味の到達点

 街のあらゆるところで、揚げ物が売られていた。店の出入り口の上には、カニや牛、エビといった食材の、巨大模型が飾られている。その周囲を、原色をふんだんに使った派手なのぼりが囲んでいる。これだけでも特徴的だが、さらに目を惹くものがあった。のぼりの文字だ。魚の油揚げ、ジャガイモの油揚げ、肉の油揚げ……。

「ねこさま、油揚げって、豆腐の揚げ物じゃなかったっけ?」

「ああ、そのはずだ。薄切りにして揚げたもの、のはずだ」

「だよね、そうよね。でも、なんだか不安になってきた」

 黒猫紳士は、少女の長髪を撫でた。ダブルスーツに、食べ物の匂いがつかないか若干不安だった。

 ビル風が吹きつける。少女の黒いジャケットが風になびき、白いシャツが見えた。黒いニーソックスの上で、スカートが踊る。釣り目に似合わぬ、幼さが残る顔つき。その表情には、困惑が見て取れる。

 数千人規模の小さな街にも関わらず、アーケードは人で満ち満ちていた。観光客もたくさん訪れているようで、客引きたちが、必死に呼びかけている。何もないのに、お祭り騒ぎ。いるだけでも、気分が高揚してくる。旅行記のコラム程度なら、軽く埋められそうなインパクトである。

 少女が歩みを止め、眼前の店舗を指さした。

「あれ、串カツよね」

「どう見ても、串カツだな」

 豚油揚げの串刺し――という名の、串カツを売っている店に、入ることにした。店内は広々としていたものの、店頭と同じく、装飾でごちゃごちゃとしていた。

 串にささった豚肉を前歯で噛みちぎりながら、黒猫紳士は質問した。

「なぜ、この町では、揚げ物を何でもかんでも『油揚げ』というんだ?」

 女将はこう答えた。

「これは、油揚げの人が作った『究極の油揚げ』にあやかっているの」

 黒猫紳士に横取りを阻止されてしまった少女は、露骨に残念そうな顔をした。もう一本注文するから、そんな顔は止めてほしい。

「究極の油揚げって、何なの?」

「ある人が作った油揚げは、とてつもなくおいしかった。食文化を一新するほどさ。しかしなぜだか、その油揚げが販売された日のことを、誰も覚えていないの。まぁ。今まで食べてきた、どんな食べ物よりも、おいしいということだけは、頭に残っていた」

「大げさすぎやしないか?」

「まあね。でも、その伝説が、飲食店の魂に火をつけた。みんな究極の油揚げにたどり着くため、いろいろ模索して、揚げ物屋が乱立したの。あやかって、揚げ物には何でもかんでも油揚げの名前を付けるようにもなった。で、今のこの有様なわけ。まあ、当然ながら、まだ誰も『究極の油揚げ』には、たどり着いていない。油揚げの人の一番弟子が、この町にもいるから、聞いてみなよ」


 目的の店は、すぐに見つかった。揚げ物屋激戦区の中でも、類を見ぬほど長い行列を作っている店が、それだったからだ。年季の入った老舗。店内は、他の店とは違い、シンプルな食事処といった様子。油揚げの人の弟子は、狐面を頭にかけた、老年の男だった。

「ああ、私がいかにも、油揚げの人の一番弟子だ」

「彼の油揚げは、どういうものだったんですか?」

「残念ながら、俺は知らないし作れない。だが、それに匹敵するという禁断の油揚げなら作れる。私と師しか作れない、幻の逸品だ」

「禁断?」

「この油揚げは飛ぶように売れた……という表現ではぬるい。仕事よりも、友達よりも、家族よりも、睡眠よりも、セックスよりも、禁断の油揚げを求めるようになってしまった。行列ができた挙句、警備隊が出動する事態に陥ったり、大量に買い締め、高額で売りさばく者が横行した。最終的には、国からのお触れで製造および売買が禁止されてしまった」

