じていたのだろう。

いつの間にかデートらしいデートもしなくなり、僕らは同じ屋根の下、ただ生活を共にする住人になっていた。その事に危機感を感じるのが遅過ぎた。


僕が仕事帰りに彼女の機嫌を取ろうと一本の薔薇を買って帰った時、すでに彼女は家を出るための荷造りを終えていた。僕が感じていた関係性のヒビは、彼女にとって取り替えのつかない大きな溝になっていた。もう好きではなくなったから、と言って彼女は家を出ていった。


それから僕はこのワンルームに引っ越してきた。胸には大きな風穴が空いていた。寂しさを紛らわそうと毎日友人たちを家に招いては馬鹿騒ぎをした。友達といる時は少しだけ彼女の事を忘れる事が出来たが、翌日には前日のツケのように圧倒的な寂しさに襲われた。


胸に空いた風穴を埋められるものはないのだと気がついた。改めて彼女が与えてくれたものの大きさに気づいだが、それでも僕は腹をすかせた小僧のように、何でもいいから手当たり次第に空っぽの心に詰めようとした。


とうとう呼び出しに答えてくれる友人も居なくなって、僕の寂しさが限界を迎えた時、僕はスミカに出会った。正確に言えば、僕の心はスミカを作り出したのだ。


僕は失恋を乗り越えたわけでも向き合ったわけでもなかった。ただ空想の屋上に都合のいい女の子を住まわして、傷を舐めさせた。いつまで経ってもぬるま湯に浸かっていたかっただけだった。そうしてこれから待っているのは、そうやって楽な方向に転がっていた間のツケだ。そしてそのツケを支払わなければ、僕は一向に前に進む事が出来ない。


僕はベッドに横たわりながらぼうっと部屋の観葉植物を眺めた。パキラはいつの間にか葉っぱが丸まって元気がないように見えた。なにが幸せの木だろうか、と僕はあの女店主を呪った。思えばこの植物を持ち込んでから僕の膨大な妄想は始まったのだ。


しかし植物には罪はないし、パキラを枯らしてしまっては本当に自分には何も無くなってしまう気がした。こういう時、植物には栄養剤を与えるべきなのだろうか。僕はインターネットでいくつかのサイトを調べ、栄養剤を買いに駅前の花屋に行く事にした。

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