第20話 あした世界が終わるなら
その日、私は救命救急センターに駆け込んだ。
患者としてではなく、医局へ。
「センセイ! 祥子センセイ!」
「あれ、出石さん? どうしました?」
「美樹が……帰って来ないの」
「えっ」
一瞬驚いたものの、時計を見た祥子センセイは
「まだ8時ですよ?」と、何をそんなに慌てているんだ?という顔をした。
「違うの、今日は診察の日で。検査結果を聞くだけって言ってたから午前中で終わってるハズで。そういう日はいつも早く帰ってくるのに、今日は待ってても帰って来なくて。電話しても繋がらないし。センセイ、お願い!他に頼れる人いなくて」
必死さが伝わったのかはわからないけど。
「少し待っててください」と言って、パソコンを操作した。おそらく電子カルテを呼び出してるんだろう。
センセイは少し考えている様子で、私はじっと待っていた。
「出石さんは、家で待っていてください。心当たりを探してみます」と言った。
カルテの内容は教えてもらえないのは当然だけど。
「でも・・・」
「美樹が帰ってくるかもしれないでしょ? 必ず連絡は入れますから、とにかく落ち着いて、待っててくださいね」
言われた通り、家に帰って待つ。時が経つのが遅い。美樹は帰ってくる?悪いことばかり考えてしまい、不安だけが募る。
日付が変わる頃、祥子センセイから連絡が入った。
「遅くにすみません。大丈夫ですか?」
「もちろん、お待ちしてました」
「美樹は無事です。今すぐには帰れませんが、必ず出石さんのところに帰ると言ってるので、信じて待っていていただけませんか?」
「どこにいるか、教えてもらえないの?」
「それは……」
「私には会いたくないって?」
「そういうことでは……」
「いつもそう、肝心な時は私じゃないの。センセイは会って話したんでしょ?」
感情に任せてセンセイにあたってしまった。
「出石さん……明日、時間作って貰えますか?話せないこともあるけど……医局へ来ていただけると助かります」
「もちろん、行きます」
「では、明日」
約束の時間に医局へ行く。
一晩経って、少しだけ冷静さを取り戻していた。
「こちらへ」と通された机の上には、いくつかの書類や検査データが雑多に置かれていた。
「これ…」美樹のデータ?
「あ、コーヒー淹れますね」
センセイは席を立つ。
「私が勝手に見たってことでいいんですよね?」
チラリとこちらを見たけれど、無言でコーヒーメーカーを操作している。
そっと血液検査の結果を見ると、腫瘍マーカーが上がってる?
「どうぞ」
置いてくれたコーヒーには目もくれず、机の上の現実から目が離せなかった。
「治療は?この数値なら化学療法ですか?」
「それなんだけど……」と溜息を吐く。
「美樹が拒否してる?」
それで帰って来ないの?
以前、放射線治療の時にも悩んでいたから、今回はそれ以上なのかもしれない。
「主治医にも話を聞いたんだけど、やっぱり早ければ早い方がいい。出来れば説得して欲しいんです」
ーー私には無理だったーーと悲しげに。
出石さんにしか出来ないと思う、とも言う。
「でも、私には……」
自信がなかった。
「家族じゃないから、
どれだけ愛していても家族にならなければ、人生の大事に関わることが出来ないのだ。命に関わることなら尚更だ。
「それはそうなんだけど、美樹も頑固だし。でも、出石さんの言葉なら聞き入れてくれるんじゃないですか?なんで美樹が化療を拒否してるかわかりますか?」
これです。と1枚の紙を差し出された。おそらく、投薬予定の薬の説明書だ。薬効や副作用が書かれている。
吐き気、排便障害、皮膚障害、脱毛etc。
え?脱毛?
それを気にしているの?
化学療法の辛さは分かっているつもりだった。でもそれは、看護師サイドとしてだ。
「私は……美樹の気持ちを尊重したい。とにかく会いたい。って伝えてください」
「わかりました」
数日後、美樹は帰って来た。
「おかえり」
「ごめんなさ…」
「おかえり」
今にも泣きそうな顔で謝ろうとするから、もう一度「おかえり」と言う。
「……ただいま」
「ん。お風呂にする?ご飯にする?お腹空いてる?」
「今は空いてない」
「じゃ、お風呂だね。一緒に入る?」
「いえ...」
「ん、じゃ温まってきて!」
若干強引に浴室へ送り出した。
美樹がいない間にいろいろ考えた。
私は美樹のために何が出来るのか?
答えは出なかった。
わからなくなって、逆を考えた。
私は美樹に何をして欲しいか。
特に何もない。
ただ、そこに居てくれればいい。
結局、普段通りに接することにした。
お風呂から上がる頃を見計らって、アイスココアを作って一緒に飲んだ。
何も聞かないし、美樹も何も言わなかった。
付いていたテレビでは、誰某が金メダルを取ったとか、先日から始まったスポーツの祭典のダイジェストが流れていた。
「あした世界が終わればいいのに」
美樹がボソッと呟いた。
テレビからの歓声で掻き消されるような小さな声だった。
「それもいいね」と言うと、少し驚いた顔をした。
「世界と一緒にいなくなれば、見送ったり見送られたりすることもない。一人になるよりはその方がずっといい……ねぇ美樹、世界が終わる時には一緒にいようね、そうすればきっとまた新しい星の元で出逢えるハズだから」
そう言うと、今度は本気で驚いていた。
「真由美さんが、そんな風に言うとは思わなかったな」
「えっ、なんで?」
「真由美さんは強いから、そんなこと言うなって、怒られると思ってた」
「強くなんてないよ、美樹が帰って来ないだけでパニックになってたんだよ。美樹がいなければ、きっと生きていけない」
「真由美さんに触れたい……」
遠慮がちに指先が触れる。
「おいで!」
美樹を抱き寄せた。
しばらく、そうして美樹を抱きしめていた。
ただ触れ合うだけで気持ちが落ち着いていく。
「あした世界が終わっても……」
「うん」
「真由美さんと二人で生き残りたい」
「ん?」
「他の全てを失くしても、真由美さんと一緒に生きていく」
「それは、いいね」
「真由美さん、私、髪切ってもいいかな?」
「ショートの美樹も可愛いだろうなぁ、うん、見てみたい」
「もう、真由美さんニヤけすぎ」
「想像したら、つい」
ようやく美樹の笑顔が見られた。
そうして、美樹の化学療法が始まった。
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