第4話 憩いの場所

翌日、仕事が終わって遅くに帰ってきた僕は、昨日の出来事がどうにも信じられず、もう一度屋上へ向かうことにした。今度はエレベーターを使い、最上階の8街まで向かってから廊下の端の螺旋階段を登った。階段の最上部にはやはり鋼鉄製の扉があったが、鍵がかかっていた。僕は諦めて自分の部屋に帰った。


昨日拾った鍵はどこにやったのだろうと、部屋の中をあちこち探すが一向に出てくる気配がない。記憶が曖昧でほとんど覚えていないのだが、もしかしたらそのまま屋上には置いてきてしまったのかもしれない。


途方に暮れていると携帯の着信が鳴った。画面を見ると、この部屋を探すのを手伝ってくれた仲介業者の吉田さんからだった。彼は自分よりもずいぶん若い男だったが、人懐っこく親切で、物件選びに一際こだわりのある僕の要望を親身に聞いてくれ、この家を紹介してくれた。僕はすぐに電話に出た。


「もしもし、橋岡さんですか。その後新居の方はいかがでしょうか?」


地方から上京したばかりの彼の声は独特なイントネーションがあって、その声を聞いた僕は嬉しくなった。僕は、とても綺麗で暮らしやすく満足していますよ、と伝えた。


「そうですか、それは良かったです。実は橋岡さんにお伝えしなければいけない事があって…すごく言いにくいことなのですが、昨日管理会社から連絡がありまして、そちらのお部屋の周辺の方から、ちょっとクレームがあったみたいなんですね。」


僕は昨日スミカに言われた騒音のことを思い出した。


「ああ、すみません。騒音ですよね?引っ越したばかりで加減が分からず、つい大きな音を出してしまいました。管理会社の人からも怒られてしまって。今後は気をつけます。」


僕は早々と自分の非を認めて吉田さんに謝った。電話越しの声が少し止まる。僕は不審に思って眉を顰めた。


「そうだったんですか、それは聞いていませんでした。もちろん今後は気をつけていただくとして、今日お伝えしようとしたのは全くの別件なんです。」


僕は自分が先走ってしまった事を反省した。それならわざわざ彼に言う必要もなかったのに、余計な事を言ってしまった。


「実はお隣の部屋から、煙草の匂いについてクレームがありました。どうもベランダで煙草を吸われている方がいらっしゃるようで、その匂いが洗濯物に着くのをかなり気にされているみたいなんですね。橋岡さん、なにか心当たりありませんか?」


それは間違いなく僕だろうなと思った。僕は黙って話の続きを聞いた。


「もちろんベランダも占有区域ですから、どのようにご利用いただくかは入居者の方の自由です。ただ、マンションは共同住宅ですから、こういった要望が出てきてしまった以上、他の入居者様のこともご留意いただいてご利用いただけたらと思いまして。もし喫煙されるようでしたら部屋内でお願いしたいんですね。」


吉田さんは申し訳なさそうに、その後もマンション利用マナーについて説明を続けたが、僕は半分は聞き流していた。電話を切った後に煙草について考えた。


隣の部屋の住人に対しては大変申し訳ないことをしたと反省しつつ、喫煙場所がなくなってしまうのは死活問題だ。吉田さんの言うように部屋の中で吸えばいいのかもしれないが、喫煙者の自分でも煙草の匂いはあまり好きなものではない。

特に僕の部屋はよく友人たちが遊びに来るので、来客者たちに煙草臭い部屋だと思われるのは嫌だった。それならいっそのこと禁煙をしたらいいのかもしれないが、そんなに簡単に辞められないのが煙草の恐ろしいところだ。僕は今まで何度も禁煙を試みては、自分の心の弱さに負けている。


煙草の事を考えていると、情けないことにまた煙草が吸いたくなってくる。

そこで僕はふと考えた。あの屋上庭園はどうだろうか。風通しがよく周りに何もないから誰にも迷惑をかけないし、ウッドデッキの椅子に腰掛けて植物を眺めながら一服するのはなかなかに気分が良さそうだ。

僕はダメ元で再度屋上に向かった。ダメ元でドアノブを開けるとガチャリとした音がして扉が開いたので僕は驚いた。


夜の遅い時間だというのに、彼女はそこにいた。プランターの前で中腰になって土に生えた雑草の手入れをしていた。僕は彼女に昨日はどうも、と挨拶をした。

彼女は僕の方をチラッと見て、さぞ興味がなさそうに庭仕事に戻っていった。

僕は先程の仲介業者との会話を彼女に話した。彼女は聞いているのかいないのか分からない様子だったけれど、僕は構わず続けた。


「それならここで吸えばいい」


僕が話し終えると、彼女は何だそんなことかと言わんばかりにそう答えた。僕はあっけなく彼女が自分の提案を呑んでくれたことに驚きつつも、もうすでに口には煙草を咥えていた。


「それで、ここには灰皿はあるのかな?」


図々しくそう聞くと、彼女は面倒そうな顔をしながらテーブルの奥のほうへ顎を差し向けた。彼女の言う方に目をやると、屋上の角の隅っこに、昔懐かしい赤く四角い形をした大きめの灰皿を見つけた。灰皿には吸い殻は一つも見当たらなかったが、テーブルセットと同じく大分年季が入っているようで、所々赤い塗装が剥げていた。


「すごいなぁ、ここには何でもある。ちなみにハイボールなんかもあったら最高なんだけど」


僕が戯けてそう言うと、今度は彼女は完全に無視した。それは僕の冗談に付き合えないというよりも、自分の仕事は終えたからあとはお好きにどうぞ、というような様子だった。周りのことを気にしないで、夜風に当たりながら一服をするのはなかなか気持ちが良かった。スミカは僕がいつでも一服出来るように、いつでも鍵を開けておいておくと言って帰っていった。

無愛想ながらもこちらの要望はちゃんと満たしてくれる人だと思った。その日から僕は仕事が終わるとこの屋上庭園に通うようになった。

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