 想像以上だった。ここまでくるとドラッグに近い。そんな代物が本当に、豆腐の揚げ物如きで作れるだろうか。黒猫紳士の好奇心に火が付いた。

「そうしたら、わたしたちが食べたら、違法じゃないの?」

「この国では、禁止されていないからな。ただし、同じ客に売れるのは月に一枚だけだ。それ以上食べると、油揚げ依存症になっちまう。あと、二十歳未満にはふるまえない」

「そんなぁ~」

 少女が、露骨に残念そうな声を上げた。

 油揚げ依存症などという言葉ができるほど、すさまじいものなのか。黒猫紳士はますます、興味が沸いてきた。

「材料と製法は?」

「大豆はエンレイ、フクユタカ、トヨムスメなどの、複数の銘柄を交雑させ生み出した専用の品種。水は山脈からとれる、高濃度の魔力が溶け込んだ、高純度の軟水。にがりは、漁場から直接取り寄せている。昆布、イワシ、サバ、鰹、味醂、醤油、酒の海鮮出汁。そこに、うまみ成分を抽出し混ぜ合わせた、人口旨味成分を配合。二十以上の段階に分かれる独自製法で、季節ごとに各工程の温度・時間などを細かく調整している」

 油揚げ職人は、屋台の下に顔を埋め、漆塗りの小箱を取り出した。蓋を開けると、一枚の油揚げが置かれていた。

 屋台に並んでいる油揚げとは、まず色が違った。澄んだ黄色は、太陽の光に当たり、黄金色に輝いているよう。大豆由来の澄んだ香りが、鼻孔をくすぐる。口によだれがあふれ、手が伸びてしまう。

「何これ! 本当に食べ物!?」

 少女の言葉で、正気に戻り、手を引いた。

「これは、本当に食べて大丈夫なのか?」

「ああ、一枚だけなら、悪影響ない。油揚げを愛した、俺が保証する」

 黒猫紳士は、『禁断の油揚げ』を箸でつまみ、口へ運び、食す。

 あまりのうまさに味覚が麻痺し、味を感じない。クリスピーのような皮の触感と、うちのジューシーな触感だけが舌と歯から伝わる。快感が脳を刺激。めまいや動悸と共にすさまじい多幸感に襲われ、屋台に突っ伏す。一度飲み込むも、体の方が「まだ味わいたい」と口内へ吐き戻す。三回ほど反芻し、完全に味がなくなったことで、ようやく飲み込めた。

