死神代理人
夜の店や、カジノ、酒場が立ち並んでいる。看板のネオンで、夜であるにも関わらず、昼のように明るい。歩いているだけで目がチカチカする。道端では、ホストやキャバ嬢が、客引きに精を出している。地面には空き缶やゴミが散乱しており、空はたばこの煙で霧がかっていた。
黒猫紳士は、腰に携えた杖に手をかけ、隣を歩く少女に声をかけた。
「真面目な国民性だと聞いたが、こうも落ちぶれているとは。本当に裏道へ入るのか?」
「表通りよりも、面白いネタが見つかりそうでしょ?」
少女は白いシャツと黒いスカッツを着ていた。黒の長髪が、街灯の光を反射してきらめく。幼さ残る笑顔は、いたずらっ子のそれに近い。
「原稿を書く前に死んでは、元も子もない」
「ねこさまなら大丈夫」
黒猫紳士は、ため息をついて彼女に続いた。
繁華街の、高いビルとビルの狭間。ポリバケツのゴミ箱と、割れた酒瓶が散乱し、ネズミが這いずり回る場所。
二人の人がいた。
一方は、肩まで伸びる黒髪をなびかせ、ペストマスクをかぶり、漆黒のトレンチコートを着た医師。否が応でも死を連想させる。
もう一方は、学生服を着た若者。顔は白く、体は細く、生気がない。
死の化身が、目の前の若者へ、メスを向けていた。
「助けなきゃ!」
「旅行記のネタを探していたら、殺人現場を見つけるとはな!」
黒猫紳士は、ペストマスクと若者の間に割って入った。少女は、若者を避難させようと手を引っ張る。しかし、なぜか彼は逃げようとしない。恐怖で足が動かないのか?
「ねこさま、お願い! 時間を稼いで」
「言われなくても、やってやるさ」
狭すぎるため、杖を振るえない。黒猫紳士は、敵の頸部を爪で狙った。対してペストマスクは身体をのけぞりかわした。続けて何度も爪をふるったが、やはりかわされてしまった。
敵の動作自体は遅い。しかし、黒猫紳士の攻撃前に、すでに回避を完了しているのだ。五感が異様に発達している上、人体構造を完璧に把握しているらしく、どんな攻撃も紙一重で当たらない。
「やめろ!」
突然の出来事だった。若い男が、ペストマスクをかばったのだ。
「なっ!?」
黒猫紳士、驚いて攻撃を止めてしまった。
ペストマスクは、若者の首をメスで一閃。若者は、静かに地面へ倒れた。なぜか血の一滴も出なかった。
「しまった」
爆発音と共に、煙が満ちる。おそらく、発煙手榴弾。
「待て!」
煙が消えるころには、黒医師は跡形もなく消えていた。
少女が若者に駆け寄る。黒猫紳士は奴を追跡するか逡巡したが、あきらめることにした。少女の安全の確保の方が、先決だ。
青年は、メスで首を斬られたにも関わらず、傷ひとつなかった。公衆電話で救急通報。しばらくすると、サイレンを鳴らして救急車両が到着。
「ねこさま、彼! 息してない! どうしよう!」
「どうしようもない。病院へ着くまでに、心の整理でもしておけ」
死因は脳梗塞と診断。どう見ても、自然死だという。
廊下で担当医に詰め寄り、奴について話した。
「仮に、傷をつけずに手術できる超能力者がいたとしよう。しかし、目視すらせず、パスタの麺よりも細い血管を、正確かつ自然に詰まらせるような芸当が、人にできると思うかね? 少なくとも、この道四十年の私には、無理だ」
少女は、腑に堕ちない表情を浮かべた。医者は、眉間にしわを寄せ、しばらく黙ったあと口をひらいた。
「死神代理人という妙な噂が流行っている。特定の場所を指定し、自殺志願者を誘導、病死や事故死に見せかけて殺す。裏路地や廃墟などを探れば、もしかしたら巡りあえるかもしれない。まあ、探ったところで、無駄足だろうがね」
「なぜ、無駄だと決めつけるの?」
今まで黙って聞いていた少女が、反論した。想像以上に声が大きく、周囲の人がいっせいにこちらを見た。
医師は答えた。
「自分を殺し、進みたい道を諦め、まわりが安全だと勧める道を選び、やる気が出ず、成果も出ず、自分を責め、破滅していく。気づいた時には、自分が何をしたかったのかも思い出せない。そんな人ばっかりなんだよ、この国は。絶望した人に、希望の言葉を浴びせても、何の意味もない」
