地獄の季節
漆黒の砂、一面のヒガンバナ、黒に染まった空。
ここの動物は、赤と黒の粘土を、軽く混ぜ合わせたような色をしていた。大半が多腕、多脚、多眼。
霧のような霞に、無数の口と目が全身に浮かび、触手が十本ほど生えた異形から身を隠しつつ、黒猫紳士は呟いた。
「これ、旅行記にどう書けばいいんだ?」
ここに来た経緯も、思い出せない。宿の二階に泊まって、眠って、それから……どうなった?
「仕方ない、とりあえず今は脱出に集中しよう」
岩陰に隠れ、頭が十三、足が三本ある熊や、ヒトの唇に六つの羽と触手がついた化け物をやり過ごす。
時折、白骨や、土を盛っただけの墓にも出くわした。
「迷い込んだのは、私だけではないらしいな」
奥に進むにつれ、異形の出現頻度が増していく。形も、既存の生き物に、形容できるレベルを超えてきた。顔のパーツが全身に配置されていたり、頭から片手片足が生えていたり。さらには、露骨に進路を邪魔する輩も出現。
さすがの黒猫紳士も、気分が悪くなってきた。
「彼らは一体、なんなんだ」
さらに進むと、壁があった。見上げたが、上端が見えない。横は、地平線まで続いているようだ。目、口、鼻がまんべんなく浮き出て、脈打っているそれを、壁と言っていいのかは疑問だが。
杖を打ち付けたがダメだった。ぶよぶよとした脂肪が、衝撃を吸収してしまう。
登ろうともした。だが、壁に手を付けた途端激しく震えだし、振り落とされてしまった。しりもちをついた拍子に、ヒガンバナがバキバキと折れる音が響く。
「仕方ない、戻るか」
黒猫紳士は、来た道を振り返り、ため息をつく。そのとき、背後から肩をつんつんされた。
「誰だ!」
振り向くと、ウサギ頭の紳士がいた。目は黒く、クリッとしている。服装や装備は、なんとも嫌みなことに、黒猫紳士のものよりも上等だった。
ウサギ紳士は、こちらへ向けて何度かうなずいた。
「なんだ?」
彼は壁に歩み寄ると、軽く手を触れた。すると、壁がどろどろと溶解しはじめた。
肉が焼けるような音に混じって、悲鳴が聞こえた気がする。が、気のせいということにしておいた。
「案内してくれるのか?」
ウサギ紳士は、懐中時計を取り出して時間を確認。その後、ニコリと笑い歩き出した。黒猫紳士は、とりあえず、後に続くことにした。
ウサギ紳士に敵う者はいなかった。不気味な化け物も、彼の手にかかればサンドバッグ同然。
やがて、妙なものが見えた。何もない空間が、裂けているのである。裂け目からは青空と雲が見えた。
ウサギ紳士は、ぴょんぴょんと嬉しそうに跳ねながら、裂け目を指さした。どうやら、ここが出口らしかった。
目前まで歩いた瞬間、凍りつくような殺気。背後を向き、杖を構える。杖にあたったのは、ウサギ紳士の手刀。
「なるほどな」
ウサギ紳士は、不意打ちが失敗したとわかると、腰のベルトから杖を引き抜いた。
両者、黒い砂をまき散らしながら、杖で撃ちあう。ウサギ紳士は、黒猫紳士と、ほぼ同等の能力を持つ強敵だった。
黒猫紳士は、久しく好敵手に恵まれなかった。自身が強すぎるゆえに、他者と敵対しても、そもそも戦闘に発展することが少ない。たとえ、戦闘が成立するような相手でも、黒猫紳士の遥か上の存在。
好敵手との闘い。久しく忘れていた高揚感。無我夢中で杖を振る。地獄のような場所で、夢のようなひと時。
と、心なしか辺り暗くなった。ウサギ紳士の奥にある、裂け目の空が曇り始めている。
「まさか」
冷静さを取り戻し、相手を観察。時折、戦闘中にも関わらず、懐中時計へ目を向けていることに気付いた。
「時間稼ぎ!」
黒猫紳士は『もっと戦い続けたい』という欲を飲み込んだ。
杖に殺意の魔力を込める。杖が黒紫に発光。超高濃度の魔力をまとい、刃と化した杖が、敵の胴を切断した。
上下にわかれ、無様に地面を転がるウサギ紳士。切り口から、どす黒いタールのような液体が、流れ出てきた。黒い目に赤い瞳が浮び、血の涙が、頬を伝う。
黒猫紳士の完全勝利に見えた。しかし、ウサギ紳士は消える間際、けたたましい笑い声あげた。嘲笑だった。外見に似合わぬ、野太い声だった。
「しまった!」
すでに裂け目は消えていた。ウサギ紳士の懐中時計を拾う。黒猫紳士は、思わずため息をついてしまった。
文字盤はシール。本体も鎖も、安っぽいプラスチック。何の意味もない、おもちゃの時計。
奴は、黒猫紳士を惑わすためだけに、時計を眺めていたのだ。
「まさか、あの裂け目も、奴が作り出した、フェイク!」
最悪だった。振り出しに戻ってしまった。いや、奥地に来てしまった分、事態は悪化している。
負の思考に陥りそうになった黒猫紳士は、いったん深呼吸した。
「なぜ、奴はこの方向に私を案内した?」
一番考えられるのは、出口から遠ざけるため。
「なぜ、奴は異形たちを殺した?」
もしかしたら、黒猫紳士が異形を見ることによって、奴に不都合が生じるのかもしれない。ではどんな、不都合が生じるのか?