「もう、一枚食べられないのか?」

「これ以上、食わせられる禁断の油揚げは、ない」

 黒猫紳士は、奥歯を噛みしめ身を乗り出す。しかし、次の一言で一気に熱が冷めた。

「でも、この油揚げですら師匠は満足しなかった」

「はぁあっ!? これで?」

「師匠が味に満足したのは、後にも先にも一度だけ。伝説として知られる『究極の油揚げ』だけだ。味の到達点。あらゆる料理を、ぶっちぎりで超越した存在」

 この味の上。禁断の油揚げを食した黒猫紳士さえ、想像ができなかった。

「師は世界各地を回り、誰よりも熱心に、油揚げを布教している。今は南の方へ行っているはずだ」

 その後、たっぷりと油揚げ料理を堪能し、店を後にした。


 この味なら、どこで店を開いても行列ができるだろう。となると、重要なのは場所。知名度を上げるなら、大都市で店を開いたほうがいい。候補は必然的に絞られてくる。

 探すこと、三都市目。

「これは!?」

「どうしたの、ねこさま」

「こっちだ!」

 少女の手を引く。鼻に感じた、出汁と油揚げの素朴な香り。辿っていくと、遠くから、男寄りのハスキーボイスが聞こえてくる。

「旨い! 安い! しかしてヘルシー! 豆腐の揚げ物、油揚げは、いかがですか~!」

 声が近くなるにつれて、自然と歩みが早まる。少女も、興奮を隠せない様子だ。

「一噛みすれば、出汁がじわっと、あふれ出る! 豆腐の揚げ物、油揚げは、いかがですか!」

 たどり着いたのは、派手な和風屋台。赤いのれんには、目立つ黒字で『油揚げ』。

黒猫紳士は、のれんを上げ、先に少女を入店させた。そして、自身も後に続く。

 鉄板、出汁の入った鍋、そしてショーケースに陳列された、油揚げ。その綺麗なきつね色に、目を見開く。

「なんだ、あれは?」

 調理道具の他に、金属製の釜や、謎の装置、多重ロック式金庫など、奇妙なものが揃っていた。なぜ、こんなものが存在するのか、不思議でならない。

「いらっしゃい! メニューはこちらになるぞ!」

 メニュー表を差し出した店主。顔の上半分を、狐面で隠していた。和服を着ており、黒猫紳士に匹敵する長身。ポケットからは、クロノポリス製の懐中時計が垂れている。

 黒猫紳士は、開いたメニューを思わず二度見した。油揚げ料理だけで、二十品目以上もある。

 唖然とする二人。対して店主は、景気よく笑い声を響かせた。

「かっかっか! 油揚げは万能食材。できないことはあんまりない! どんな料理にも、奥ゆかしく寄り添う、気品あふれる食べ物なのだ」

 隣に座った少女が、悩まし気に聞いてきた。

「油揚げのサラダ、狐丼、焼き油揚げピザ……ねこさま、どうしよう?」

「とりあえず、手堅そうな所から行こう。稲荷寿司、きつねうどんを頼む」

 オーダーを聞くなり、店主は天井を突き抜けそうなほどの、大笑いを響かせた。

「油揚げのことを知っているとは、嬉しい限りだ。このあたりでは、油揚げを知らない人の方が、ずっと多いからな!」

 黒猫紳士の目の前で、店主は料理を始めた。

 白米と寿司酢を混ぜ、扇子で冷やした後、ゴマを加える。そして、稲荷用油揚げに、詰めた。五つ作ると、さらに盛り付け、しょうがを添えて完成。きつね色の稲荷を、酢飯の甘酸っぱい香りが、包み込む。

「こちらが稲荷寿司、そして!」

 湯で終わった麺を水切りすると、椀によそる。その上に、油揚げ二枚をのせ、海鮮出汁をたっぷりかける。カウンターに置くと、小皿に盛られた、ねぎを添えた。湯気がふわふわと登っていく。

 圧倒的早さ。まったく無駄のない動き。そして、見るだけで感じられる、油揚げへの愛。

「こちら、きつねうどん! お好みで七味やコショウをかけて、召し上がれ。味噌と白味噌も、用意してあるぞ!」

 少女は、稲荷を箸でつまんだ。手を添えて、ゆっくりと持ち上げる。全体をじっくりと眺めてから、鼻孔を動かした。そして、唇と唇の狭間に、上品に稲荷を押し込む。それから、猛獣の如く、残りの稲荷を食す。

「おいしい! 何これ!? 外がサクサク、中がふわふわ! こんな油揚げ食べたことない!」

 黒猫紳士は、うどんの出汁を嗅ぐ。濃厚な魚介の香りが、食欲をそそる。一口すすれば、怒涛の旨味が広がった。

「これは!」

 油揚げに出汁をしみこませ、食す。極限まで高められた大豆の甘みが、口の中にあふれ出る。そこに、染み出した海鮮出汁が絡み合い、味のハーモニーを奏でる。盛大に音を立て、麺をすすった、太麺のこしは、語るに及ばず。熱さと戦いながら、必死に揚げと、麺と、出汁に食らいつく!