夜の町は、仮装イベントのポスターや広告で、埋め尽くされていた。道端には時折、ブーツを枕にして寝ている男や、酔いつぶれて吐いている人がいる。すれ違う人は、誠実そうな人ばかりだが、一様に表情が暗い。
黒猫紳士は、隣を歩く少女を見た。真っ赤な顔で、呼吸を荒くしている。ここまで激怒している姿を見たのは、初めてだった。
「絶対に許さない。弱者を選んで殺すってなに? 最低最悪の殺人鬼じゃない。……ねこさま、ペストマスクの出現しそうな場所を探れない?」
「探してどうするつもりだ」
「話を聞いて、説得する。それができなかったら……」
少女は眉間に深いしわを寄せ、拳を握り締める。
黒猫紳士は、前を向いたまま答えた。
「この件からは、手を引け」
「わたしにはできないっていうの?」
「危険すぎる。奴は私よりも上手だ。今度ばかりは、私が生き残る保証はない」
歩みを止め、少女と向き合う。決意はすでに、固まっているようだった。
黒猫紳士は、大きなため息をついた。
「あの兵器を説得できたことで自信がついたのだろうが、今度ばかりは無理だ」
「『不可能だと思いさえしなければ、君はもっとたくさんのことを成し遂げられる』って、ふだんから言っているのは誰かしら?」
黒猫紳士は、さらに大きなため息をついてから言った。
「期限一週間。これ以上は譲歩できない。まず、役所と図書館を当たろう」
奴の影響力は想像以上だった。
数年前から突然死──病気の発症から一日以内の死──の数が大幅に増加していた。年齢別の割合も変化している。以前は五十台から八十代の高齢者が、大半を占めていた。しかし、今は二十代~五十代が圧倒的に多い。それに対し、自殺者数は激減。
雑誌を調べてみると、同時期に死神代理人の噂も流行りだしていることがわかった。
二次災害も多発している。模倣犯、会いたいがために他者に自殺を迫る者、自殺者に密着するマスメディア、奴の活動を称賛・支援する団体、神とあがめる新興宗教団体……。
さらに紙面には、知りたくなかった事実も載っていた。この国の若者の、自殺の理由だ。
「なんてことだ……」
学生は定められたレールに沿って、受験勉強を必死に戦い、就活を目指す。点数と協調性が重視されるため、個性は恥として晒される。上位の学校に入るため、夢や自分の大好きなことを諦めることとなる。
もちろん、勉強をすることに意義を見出せず、親や教師との軋轢を生む学生。個性が強すぎるために同調できず、同級生から村八分にされる学生もいる。
「しかし、卒業さえすれば……」
いい企業に入るため、勉強し、面接で受かるために下調べしたりする。だが、いざ就職活動すると何十という不採用通知をもらう。当然である。就職するにあたって求められること、それは──
「捨て去ったはずの個性や特技、夢」
成果主義で生きてきた若者たちは、就活失敗を自分の責任と思い込む。就職試験は人の総合力をテストする。彼らにとって不採用通知は人格の否定、無価値の烙印。
しかも、就職が決まったとしてもバラ色の人生があるとは限らない。待っているのは、奴隷のような激務、最悪の上司だったりする。しかし、離職すれば生活が困窮することは目に見えている。心身の限界を超えて働いた結果、待つのは気鬱と自殺。
たとえ仕事を止められたとしても、ベルトコンベアのように生産された若者は、特別な技能を持たない。安い給料で何となく働き、希望もなく、死までの暇を潰す人生。
「住民の生気がないのはそういうことか」
真面目がすぎるが故の、いびつな社会構造。こうした背景が死神代理人を野放しにしているのだ。
奴を悪と断じていいのかは、定かではない。だが、奴がいるせいで、この国は負の方向へと加速しているのは、確かだった。
大きなテーブルを占領し、死に物狂いで書籍を漁る少女の眼前に、資料を突き出した。
「わたしに協力する気になった?」
「いいや」
黒猫紳士は、資料のグラフを指さした。
「噂の前後で、全体の死者数は変わっていない。彼を頼るような人は、どの道、自殺を強いられる。『どうせ死ぬのなら、少しでも生の苦しみを短く、楽に死にたい』という人もいるだろう。同情すべき点もあるんじゃないのか?」
「ええ。でも、生きてさえいれば希望はあるわ。変われるかもしれない、という希望が」
顔を上げ、少女がこちらを睨む。
