理想の旅館
騎手は、手綱を振るった。しかし、馬はピクリとも動かない。長身の樹木と、朽ちた電柱に囲まれた、昼の山道での出来事である。
騎手の体躯はスレンダーだ。シックなダブルスーツを着ている。腰のベルトに、黒猫を模した持ち手の杖を差していた。頭部にある耳は絶えず動いている。顔全体を覆う黒い毛は、彼の呼吸にあわせて波打っていた。凛々しく愛嬌のある顔は、どう見ても黒猫だった。
その前方、黒い長髪の少女が座っていた。黒いジャケットが風になびき、白いシャツが見える。黒いニーソックスの上でスカートが踊っていた。釣り目に似合わぬ、幼さが残る顔つき。
少女が背後の騎手に言った。
「インク馬さん、止まっちゃったね」
ねこさまと言われた黒猫の紳士が答えた。
「どうやら、ばてたらしい」
「いつもの半分しか走ってないよ? インクもまだ、十分ありそうなのに」
「魔力の濃度が不安定なんだ。人間で言うと、酸素濃度が数メートルおきに変わるようなもの。まあ結論だけ言うと、私たちはこれから歩かなければならないらしい」
「そんなぁ。ヒッチハイクは?」
「山に入ってから誰一人としてすれ違ってないからな……」
少女がしぶしぶ下馬したのを確認し、黒猫紳士はインク瓶を取り出した。
「ありがとう、戻れ」
インク馬は、アメーバのように伸縮を繰り返すと瓶に収まった。
黒猫紳士は瓶をポケットにしまい、歩き始める。渋っていた少女も、手を差し伸べると後に続いた。
昔読んだ本によれば、このあたりにはかつて街があったらしい。だが、今は見る影もない。送電線も長い間、整備されていないようだった。切れて地面に垂れているものまである。
残念ながら、今夜も野宿するしかなさそうだ。
疲れ切った黒猫紳士たちの前に、夕日に照らされた、立派な旅館が姿を現した。少女は手を振りほどき、前へ駆け出す。
「旅館! 風呂! 料理!」
「なぜこんなところに宿が」
趣ある木造建築。玄関前の広場は綺麗に手入れされていた。
黒猫紳士は、ひきつった笑みを浮かべ一歩踏み出す。そのとき、カツンという金属質な音がした。靴の下に倒れた看板。劣化が酷く文字は読めない。落石注意の看板らしい。
「まあ、野宿よりは宿の方が安全か」
左右対称にソファーがいくつか置かれた、広々としたロビー。床に塵一つ落ちていない。人の手入れが隅々まで行き届いているようだった。
早速、受付の女性に話しかける。薄紅色の和服をかっちり着こなしていた。
「部屋は開いているか?」
黒猫紳士が聞くと、女性は少し不安げな表情を浮かべた。
「ええ、開いています。ただ、諸事情により一泊二日しかできないのですが……」
「問題ない。頼む。あと、旅行記を執筆しているのだが、この宿を紹介してもいいかな?」
瞬間、受付の女性は満面の笑みを浮かべ、飛び跳ねそうな勢いで言った。
「もちろんです! ありがとうございます。館長もお喜びになるでしょう。あなたたちは久方ぶりのお客様です。本館職員全身全霊でもって、最高の宿泊体験を提供しましょう!」
確認を取らなくていいのだろうか。黒猫紳士が疑問を口にする前に、連れの少女が、我慢できないといった様子で言った。
「お風呂は!」
「露天風呂がございます。今なら貸し切りですよ」
「やった! ねこさま、行こ! 行こ!」
「混浴もございます。部屋に荷物を置いたらお声掛けくださいね」
「やったよ、ねこさま!」
黒猫紳士は、思わず立ち止まった。
「脱衣所は、男女別だよな?」
「あいにく、女性用の脱衣所は閉鎖中でして……」
風呂場は控えめに言って豪華すぎた。これだけで旅行記の記事が、一本書けそうなほどだった。
脱衣所からして、床が高級素材であるラタン。洗面所にはドライヤーや櫛、挙句の果てにはクリームから化粧水まで、各種アメニティを完備。部屋の隅には無人販売機があり、受付でもらえるコインを入れれば、無料で飲み物が飲める。タオル類も洗面台横に積まれており、『ご自由にお取りください』とのことだった。
男女の仕切りが薄膜一枚であることを除けば、間違いなく最高峰。
「おかしい、あきらかにサービスが宿泊費に釣り合っていない。旅行記のネタとしては最適かもしれないが……」
「ねこさま、一度確認してきたら?」
いったん外へ出て、偶然居合わせた職員に何度も質問した。
小柄な女性職員は、とてもまじめかつ真剣に答えてくれた。
「オプションの代金は、先ほどお支払いいただいた代金に含まれています。これ以上、けっしてお金はいただきません。全てはあなたがたに、忘れようと思っても忘れられないような、最高の宿泊体験を提供するためです。お気になさらず」
嘘はついていないようだった。が、熱意がどこから湧いてくるのか不思議だった。
「なぜ、私たちなのだ?」