「これは、私が食べたかった味どころではない。それを遥かに超えた味!」

「かっかっか! なんともいい食べっぷり。精魂込めて、作った甲斐があるというもの! 音、見た目、香り、触感、味。その全てを存分に堪能するとは、食の楽しみ方を心得ている。汝ら、とても初来店とは思えん!」

 油揚げの人は、両袖から次々と、油揚げを取り出した。まるで手品師。黒猫紳士は、思わず声が上ずった。

「なっ、服に仕込んでいるのか!?」

「無論だ。袖と胸裏のポケット含めて、五十枚収納可能!」

 お椀に、四枚を投入すると、特性海鮮出汁をたっぷりと注いだ。大豆由来のふくよかな香りと、出汁のうまみが混じりあう。店主は、箸すら使わず、豪快に食べていく。

 しかしその表情は、心の底から油揚げを好き、全世界へ知らしめようとしているにしては、味気なかった。

 料理を食べきり、しばらくたったあと少女が切り出した。

「あなたのお弟子さんの店に、来店したことがあります」

 少女が、先日の出来事を説明する。店主は、嬉しそうに笑みを浮かべる。

「あやつは、今最も私に近い領域にいる者。そして、いずれ私を超える者。なるほど、道理で」

 黒猫紳士は少しためらったが、覚悟を決め、口を開いた。

「『伝説の油揚げ』の真実について話していただきたい。私は、トラベルライターだ。油揚げの魅力を文に書き留め、多くの人へ広めることができる」

「知っている。黒猫紳士だろう。影響力も、実力も、ある程度承知しているつもりだ。汝に頼めば、油揚げをより多くの人に、より正しい認識で広めることができる」

 少女は、もう我慢できない、といった様子で立ち上がった。

「なら、聞かせてもらえるのね!」

「かっかっか! 無論だ。ただし――」

 油揚げの人は、油揚げについて語る前にこう言った。

「この話は、まあ、つまらん夢物語として、聞いてくれ。誰も信じてくれなかったし、お前たちも信じないだろう。大きく分けて三つだ。三つ話がある」


 一つ目の話だ。

 かつて、飢え死にしそうになった時、社に収められていた油揚げを食らった。今まで、肉しか食べてこなかった私は、その味に心奪われてしまった。そして、生涯を油揚げにささげることを決めた。

 人に化け里に下りた私は、老舗の油揚げ職人に、弟子入りすることに決めた。

 だが、『技術を教えるだけの時間はもう、残されていない』と断られた。そこで私は、彼の店の前で三日三晩、雨の中で土下座した。弟子入りではなく『家もなく、身寄りもない若者を匿う』という建前で、私は迎え入れられた。

 師は肝臓がやられており、いつ死ぬかわからない身だった。私は、一度教わったことを確実に習得し、二度と忘れぬよう、毎日必死に油揚げを作り続けた。油揚げの作り方だけではなく、人との接し方、生活方法、物の売り方、その全てを師から学んだ。

 三年後、ついにそのときが訪れた。死の数日前のことだ。

「お前にもう、教えることはない」

「しかし、まだ三年しか……」

「いいや、お前は私の先祖が、六百年かけて磨き上げ、私が三十年かけて学んだものを、たった三年で全て吸収してしまった」

「お前と出会う前、私は絶望していた。弟子がいなかった。先祖が作り上げた技術を、途絶えさせてしまった。たった数年で私の生涯を習得する、などということは不可能だった……不可能な、はずだった。きっと、お前は神から遣わされたに違いない。たった三年とはいえ、お前の師となれたことは終生の誇りだ。私の人生は、お前の技術のためにあったのだ」

「師よ!」

「お前の作る油揚げが、私の生きた証だ」

 私は師匠の遺書により、彼の全ての財産を譲り受けた。店を繁盛させるかたわら、油揚げの改良に精を出す。


「――その後は、師が見知っていた、油揚げ職人の下で、修行させていただいた。一人目は一か月、二人目は一週間、三人目は三日」

「期間が短いな。ずいぶんと控えめじゃないか」

 黒猫紳士はそう言いながら、焼き油揚げサーモンバジルオリーブオイル仕立てに、手を伸ばした。

「以降、師弟関係が逆転してしまったからな。あの時は、心が折れそうになった。自分が目指した先人たちはこの程度だったのか、と」

 少女が、食べている焼き油揚げピザを、落としそうになった。

「それで、どうしたの?」

「私はさまざまな調理法や、化学反応を図書館で学んだ。有識者にアポをとり、アドバイスをもらうこともあった。交配や遺伝子組み換えなど、先進技術も習得。同時に、世界各地を回り、最適な材料を、探し求めた」

