第7話 逃避の果て

仕事の現場が異動になってから1ヶ月が経った。


初めのうちは訳がわからず、いたずらに時間ばかり浪費していた仕事も、今は一つずつ謎が紐解けていき、多少なりとも余裕が生まれてきていた。上司の飯田さんから声がかけられたのはちょうどその頃だった。


僕らは会社からほど近くの日本食居酒屋に入った。

カウンターに二人肩を並べて座り、とりあえずビールを頼んだ。

乾杯をして喉の渇きを潤してから、飯田さんはいつものように豪快な顔つきで僕に話しかけた。


「橋岡、お前最近なんだか調子いいみたいじゃないか。今日も常駐先のお客さんから褒められたよ。しばらくはお前を担当から変えるなって、そこまで言われたぞ。」


僕は、ありがとうございます、と控え目に言った。僕の異動は前任の担当者が急に退職したことから穴を埋めるように決まったことなのだが、実際に誰にも仕事内容を聞けない状態で新しいことをするのは非常に大変だった。上司兼営業担当の飯田さんも、サポートはしてくれつつも実務に関しては専門知識があるわけではないので、こうやって仕事が落ち着くまでは大分心配だったのだと思う。今日はなんとか1ヶ月乗り越える事が出来た労いの会という訳だ。


「引っ越して職場まで大分近くなったので、仕事がしやすくなりましたよ。残業代もしっかりいただきますね。」


僕は上司をこれ以上心配させぬよう、出来るだけ優等生のように答えた。人を派遣させる僕の会社において、上司に相談して何かが解決するというケースはほとんどない。会社はいつも管理物件で事故が起きていないかしか気にしていないし、その事故を未然に回避するのが僕の仕事だ。僕は物件の抱える問題点と、その改善策をいくつか上司に挙げた。飯田さんはそれに関しては、「そうだな」とか「考えておく」とか短く答えるばかりだった。


「それにしても、だ。」


飯田さんはお手拭きでゴシゴシと顔を拭いた。短くない付き合いの中で、僕はこれが飯田さんが本当に言いたいことを話す前にする仕草だと知っていた。すぐに姿勢を直して彼の方を向き直した。


「プライベートの方はどうだ?彼女に振られてからしばらく経つけど、そっちの方は。」


僕は触れられたくない傷跡を急に触られた気がして、無意識に顔を顰めた。

僕のその様子を見て飯田さんも焦って言い直した。


「いや、嫌なことを思い出させてしまってすまない。そのな、ちょっと前までのお前は、端から見てもすごく落ち込んでいたんだよ。ずっとため息ばっかりついて。そりゃお客さんも心配するほどだった。いつも下ばっかり見て俯いてさ。周りの奴らも、お前が自殺なんかしたらどうしようって心配してたんだぞ。でも今のお前を見るとなんというか、すっかり立ち直ってるように見えたからさ。」


自殺、という言葉を聞いて僕の顔は大きく歪んだ。

失恋したての頃、僕は飯田さんが言うように、誰が見ても分かるくらい落ち込んでいた。自分でも感情のコントロールが上手く出来なかった。その時僕が普段どんな顔をして出社していたのか、思い出すことも出来ない。

それでも周りの人たちから自殺しそうだと思われていたとは知らず、僕はかなり驚いていた。


「それは、失恋のキツさっていうのは確かにありました。でもどうしてかな。仕事が忙しかったからかもしれないけれど、失恋したことすらすっかり忘れてました。逆に飯田さんに言われて思い出したくらいです。」


飯田さんはウンウンと安心したように頷いた。でも失恋のことを忘れていたのは、きっと仕事が原因ではなかった。彼にスミカの事を話そうか迷ったが、こんな事を言っても変なやつだと思われるだけな気がして言葉を飲んだ。


「そうか、それなら良かった。うちのカミさんな、幼稚園で働いてるんだけど、職場にフリーの女の子が多いって言うからさ。その気になったら紹介するよ。お前だってそろそろ前を向いた方がいいだろ。」


飯田さんの言い方は妙に心に引っかかった。それはまるで、僕がまだ失恋を忘れずに前を向いていないように聞こえた。僕は、そうですね、といい加減に返事をして注がれた酒をグイッと飲み干した。


飲み会は終電近くまで続いた。後半はほとんど会社の愚痴をお互いに言い合った。飯田さんはスッキリした顔をして、僕にタクシー代と言って千円を渡して、僕とは反対方向の道へ歩いて消えていった。まだ電車がある時間だったので僕はそのお金をポケットに入れてそのまま帰った。マンションに着いてからすぐに自分の部屋に戻る気がせず、僕は屋上庭園へ向かった。

時刻は午前0時を過ぎていて、当たり前だけどそこに誰かがいるとは思えなかった。


重い扉を開けると、ウッドデッキの椅子にスミカが座っていた。おかえりなさい、と彼女は静かに言った。僕はああ、と短く答えて咥えた煙草に火がつけた。


深夜のマンションの屋上は異様なくらい静かだった。

珍しく風がなく、シィンとした静寂で逆に耳が痛くなるほどだった。


「良ければ一曲弾きましょうか」


スミカの膝下にはクラシックギターがあった。


「こんな時間に迷惑じゃないかい?」


「平気よ。どうせあなたにしか聞こえないもの。」


そうだろうなと思った。僕は頷いて彼女に一曲お願いした。彼女の細い指がギターの弦を一本ずつ優しく撫でた。僕はもうずっと、この音に恋をしているようだった。彼女の生み出すその音さえあれば、僕はもう他になにも要らないとさえ思ってしまっていた。


それでもいい加減気づかなければいけなかった。

彼女の声も姿も、僕にしか見えないし聴こえないという事に。


僕は彼女の演奏を途中で遮り、もう大丈夫だよと伝えた。

彼女は心配そうな顔をしたが、僕は無理してぎこちない笑顔を作った。

煙草の吸い殻を乱暴に灰皿に押し付けた。

そして彼女の方は振り返らずに一気に屋上から部屋に戻った。


一月に2回も失恋を経験するなんて、思ってもみなかった。

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