「自分を死ぬまで追いつめるような人が、変われると思うのか?」
「自分がどう生きるかは、過去の出来事ではなく、今の自分が決めるの。だから、人は変われる。変わろうと思った、その瞬間から」
「夢物語だ。過去と他人は変えられん」
「わたしが証明して見せるわ」
理屈で彼女は止められない。黒猫紳士は、しぶしぶ本音を絞り出した。
「お願いだ。止めてくれ。私は! 君が死んでしまわないか、不安で仕方ないんだ!」
少女は、椅子から立ち上がると、息を大きく吸い込んで言った。
「それは、あなたの問題でしょ?」
もはや、彼女を止める手立てはなかった。
死神代理人の出現地点は、すでに絞り込んである。遺体の発見場所が、人目にはつかないものの、発見されやすい場所ばかりだからだ。おそらく、遺体が綺麗な状態で発見されるよう、配慮しているのだろう。
夜の繁華街を抜け、その奥のスラム街へ突入。暗い通りを歩いていると、ハエの羽音が聞えた。それも、一匹や二匹ではない。
少女の手を引き、音のする方へ向かう。数分歩いた所で、少女も羽音に気付いたようだ。嫌な汗が肉球から分泌され、手に力が入る。
「ねこさま、あれ……」
ズボンにしがみつく少女。その指さす先に、それはあった。
地面に倒れている女性。目も口も開いており、乾燥していた。街頭に照らされた肌の色は、黄色に近く、唇も茶色。口も胸もまったく動いていない。
「遅かったか」
黒猫紳士は、あれは人間だが人間でない、人形のようなものだと自分に言い聞かせた。そうすると不思議と何も感じなくなる。壁に寄りかかり、ゆっくり深呼吸。脳に酸素を送り、成すべきことを考える。
黒猫紳士は、手を合わせてから遺体を探った。
やはり、傷がない。少しでも抵抗したら、どこかに痣でもできているはず。転倒時にできたであろう頭の傷を除いて、まったくないのだ。自ら殺されに行ったか、何らかの手段で傷を修復したか。
なんにせよ、黒猫紳士が対処できる範疇を超えていることは、確かだった。
少女が、力なく地面に座り込んだ。口を押えると、嗚咽する。
「……うぅ……絶対に、許さない」
女性の顔が、少女の顔に見えた。
「警備隊に通報しよう。急ぐぞ」
それから数日の間、資料集めと探索に集中した。
成果はあった。図書館に、自殺のメカニズムに関して書かれている書籍があったのだ。
自殺したい、と思うことはそう珍しくはない。だが、『今すぐ死ななければ!』という自殺衝動に駆られる人はそう多くない。自殺願望を抱いている人の割合に対し、自殺者数が非常に少ないのはこれが理由なのだ。では自殺衝動の原因はというと、それは特定の脳内物質の極端な低下であり、三十分もすれば治る、一過性のものだった。
「つまり、自殺願望があっても自殺衝動さえ抑えれば、人は生きていける。相談できる人が一人でもいれば理想的だが、電話をかけるだけでもいい。しかし、死神代理人は自殺願望を持つ人を殺す。生きていけるはずの人を殺しているも同然だ」
「じゃあ、やっぱり彼は……」
黒猫紳士は本を閉じると、少女へ向けてうなずいた。
「君の言う通り、殺人鬼だ」
資料の方は集まったが、代理人本人に関しては、大した成果もないまま時間だけが過ぎていく。黒猫紳士は、このまま努力が報われないことを祈った。一方で、それが叶わないことも悟っていた。
努力は、必ず結果となって現れる。だが、その結果は、本人の思い通りになるとは限らない。
この町に来てから、今日で六日目。今晩、見つけられなかったら、あきらめることになる。今日の場所は、スラム街の最奥にある、裏路地だった。
ちょうど、警備隊の拠点と拠点の間にあり、通報から到着までタイムラグがある。しかも、繁華街にて仮装パーティが行われており、人通りはゼロに近い。最有力候補だった。黒猫紳士は、自分の優秀さを呪った。ハズレであってくれ。
「どうやら、当たりのようね」
小規模の人だかりができていた。スーツを着込んだ男女や、ボロをまとった老人、ラフな格好の若者、中には少女よりも年齢が低そうな学生もいる。種族も犬人から鳥人までさまざま。共通しているのは、目が死んでいることだけだった。