「もし、異形たちが、私の味方だったとしたら……」
そこで、黒猫紳士はひらめく。
「そうか! 私が、出口から遠ざかっているから、警告しに来ていたのかもしれない。自らの不気味さを武器に!」
彼らは道をふさぐことはあっても、襲ってはこなかった。
「ならば、奥に行けば行くほど、数が増え、恐ろしい姿になるのも道理。異形たちがより少なく、実際の生き物に近くなる場所を目指せば、出口にたどり着くのでは?」
どうやら、当たりだったようだ。
道を引き返すとき、異形たちはほとんど現れなかった。時折、視界の端をちらつく異形を参考に、歩く方向を修正。驚くほどすんなりと、スタート地点に戻ることができた。
そして、スタート地点から約一分歩いたところ、裂け目があった。裂け目から見える景色に、見覚えがある。昨日宿泊した、宿の天井だった。
「そうか、これは、夢! 何者かが、私の夢に干渉したのか!」
高鳴る気持ちを抑え、ゆっくりと裂け目に近づく。そして──腰の杖を抜き、わきの下から背後へ向け、突いた。
肩越しに、後ろを向く。黒い目、赤い瞳、赤い涙。口は目じりの下まで裂け、その内側には、百を超える針のような歯が見えていた。
「そんなことだろうと、思ったよ」
よみがえったウサギ紳士を、何度も切り付ける。これまでのうっ憤を、晴らすかのように。
全身ずたずたになったウサギ紳士へ、ダメ押しの回し蹴りを放った。ウサギ紳士は、肉片と化し、辺りに散らばった。
黒猫紳士はその隙に、裂け目へ突入。念のため、最後にもう一度、振り向いた。そして、後悔した。
完全に滅したはずの肉片が、文字を描いていた。
た の し い な
「ヴァアアアア!!! ア゛ウン!」
「ねこさま! 大丈夫!?」
文字通り、跳び起きた。天井に激突。ベッドでワンバウンド。床でさらに顔を撃った。
「ぎにゃあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!」
「ねこさまとあろうものが、威嚇下手な猫みたいな声出したあげく、着地に失敗して、鼻を抑えて悶絶するなんて……」
涙で潤んだ視界に、少女の顔が映りこむ。漆のように艶のある黒髪、白いシャツ、黒いズボン、顔は童顔に似合わぬ、釣り目。ずいぶん久しぶりに顔を見たような気がして、胸が締め付けられるような感じがした。
黒猫紳士は、少女が持ってきた水を飲み、ようやく落ち着きを取り戻した。一息ついて、辺りを見まわす。
木製家具で統一された、質素な寝室だった。窓から光が差し込み、中は明るい。
「私は、何日寝ていた?」
「丸三日。宿屋さんからは『一週間はうなされ続ける』、って言われていたから、予定よりもかなり早い目覚めね」
「あとは、報告すれば終わりか。長かった。……心配かけたな」
黒猫紳士の声掛けと同時に、少女の頬に、スーツと涙が流れ落ちた。頭に手を添え、ゆっくりと撫でてやる。
「目が覚めてくれて、本当によかった。ようやくこれで、あなたに言えるわ」
「何を?」
「今すぐ! 風呂! 入って! 獣クサい!」
黒猫紳士は、反射的に自分の体臭をかいだ。
「タオルで毎日拭いてくれたのか。ありがとう。想像よりは匂っていない。……想像……より……は……。ダメだ、生理的に受け付けない。三日間も毛づくろいしてないなんて、耐えられん。行こう!」
枕元の杖を手に取り、ベッドを降りた時。部屋の奥に、ウサギの絵が飾られていることに気付いた。目は黒、瞳は赤。黒猫紳士は、思うよりも先に杖を投げていた。
「ウサギ野郎!」
杖が当たった衝撃で、ウサギの絵が地面に落下。同時に、キャンバスが、無数の肉片へと変化。床に散らばった肉片たちは、一か所に集まり、何度か伸び縮みすると、人型に収まった。
黒猫紳士はその間も、何度も切りつけていた。しかし、斬撃の全ては、肉が伸縮したり浮いたりしたため、見事にかわされてしまった。夢で戦った際、学習されてしまったようだ。
顔に相当する部分に、線状痕が刻まれ、ぱっくりと開いた。
ま た あ そ ぼ
肉片は、窓を強引に開けると、街へと消えた。
「ちっ、畜生がっ! 私の清潔な体を返せ!」
少女が、呆然としながら、窓の外を眺めている。
「何あれ怖ッ! あいつがこの部屋の呪いの原因?」
「ああ、おそらくな。驚かせやがって。ここで仕留めたかったが、仕方ない」
黒猫紳士は、吐き捨てるように言った。そして、カバンからジョッターメモを取り出し、乱雑にメモ。
「注意喚起ね。旅行記を書く理由が、また増えた」
「ああ。この恨み、書き連ねずにはいられない」
「……あれ? 目的変わってない?」
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