 黒猫紳士は、こんな突拍子もない話を、信じることができた。『禁断の油揚げ』を食べていたからだった。しかし、本当にあの味が通過点でしかないとは。黒猫紳士は、ただただ、驚嘆するしかなかった。

「しかし、科学の力にも限界はあった。私は魔力を用いて、食材や調味料を、合成する術を学んだ。機械を用いた成分分析と、魔力による調理合成。しかしそこで、最大の難問に直面した」

 大きなため息をつくと、油揚げの人は、思いもよらぬことを言い出した。

「望む味にたどり着くために、霊薬に近い物質が必須だとわかった。そのためには死後十五分以内の、聖女の髄液が必要だった。もっとも、聖女特定のための魔導機も、専門家の協力の下、自作してしまったがね」


 二つ目の話。

 機械が反応したのは、一人の少女だった。数千人規模の小さな国で出会った、十四歳の少女。有名な貴族の、末裔。以前から、とてもおいしそうに油揚げを食べてくれる上客で、性格はまさしく聖女のようだった。

 私は、何をトチ狂ったか、彼女を人通りのない場所へ、呼び込んだ。背後から殺そうとしたが、振り向いた彼女の笑み見たとき──反射的に油揚げをふるまっていた。

「油揚げの美味しさを、世に広めるため、美味しさを追求していた。なのに、いつの間にか、美味しさを追求するために、油揚げを広めていた。目的と手段が逆転し、ただの自己満足と化していた。これでは、師匠の思いを踏みにじることになる! 客に配慮しない料理に、価値はない!」

 私は彼女に、自分がしようとしていたことを、懺悔した。しかし、彼女は怒るどころか、『もし、自分が死を待つだけの身になったら、せき髄液を提供する』と提案する始末だった。私は、もちろん断った。……そのときは。

 先の件で吹っ切れた私は、油揚げの布教に専念した。移動式屋台を相棒とし、人口の多い都市を中心に油揚げを布教。より多くの人に振る舞った。数々の著名人からも推薦された。作れば作るほど売れた。弟子入り希望者も、毎日のように押し寄せた。数か国で社会問題にまで発展するほどの人気を博し、「味覚の到達点」という、大げさな称号もいただいた。黄金の時代、最盛期だ。全てが私──否、油揚げの思うがままに動き、世界の中心になった気分だった。

「油揚げの味のすばらしさを、一人でも多くの人に布教する。その使命が、まさに現実のものとなった。だが……その日が訪れてしまった」

 各国を渡り歩き、再び聖女のいる街へ戻った日の晩。

 黒いコートにペストマスクという、不気味ないでたちの人物に、声をかけられたのだ。彼は、聖女の主治医を名乗った。

「彼女が階段から落ち、脳死状態になった」

 客の死、それはいつも突然やってきて、私を無力感に叩き落す。声を荒げ、鼻水垂らし、嘆き悲しむ私に、彼は「ついてきてほしい」と言った。

 彼についていくと、そこは少女の家だった。部屋には横たえられた遺体。ショックと絶望に言葉を失った。

「彼女は転倒した際に、頭の血管の内側に、カサブタができた。あと数時間で命を落とす予定だ」

 そしてペストマスクは、私の人生を決定づける、究極の選択を突き付けてきたのだ。

「彼女は、油揚げの材料になることを望んでいた。さあ、選べ。この子の脊髄液を抽出するか否かを。私はメスをとろう。処置もしよう。彼女に安楽を与えたのち、いっさいの痕跡もなく、脊髄液を抜き取ろう。斬るのは私だが、決断するのはお前だ。選べ!」

 私は誘惑に勝てなかった。「彼女は貢献することを望んでいた」。その事実に甘え、彼女の脊髄液を受け取った。

 屋台に帰った私は、寝食忘れて油揚げ制作に没頭。『砂糖を振れば、究極の油揚げが完成する』というところまで、たどり着いた。

 しかし、予想外のことが起こった。屋台に兵士がやってきて、私は取り押さえられてしまったのだ!