通路の反対側に、黒い影がうごめいた。カラスが羽ばたき、寒々とした風が、道を吹き抜ける。
暗闇の中、まるで蜃気楼のようにペストマスクが浮かんだ。続いて、トレンチコートの輪郭があらわとなる。歩いているはずなのに、まったく音が聞こえない。猫髭を前面に展開しているのに、空気の振動もほとんど感じられない。必死に鼻を利かすが、匂いもしない。
死だ、あれは死だ、と黒猫紳士は思った。死とは音もなく、においもなく、目にも映らず、触れることもかなわず、当然味もない。何の前触れもなくやってきて、当人は気づきすらしない。当然だ。死が訪れたとしたら、当人の五感はすでに閉ざされている。
黒猫紳士と少女は、代理人と対峙する。三人の周りを、自殺志願者たちが囲む格好となった。
ペストマスクの内側から、暗く、重く、よどんだ声が発せられた。その声は同時に、聞く者を安寧へと導く、危うい優しさに満ちていた。
「我々は、生まれさせられた直後に、嵐の絶えない苦しみの空へ放り投げられる。一面海で、進んでいる方角も進むべき道もわからない。我々ができることは、理不尽に現れる暴風に飲まれながら、墜落するまでの間、飛び続けることだけ」
代理人は、まるで楽曲を指揮するかのような優雅なジェスチャーを交えた。一目見ただけで、場を支配する腕は一流だとわかった。少しでも油断すれば、飲まれる。たとえ、それが黒猫紳士であっても。
「家族も、友も、地位も、名誉も、愛する人も、いずれは手放さなければならない。最後には、全てなくなる。最初から、人生に意味などない。ならばせめて、幸せな人生を求めるのが道理。そして、私の考える幸せな人生とは、自分の人生に納得することだ」
「納得って?」
まるで、生徒が教師に質問するかのように、少女が言った。
死神代理人は、しばらくの沈黙。一人一人と視線を合わせたあと、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「『この世の苦悩から解放される境地』のことだ。人は生きている限り常に、何かが手に入らない苦しみ、失う苦しみに悩まされる。現実との向き合い方を根本的に変えない限り、その苦しみからは解放されない。理想は、そうした現実を受け入れ、飲まれぬ境地に達することだ。だが、たった一つだけ、例外が存在する。あとは、わかるな?」
代理人の言葉に対し、少女は臆せず言った。
「それでも私は許せない。救いと称して、人の可能性を摘み取る、あなたの行いを。生きてさえいれば希望はある。変われるかもしれない、という希望が!」
「私もかつてそういうふうに考えていた。だがな、本気で自分が死にたくなったとき、わかったのだ。死を想う人は、愛を感じられず、強固な信念もない。そんな絶望の中、あるかもわからぬ自分の可能性とやらに賭け、何十年も耐え続ける。それこそ、地獄ではないのか?」
まるで五歳の子供をあやすかのような口調。
対して、少女は語気をさらに強めた。
「だからといって、あなたに人の命を奪う権利は、ない! 生きたくても生きられない人もいるのよ?」
脳裏に数々の無念が思い出される。黒猫紳士は奥歯を噛みしめ、握り締めた手を震わせた。
「そうだ」
代理人は少女の言葉に、大きくうなずいた。予想外の反応だったのか、少女が一瞬硬直した。
「人は親によって生まれさせられる。だが、その命は本人のものであるべきだ。故に人の死に方は、家族でも、環境でも、法律でもなく、本人が決めるべきだ。生きたい人は生き、死にたい人は死ねばいい。私はその、手助けをしているに過ぎない」
そのとき、黒猫紳士は見てしまった。まるで初めて出会った生き物でも見るかのように、少女を観察する代理人を。黒猫紳士は思わず声を発した。
「どうした?」
「あまりにも話が通じず、少々驚いたのだ」
代理人は首をかしげ、公然の事実を確認するかのような口調で言った。
「お前は、本気で死にたいと思ったことはないのか? 無価値感にひしがれ、この世から消えたくなることはないのか? こんなに苦しい気持ちが続くのなら、いっそのこと死んでしまった方が、楽かもしれないと思ったことはないのか?」
少女は、顔をそむけてしまった。