店のポリシーだろうか、と予想していたが見事に裏切られた。
「実は明日、閉館するのです。あなたたちは最後のお客さん。特別でないはずがありません」
「よろしい、ならば私たちも全力で楽しませてもらおう!」
小柄な職員は涙をぬぐうと、どこまでも明るい表情で言った。
「自慢のお風呂、ご堪能くださいませ!」
黒猫紳士は脱衣所に戻り、ダブルスーツを脱いだ。服にしわがつく心配は無用。ご丁寧にロッカーまで完備されていたからだ。毛づくろいしたい気分になったが、いったんこらえた。
「それより問題は……」
仕切りの薄布に、少女のシルエットが映っていることだった。布と肌のこすれる音がして、どうも落ち着かない。
「ねこさま影が映って面白いよ! こっち見てみて!」
タオルをバサバサする音。健康的でしなやかなシルエットに、嫌でも目が行く。たおやかな曲線の機微は芸術的とすら言えるだろう。いつかの街で見た石膏女人像と並んでも、遜色のない繊細さだ。
と、ここまで妄想して黒猫紳士はため息をついた。スーツを脱ぐとすぐコレだ。
「人がいないからと言って、立ち振る舞いを変えないことだ。ふだんの立ち振る舞いが、要事の振る舞いを――」
「ふふふっ! ねこさまこそ、そんな上ずった声で礼節を説かれても説得力ないよ」
黒猫紳士は一度深呼吸すると、バスタオルをまとった。
「なんだ、この広さは!?」
「すっごい! どっかのお城!? 夢みたい!」
浴室には、数十人は余裕で入れる巨大な浴槽をはじめ、ジェット風呂、炭酸風呂、高音槽、薬湯、電気風呂、サウナ他さまざまな浴槽があった。書籍でしか見たことがないものばかりだった。
シャワーはボタン式ではなく蛇口式。自分が望む水量を、惜しみなく浴びることができる。
「なんか、見たこともない風呂があるよ。ねこさま、これ、ボタンを押すと肩にお湯がブァーってかかって気持ちいいよ!」
「中性重炭酸風呂……こんなところでお目にかかるとは」
読書をかかさず多様な語彙を身に着けた黒猫紳士ですら、『気持ちいい』しか言葉が出なかった。最高峰の浴場である。
石造りの浴槽に身をゆだねながら、純白の月を見上げる。正面が開けており、山の麓を一望できた。月光を浴びた夜の山は恐ろしくも幻想的で、この世の物とは思えない。
隣に腰かけた少女が言った。
「そういえばさ。ねこさま、どうしてわたしにここまで尽くしてくれるの?」
束ねた長髪から湯が滴っている。体が火照り、頬が桜色に染まっていた。
「大切な人のわがままを聞く、命は守る。両立させるのが、自分に課した誓いだからだ」
「この仕事を選んだのも?」
「君が旅を願ったからだ。それに、君を家から連れ出し、独り占めするための方便も手に入る。私は、家でおとなしく飼い主の帰りを待てるほど、お利口じゃないからな。……おいおい、ここは笑ってくれよ、冗談なんだから」
少女は露骨に顔を逸らすと、黒猫紳士に背を向けたまま言った。
「毎回思うんだけど、服を脱いだだけで、どうしてそんなに残念なことになるの?」
「しょうがないさ。紳士である前に猫なのだもの」
黒猫紳士は、少女の首元を軽く掻くと、山の風景に目を移した。
ふと、違和感。眼前には、荒れた山道と古びた電柱しか見えていないのに。
「どうしたの? ねこさま」
「歩き疲れて、気分が変になったようだ」
もちろん、部屋も異様に広く、設備が充実していた。二人で泊まっているはずなのに、十五畳以上はある。
「すいませーん、夕食お願いします」
少女は、マイクから聞こえてくる声と、何回かやり取りした。ふう、とため息をつくと、卓上のボタンから、白く細い指を離す。耳にかかった髪を払いながら、こちらを向いた。
「便利ね、これ」
黒猫紳士は、少女の笑みにうなずいた。
「前泊まった所との待遇の差で、風を引きそうだ」
「ふふ、そうね」
しばらくすると呼び鈴が鳴った。扉を開けると、厳格そうな男が立っていた。藍色の和服が、ただでさえ大きな体躯を余計大きく見せている。
「こちら、夕食の牛タン御前になります。お熱いのでお気を付けください」
「牛タンというのは?」
黒猫紳士は御前を受け取りながら質問した。
「牛のベロを炭火で焼いたものです。歯ごたえがあっておいしいですよ! 十年以上料理長を務めた私が言うのだから、間違いありません! 胸を張ってお勧めできる、うちの一番人気です!」
男は見た目に反し饒舌だった。その後も、延々と牛タンがいかに素晴らしい料理なのかを、ストーリー仕立てで語った。あまりの熱意に、料理長が語り終えると同時に、思わず拍手してしまった。
驚くことに、料理長の言葉に偽りはなかった。食欲そそる塩と肉の濃厚な香り。楕円形で、豪快に切れ込みが入ったぶ厚い肉。箸で持ち上げると、照明の光で表面の油がきらめいた。