「黒のコートにペストマスクって怖っ!……ってそんなことよりも!」

 少女は、身震いしながらも、油揚げの卵包みをパクパク食す。

「どうなった? そのまま捕まったのか!?」

 一方黒猫紳士は、目の前に置かれた、油揚げの肉詰め煮が、冷めているのにも気づかず、話を促した。


 さて、最後の話だ。

 完成寸前までいった、十五枚の油揚げを、すばやく和服にしまい込んだ。

 そして、川辺の広場にある、処刑台へ連行された。右には大刀を持った処刑人、背後には介錯人。聖女の遺書を読んだ父親が、根拠もなしに私を、告発したらしかった。

 夜中に彼女に忍び寄り、殺そうとしたのは事実。人の遺体を用いて、料理を造ったことも事実。私は、自らの行いの非道さを自覚していた。だから、おとなしく処刑されることを選んだ。

 私は処刑人に聞いた。

「最後に油揚げを食べていいか」

 処刑人は、私の服から、油揚げを取り出した。が、その形を見て、臭気をかいだ瞬間、刀を捨て、狂ったように、むさぼり始めたのだ。解釈人も飛びつき、二人は取っ組み合った。

 わけがわからなかった。

「どうした!」

 聖女の父は、異常を察知。剣を手に、処刑台に上がった。取っ組み合う二人と、私を交互に見た。それから、大粒の涙を流し、何度も剣を処刑台に叩きつけて、言った。

「油揚げをよこせ!」

 同時に、取っ組み合う男たちの手から、油揚げが離れ、上空に大きく舞った。会場にいた観客も、その見た目と、においに晒された。自分の作った食べ物の、恐ろしさを目の当たりにした。私は、ついに人の支配する、究極の油揚げを作り上げて、しまったのだ。

 いっせいに、群衆が群がる。

「うわあああああああ!!!」

 私は、和服に仕舞われた油揚げを、群衆へ投げた。油揚げの匂いが濃くついてしまった和服も、手放した。

 人々は油揚げを求め、大混乱。私は、群衆に「まだ隠し持っているだろう!」と、暴行を受けながら、命からがら、処刑場から逃げ出した。全身泥だらけで、手足から血が垂れていた。私はそのまま、川へ飛び込み、意識を失った。

 あの油揚げを食べると、快感に脳を支配されて、ダウンしてしまう。その上、出汁には一過性の健忘を引き起こす、作用があった。揮発した出汁の臭気をかいだために、処刑場にいた全員の記憶から、その日のことは消えてしまった。――製造中に、油揚げの匂いを吸って、耐性があった、私以外はな。

 処刑場では、重軽症合わせて、百人以上のけが人が出た。私はその被害者の一人として処理された。

 罪を償うために、一連のことを役人に説明した。しかし、誰も信じてくれなかった。挙句の果て、精神病棟に強制入院。三か月過ごすごとになった。

 退院した後、街の人全員に謝罪した。やはり、誰も罪を信じてくれなかった。私は、罪を裁かれる権利すら、はく奪されてしまったのだ。

 その後に、研究者と共にとある実験をした。それは、十匹のネズミが入ったケージに、『完成した』究極の油揚げを入れたのだ。その結果、ネズミたちは狂ったように油揚げを取り合い、殺し合った。見事、油揚げを勝ち取った個体も、別のネズミたちによって腹を食い破られ、無残な死を遂げた。