「──ないらしいな。どうやって死のうか、どうすれば苦しまずに死ねるかなどと、考えるなどということは。では、もしも自分が彼らと同じ立場だったら、どのように考え、感じるか想像してほしい」
代理人は、ビジネススーツを着た、青白い青年と目を合わせた。
「彼は、単身都会にやってきた。吐き気を抑え通勤。会社の上司からは、つらく当たられ、業績は伸びず、いつも深夜までサービス残業。お叱りのメールが怖くて、夜も眠れない。同僚は自分以上に頑張っている。親に心配をかけられない。転職はすでに、五年以内に三回しており、再就職は厳しい」
次に、ほつれたシャツとズボンを着ている、女性と目を合わせた。化粧の上からでも、目の隈と、体の痣が見て取れる。
「彼女は、仕事と母親の介護で、手いっぱいだ。早朝に起きて、母親の排せつや、食事の世話。掃除、洗濯、身支度などをこなし職場へ。帰宅したら、そこからまた、親の飯と下の世話。母親は、認知症が進み、彼女を自分の娘だと思っていない。毎日暴力を振るい、支離滅裂な言動を、浴びせ続ける。その上、昼夜逆転している始末だ。彼女は休まず、眠らず、世話、世話、世話……」
代理人は、優しくかたりかけるように、一人一人生い立ちを語った。彼らの目が、それが嘘でないことを物語っていた。
「みな、どうしようもない理由を抱え、立っている。相談できる人はいないか、いても役に立たない。金も時間も自由もない。社会からの期待に、応える力もない。やりたいこともわからない。たとえあったとしても、道を塞がれている。ただ苦しいだけの生。私は彼らを、耐えがたい生の苦しみから、解放したいだけだ」
少女は口を開き、何かを言おうとしていた。しかし、言葉を発する気配はない。
黒猫紳士は、彼女を下がらせ、一歩踏み出すと言い放った。
「お前の考えにも一理ある。しかし、私は認められない。理由は三つ」
人差し指を突き出す。
「一つ目。人には、肉体的にも、精神的にも、絶望的な状況でも、這い上がる力がある。お前の考え方は、患者の治癒力を、信用していないことになる。『じゃあ死のうか』と突き放すのではなく、『じゃあどうしようか』と、手を差し伸べる方が、建設的じゃないのか?」
次に中指を立てる。
「二つ目、死ぬ権利が合法化したとしよう。そうしたら、ここにいるような人々を、『社会が支える』という視点や、難治性の病の治療技術が、発達しなくなるだろう。社会制度や、医療が後退すれば、逆に自殺者増加を招く、原因になりかねない」
最後に薬指を立てる。
「三つ目、お前が現れてから、難治患者の人口が大幅に減った。しかも大半が家族介護だ。これが何を意味しているか、わかるか?」
先ほどの女性が、震える声で言った。
「まさか、介護している人が、遠回しに自殺を進めて……!」
「その可能性は、否定できないだろう。何せ家族介護は密室で行われる。どんな会話があったか、盗聴でもしない限りわからない」
代理人は、両手を広げゆっくりとこちらへ近づいてきた。そして、静かに一言。
「成長したな、小僧。だが……」
黒猫紳士は、背筋に悪寒が走るのを感じた。その理由に至る前に、代理人が言った。
「周りを見てみろ」
動揺している人がいるものの、大方の意志は変わらないようだった。
当然だろう。たとえ安楽死が、人生における最悪の解決策だったとしても、これまでに試みてきたどの解決策よりも最良であるなら、採用せざるを得ない。
「──これが、私の答えだ」
社会を破滅させてでも、個人の意思を尊重する。それが、死神代理人の本質。
黒猫紳士と同じく、自分の信念のためなら、他者を殺めることをいとわない。
「お前は、存在してはいけない」
黒猫紳士は、代理人の胸元に爪を突き立てた。服に当たったとは思えぬ、金属音が路地に響く。勝てない相手に対しての全力の不意打ちは、あっさりと破られた。
腕を引く前に、つかまれた。外そうにもびくともしない。万力の如き力。さらに、もう片手で、メスを振るってきた。上体を倒し、すれすれでかわす。頬に微かな痛み。瞬間、視界がぐらつく。
ここぞとばかりに、周囲の人も妨害してきた。手足に必死にまとわりつく。
「離れろ! 頼む!」
「終わりだ、若造!」
代理人がメスをかざす。まだだ、まだ何か手があるはず!