噛んだ。瞬間、牛タンの肉汁と塩がまじりあったうまさの塊が、味蕾を刺激。間を置かず、肉と脂のハーモニーが口の中を絶頂させた。脳内に食の快感がほとばしった。
「なんてうまさだ!」
横に座る少女は、先ほどまでのおしとやかさが嘘のように豪快に飯を食らっている。一心不乱に飯と、肉と、おしんこと、スープと、白菜と、とろろを口に運ぶ。
下膳しに来た調理長へ、いかに料理が旨かったかを十分以上も語り続けた。
「うう……私、今までずっと料理を作ってきて本当によかった。あなたたちのおかげで、全てが報われました。ありがとう! たとえ死んでもこの恩は忘れません!」
泣きながら、調理長は部屋を出て行った。その背中は、今まで見たどんな料理人よりも誇らしげだった。
「しかし、この山奥でどうやって食材を手に入れたのだろう?」
外はすっかり真っ暗になっていた。
黒猫紳士は布団に座る。スーツと共に紳士という役割を畳むと、体を横たえ丸まる。
少女はブラシを取り出し、黒猫紳士の背をブラッシングし始めた。時折、頭を撫で、喉元をくすぐってくれる。年単位で仕込んだ甲斐あって、彼女の技術は極上の一言。
「明日の朝、お別れかぁ。もっと長居したかったなぁ」
「ここの職員に嘘偽りはなかった。最高の旅館だった。これ以上のサービスは見たことがない」
喉をゴロゴロ鳴らしながら、自分の体を舐める。唾液による消臭、除菌。そしてマッサージによるリラックス効果、および血行増進。
嫌なこと面倒なことを全部放り投げ、全力で飼い主に甘えられる。大好きな人を独り占めできる、至福の時間。それがグルーミングである。
「おーよしよし。ねこさまかわいいねぇ~。ほおら、くりくりしちゃうよ~。うふふ」
「にゃ~ゴロゴロ」
快感に耐えられず電灯を見上げた時、またも妙な感覚にとらわれた。
「あれ? あの電灯、断線しているのに光っている」
その言葉のおかげで、点と線が繋がった。
露天風呂での謎が解けた。道中の送電線は断線していた。この施設に、唯一電気を送っているはずの送電線なのに。
「魔力を使った道具か何かかな?」
「いや、それはない。大気の魔力が不安定すぎて、まともに起動できないだろう。もしかしたらこの宿、見た目より高度な技術で作られているのかも」
黒猫紳士はここまで話し、「ヴァア!」といらだたしげに鳴いた。
「そんなことより、ほら、手が止まっているぞ、飼い主様。頭を撫でろ! 首の周りを掻け! 背中をさすれ! しっぽの付け根を愛撫しろ! ほらほらほら!」
「さすが飼い猫! 図々しい!」
翌朝、全職員に見送られた。館長が、弁当箱を差し出しながら言った。
「この宿の事、ぜひ旅行記に、書いていただきたい。そして、少しでも多くの人に、知ってもらいたい。ここに、従業員みんなが誇る、素晴らしい宿があったことを」
館長は、宿の従業員、一人一人と目を合わせてから、こちらへ向き直った。
「――ご宿泊ありがとうございました。どうか振り返らず、前へ向かって歩き続けてください。あなたがたの旅を従業員一同、心より応援しています」
黒猫紳士たちは、弁当をトランクに仕舞い深々と礼をした。
「おかげで、最高の思い出を書けそうだ。ありがとう。この宿で泊まったこと、私は一生忘れない」
「ずっと住んでいたいくらい! ありがとう、みなさん。またどこかで!」
二人が百歩ほど歩いた頃、地面が大きく揺れた。直後、背後で大きな物音がした。
「そんな! 宿が!」
一瞬だった。宿は、巨岩の群れに飲み込まれ、跡形もなく消えた。弾きとんだ木材はまるで雲のように透き通り、消えた。倒壊した建物も、飲み込まれた人々も、みんな、みんな、消えてしまった。あとに残ったのは、ただの巨大な岩山だけだった。
少女が地面にしゃがみ込む。視線の先、地面に倒れた一枚の看板があった。
最初に黒猫紳士が踏んだものと同様の看板。しかし、サビが幾分かとれており、字が読めるようになっていた。
立ち入り禁止! アザヤマ大豪雨の時、この先にあった旅館は、土石流に飲まれてしまいました。従業員は全員、死亡もしくは行方不明。さらなる犠牲者を出さないためにも、この先への立ち入りを、禁じます。
「旅館幽霊……!?」
黒猫紳士は、トランクの中から弁当を取り出し開いた。白いご飯の上に、黒い海苔で文字が書かれていた。
『良い旅を』
黒猫紳士は地面に伏す少女へ、手を差し伸べた。そして、服に着いた埃を払うと、目をまっすぐ見つめてささやいた。
「彼らのためにも行かねば」
「ええ、振り返らず前を向いて、最高の旅にしましょう!」
二人は弁当を半分ずつわけあい、旅館を後にした。
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