「料理とは人々にささやかな幸福を与えるもの。美味しさだけを追求し、食した人を破滅させるものを、料理とは呼べない」

 そのとき、申し訳程度の天罰が、私に下った。精神性の味覚障害により、油揚げの味も、匂いも、触感も、何も感じなくなってしまった。


「あんなに、恋焦がれた油揚げの味が! あれほど求めた味が、もう、思い出せないのだ!」

 油揚げの人は、屋台に突っ伏し、むせび泣いた。しばらくして、ゆっくりと顔を上げて言った。

「『あれほどの騒ぎを引き起こした油揚げが、単なる豆腐の揚げ物であるはずがない』。そう思った人々は、いろんなものを揚げ始めた。試行錯誤され、さまざまな揚げ物が、生まれては消えた。そのうち、何が本物の油揚げかわからなくなってしまった。その結果あの町では、何でもかんでも、油揚げと言うようになったのだ。これが、あの町に伝わる『究極の油揚げ』の真実だ」

 もし、完成された油揚げが、白日の下にさらされていたら、どうなっていただろう。黒猫紳士は、思わず想像してしまった。油揚げを求め、獣の如く殺し合う人々。油揚げを食した人に群がり、その骨の髄まで食らいつくす人々。血で染め上げられた、処刑場……。

「ここまで話を聞いてくれた礼だ! 刮目せよ、これが『伝説の油揚げ』だ!」

 金庫から取り出したのは、円柱型の保存容器。円柱は黒く染まっており、上下に正方形の機械が取り付けられている。油揚げの人がスイッチを操作すると、円柱の黒が薄まり、一枚の油揚げが浮かんでいるのが見えた。

 ガラス越し、かつ暗幕がかけられているのにもかかわらず、その形は完璧というほかない。目が釘付けになり、よだれがほとばしる。食の快感に脳が支配され、世界が揺れる。一瞬、気を失いかけた。なるほど、香りをかぎ、汁が滴る音を聞き、舌で触り、味を知れば、人でいられなくなるのも、うなずける。

「食べちゃ……だめなの?」

 連れの少女が、目を輝かせて言った。

「それは、食べ物ではない」

 油揚げの人は、再びスイッチを押し、呪いの品を隠した。

 その瞬間、少女が催眠から目が覚めたかのように、首を左右に振った。顔がみるみる真っ青になっていく。黒猫紳士は、彼女の肩に軽く手を置いた。

「そして、今に至ると」

「ああ。私は、油揚げの美味しさを広めるため、各地へ赴き、布教している。味を広めるだけではなく、農家へ行き、大豆の育成法を教えたり、弟子に製法を伝授したり、大量生産するための機械の設計をしたりと、手広くやっている。その傍ら、人と料理の在り方を説く。それが、私なりの罪滅ぼしだ」

 一息ついて、油揚げの人は空になった皿を、見つめた。

「どうだ? そんな、私が作った油揚げは、おいしかったか?」

 黒猫紳士は少女と視線を交わすと、無言でうなずいた。

 油揚げの人は、にやりと口角を吊り上げると、狐面を軽く撫でた。

「私は、まだ道半ばだ。初めて食べた時の感動を、世界中の人に味あわせるまで、私は腕を磨き続ける。一度地獄を見た程度で、立ち止まるわけにはいかない!」

 少女が思わず、吹いた。

「まだ腕を磨くの!?」

 かっかっか、と何度目かの大笑いを響かせると、油揚げの人は言った。

「油揚げは万能。故に、味や質の劣化は、油揚げの力を十全に引き出せぬ、私の落ち度」

 黒猫紳士は、思わず拍手してしまった。

「油揚げへの無限の愛、あっぱれだ」

 油揚げの人は会計伝票を差し出すと、野望に満ちた目を、二人へ向けた。

「次会うときは、もっと旨いものを食わせてやる。覚悟しておけ」

「その言葉、私の旅行記に刻んでやろう」

 黒猫紳士は受けて立つ、と余裕の笑みを浮かべ、会計伝票を受け取る。

 伝票を覗き見た少女の顔は、再び青白く染まった。

「ねこさま、どうしよう。お金足りない」

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