「あきらめないで!」
少女が代理人のわき腹に突っ込んだ。驚きのあまり、自殺志願者たちの動きが止まる。
「みんな、頼むから……死なないで!」
少女の、心からの叫びが通じたのだろうか。代理人の力が緩み、態勢が崩れた。勝負をかけるなら、今しかない!
「人は、精神的にも、肉体的にも追い詰められようが」
黒猫紳士は跳躍。上空から代理人に飛びつく。両二の腕を掴み、反撃の芽を潰す。
「再び、立ち上がれるんだよ!」
マスクとコートの間、首筋に牙をつき立てる。牙は強化繊維を切り裂き、代理人の首に食い込んだ。そのまま空中で体を捻る。体重を利用し、ペストマスクを横転。あとは牙の位置を調整し、もう一度首を噛みこみ、脊髄神経を断てば……。
「ねこさま! ねこさま! お願い! 起きて! ねこさま!」
少女はひたすら叫ぶ。四肢を拘束されながらも、最後の抵抗として、叫ぶ。もはや、打つ手はなかった。
代理人は、気絶した黒猫紳士を払いのけた。そして、何事もなかったかのように、ゆらりと立ち上がる。患者たちを舐めるように見回すと、首を横に振った。
「正常な判断力を失った状態では、規約違反だ。本日は休診とする」
代理人を中心に、白煙が発生。少女は、口と鼻をハンカチで押さえ、煙に耐える。ざわめきに混じって、重々しい声が聞えた。
「次はない」
煙が晴れた時、死の化身は跡形もなく消えていた。
壮絶な戦いを目にした人々は、ある人は逃げるように、ある人は嘆き、ある人は苦悶の表情で、またある人は何かを決意したかのように、その場を去った。
少女はただ茫然と、その様子を見ていることしかできなかった。
最後にビジネススーツの青年だけが残った。青年は下を向いて、ぼそぼそと口を動かした。
「……死ぬのが、怖くなっちまった。何か月もかけて準備してきた。本当なら今頃、生の苦しみから解放されていたはずだった。なのに」
青年は顔を上げた。
鬼気迫る形相。顔は興奮で真っ赤に染まり、目は血走っている。全身憤怒の塊のようで、耐えきれず、爆発したかのように叫んできた。
「てめえらのせいで! 全部台無しだ! てめえらの勝手な都合で、俺たちを生き地獄に縛りつけた悪魔め! 恨んでやる、怨んでやるぞ! 決心できたら、死に呪ってやる!」
怖い。泣きたい。けれども少女は、できるだけ誠意を込め、優しい声で言った。
「それで大丈夫よ。あなたはもう、生きていける」
青年は一瞬無表情になると、泣き喚きながら去っていった。
ガチガチと音が鳴っていた。少女自身の、歯ぎしりの音だった。全身震えが止まらない。動機がして、呼吸が早くなる。
「病院、行かなきゃ……」
それでも、少女は立ち上がった。涙と鼻水をハンカチで拭うのも忘れて、黒猫紳士を引きずりはじめた。
病室のベッドの上で、黒猫紳士は目覚めた。ベッド柵に寄りかかるように、少女が寝ている。
そうか、彼女に助けられたのか。少女の成長は黒猫紳士の想像をはるかに超えているようだった。これだったらもう、自分が守らずとも……。
何を考えているんだ自分は。黒猫紳士は首を振った。『大切な人は守る』『わがままは叶える』。旅には多大な危険が伴う以上、これが過保護・過干渉であるはずがない。
シーツが擦れる音で、少女が目覚めた。眠そうな表情が、驚愕へと変わった。
「ありがとう、君のおかげ命拾いした。救急隊も、君が呼んだろう?」
