第3話 屋上の演奏会

謎の女は僕を庭園の端にあるウッドデッキに案内した。


そこには年季の入った木製のテーブルセットが一つあって、僕はその折りたたみ椅子に腰掛けた。椅子は座っただけで少し軋んだが、頑丈な作りのようで座り心地は悪くなかった。ウッドデッキからは外の景色が覗けた。遥か下の方に見覚えのある公園が見えたので、ここが異世界ではないことを知り安心した。


「あの、ごめんなさい。勝手に入ってしまって。」


僕は女の方を見てまず謝った。自分の状況が今ひとつ理解できていないのだが、先程とは打って変わってこの無表情の女に対して僕はあまり恐怖を感じていなかった。

はじめは彼女がこの世の人間ではないと考えてしまった。しかしよく見てみると足はちゃんとついているし、服装はその辺の大学生のようにシンプルで飾りっ気のないものだった。年齢は20代前半だろうか。若そうにも見えるし、表情がないから歳をとっているようにも見える。おそらくセルフカットをしているだろう前髪はところどころ不揃いで、せっかく顔立ちがいいのだから綺麗にしたらきっとモテるだろうなとさえ思った。


「別に。ここは誰の場所でもないから。」


女は無愛想に、誰に向けてでもなく囁くように言った。それは風が吹くくらいの微かなものだったけれど、不思議と僕の耳にはよく聞き取れた。


「ええっと、先週からこのマンションに引っ越してきた橋岡といいます。君は…なんて呼んだらいいのかな?」


女は僕の方をじっと見て、薄い唇を微かに動かした。


「スミカ」


「スミカさんね。スミカさんはここで一体何をしてるの?庭の手入れのアルバイト?」


スミカは今度は何も答えなかった。違うと言う事だろうか。彼女は相変わらず無表情だったが、それでも僕は彼女のことがすごく気になった。自分よりもだいぶ年下の女の子に見えた事もあるだろうか。少しずつ環境に慣れてきて、だいぶリラックスした態度で彼女に話しかけた。


「それにしても、すごい庭園だね。僕は普段オフィスビルの管理をしていて、仕事柄よく屋上庭園を見るんだけど、こんなに見事なものはなかなかないよ。そこの真ん中の植物、ええとなんだっけ、そう、パキラだ。さっき駅前の花屋さんで同じものを買ったんだけどね、僕のものよりも随分と大きく育ってる。見たところ3mはあるんじゃないか?」


スミカはその話を聞くと、「あぁ、それで」とだけ呟いた。

なにが「それで」なのかは分からなかったが、この女の子に説明を求めてもきっと求める答えは返ってこないだろうと思い、早々に諦めた。


僕が話すのをやめて庭園を観察しだすと、スミカはやっと自分の番になったとばかりにゆっくりと喋り出した。


「あなたの事はよく知ってる。405号室の橋岡大地さん」


彼女の口から自分のフルネームが出てきたので、僕は植物を見るのをやめて慌ててスミカの方を振り返った。彼女はそんな僕の様子も意に解すことなく話を続けた。


「私はこのマンションの管理人をしてる。先週あなたが引っ越してから、周りの部屋からは騒音の苦情がもう10件も入っているの。」


彼女の意外な言葉に僕は驚いた。騒音の件もそうだが、彼女がこのマンションの管理人だと言う事にもだ。自分の中ではマンションの管理人とは定年後のおじさんやパートタイムのおばさんの仕事のように思っていた。スミカは見たところ大学生くらいの年頃で、とてもそんな仕事に就いているようには見えなかった。


「あぁ、ごめん!引っ越したばかりで、つい人をたくさん呼んで騒いでしまったかもしれない。」


「別に。ただそう思っている人がいるって事は知っておいてほしくて。」


スミカの言い方には妙に説得力があって、その言葉はグサリと僕の胸に刺さった。彼女からの指摘を受けて、自分がしてしまったことを大きく反省して俯いた。


「辛いことがあったのね。」


少し目を離した隙に、彼女の膝の上にはクラシックギターが乗っていた。

僕は訳が分からずに彼女のことを凝視した。


「これも仕事だから。」


彼女はそう呟くと、おもむろにギターの弦を爪弾きだした。白くて細長い指がギターの上にそっと置かれる。それは楽器を「弾く」というよりも「撫でる」という行為に近いように見えた。クラシックギターはスミカが少し触れただけで、力強く美しい旋律を奏で始めた。その音は一瞬で僕の脳を支配した。瞬間、懐かしくて哀愁のある曲が流れて、僕の荒んだ心をあっという間に包み込む。ストレスで凝り固まった心がゆっくりと、マッサージを受けるように揉みしだかれているようだった。


スミカの演奏は1時間のようにも感じたし、実際には5分程度のものだったのかもしれない。時計を持っていなかった僕にはそれがどれくらい続いたのか分からなかった。気づけば両頬には涙が伝い、ジーンズの膝に水たまりの跡が出来ていた。


スミカはギターを優しく芝生の上に寝かせると、もう遅いから帰りなさい、と言った。あたりはすっかり暗くなっていた。


僕は彼女の前で人目を憚らずに泣いてしまったことが気恥ずかしくて、彼女とは目を合わせずに、一言ありがとう、とだけ言ってその庭園を後にした。彼女は出口まで見送ってくれた。


その後、僕はどうやって自分の部屋に帰ったのか覚えていない。しかし、1ヶ月ぶりに何も考えずに熟睡すること事が出来たのは、間違いなく彼女のおかげなのかもしれない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る