緊張の糸が途切れたためか、延々と泣き続ける少女をあやす。時折こぼれる言葉から、あの後、何が起きたのか察しはついた。少女は、図書館での宣言を実践してみせたのだ。
「私が間違っていた。謝るよ。君は、本当によく頑張った。最低でも一人の命を救ったんだ。彼の怨みも、感謝に変わる日が絶対に来る。それまでの辛抱だ」
「ええ……ありがとう、ねこさま」
黒猫紳士は少女を撫でながら、語り始めた。
「代理人の力は、自分の近くにいる人の自殺願望に比例して強くなる。複数人いる場合の実力は圧倒的。自殺志願者を一か所に集めるのはそういった理由があるのだろう」
おそらく、メスの効力にも自殺願望が関わっているのだろう。自殺願望が弱い人を斬っても昏倒するだけだが、自殺願望が強い人を斬ると即死する。これなら、黒猫紳士が死ななかったわけや、『休診』の理由を説明できる。
「逆に周囲の人の自殺願望が減れば、代理人の力も落ちる。君が代理人に突撃した時、代理人が弱っただろう? 君の勇気に、周囲の人の心が動かされたからだ」
「勇気に?」
「『やってみせよ。言って聞かせよ。させてみせよ。そしてほめよ。さすれば人は動かん』。昔読んだ本に載っていた言葉だ。人を動かすにはまず、やって見せること」
「じゃあ、私の行いは無駄じゃなかったの?」
黒猫紳士は、言葉の代わりにハグで答えた。
しばらくして、ようやく落ち着いた少女が呟いた。
「奴を止めるため、他に打てる手はある?」
「現状、彼を止めるすべはない。効率重視で同調性を求める一方、テストで序列を作る教育形態。効率よく金を稼ぐために、労働者に過労働させる企業形態。経費削減のため、心の病に寄り添わず、薬で押さえつける医療形態。この国が経済効率優先である限り、奴が仕事に困ることはない」
「どうしよう……」
少女のすがるような目。黒猫紳士は、何とか期待に応えようと、寝ぼけた頭をフル回転させる。しかし、名案は思い浮かばなかった。
「私たちにできることは、事実を書くだけだ。より多くの人が、『自殺の手助け』に対して、考えるきっかけを作る」
「でも、それじゃあ、奴の存在が広まっちゃう!」
「この問題は、いずれどの国でも直面する。寿命が延びれば伸びるほど、自殺者が増えるのは必然。私たちが先に具体例を示し、問題提起してしまった方が、抑止に繋がるはずだ。あとは──」
黒猫紳士は、いったん息を大きく吸って、言った。
「旅行記を、『次巻を読まずに死ねるか!』と思わせるくらい、面白いものにすることくらいかな」
ここまで話して、ようやく少女は、笑みを浮かべた。
「……そうね。旅行記を完成させるためにも、旅を続けましょう」
黒猫紳士はどうしても、彼を嫌いにはなれなかった。彼は殺戮者。しかし同時に、心から人々の幸福を願っていることも事実。命を狙っても無傷で帰す寛容さに加え、相手の考えをけっして否定しない、度量の広さも併せ持っていた。
そのとき、黒猫紳士は思い至った。
『命の使い道は、本人が決めるべきだ』。逆に言えば、『本人以外が、命の使い道を、決めてはならない』。彼は人殺しでありながら、自らの意志で、人を殺すことができないのだ。
「難儀な奴だ」
黒猫紳士は、ぼそりと呟いて、再び目を瞑った。
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