黒猫紳士旅行記譚
ユゥル
インク馬
豪雨がレインコートを、打ち付ける。視界は最悪、足場も最悪。いくら名馬と言え、これ以上走行するのは無謀だった。騎手である黒猫紳士は、手綱を繰りつつ、目の前の少女に言った。
「あの洞窟で雨宿りするぞ」
連れの少女は、こちらを振り返りうなずいた。
洞窟の中は薄ら寒く、床は硬質。息を吸い込む度、湿気を帯びた冷たい空気が、肺を刺激する。けっして、居心地がいいとは言えなかった。
二人は下馬すると、コートを脱ぎ始める。
洞窟の奥から強烈な風が吹きつけた。少女のレインコートが、嵐の中へ消える。
「あぁ!?」
黒い長髪とジャンパー、最後にスカートが露わとなった。スカートを隠そうとしなければ、コートが吹き飛ばされることもなかったろうに。
「この風雨の強さなら、致し方なしか」
黒猫紳士は、鮮やかにコートを脱ぎ畳んだ。ダブルスーツの水滴をスカーフで拭うと、ポケットからインク瓶を取り出す。
「戻れ」
黒い馬は、アメーバのように伸縮を繰り返した後、液状化。瓶の中へ納まった。
黒猫紳士は瓶をしまおうとした。そのとき、少女のいぶかしげな視線に気づいた。
「ねぇ、あのお馬さん、乗り心地はよかったけど本当に安全なの? 途中でいきなり液体に戻ったりしない?」
数日前に目撃した、馬車の事故現場が頭に浮かんだ。あの惨状を見た後では、未知の移動手段へ不信感を抱いても無理はない。
「怖がる気持ちはわかる。私も初めて乗馬した時は怖かった。手綱を持つ手が震えたよ」
もっとも、それは事故への恐怖ではなく、馬の推定価格のためだったが。心の中で付け足しつつ、言葉を続ける。
「しかし、慣れしまえば最高の仲間だ。私はこの馬で十以上の街を回っている。もちろん、一度も事故を起こしたことはない。速いし安全。何より利口」
インク瓶を少女に差し出した。受け取った少女は、瓶を下から眺めたり、コツコツ叩いてみたりし始めた。
黒猫紳士は、その様子を眺めながらトランクを開けた。敷物や小型ランプを取り出しセットする。最低限の快適さが保証された頃、少女が口を開いた。
「水で溶けたりしないの?」
「油性のインクだから、水を弾く。万年筆と同じようにな」
「水性のインク馬もいるのね」
黒猫紳士はあくびをすると、敷物の上に座った。マタタビを専用のパイプに詰めて着火。口に咥えた。くしを取り出し、顔から後頭にかけて毛を撫でる。
「お世話の方法は?」
「かんたんだ。コツは二点だけ。時折運動させること、定期的にインクを補充すること。それさえ守ればいい」
少女がぶんぶんボトルを振った。呼応するかのように、瓶の中の液体が跳ね回る。
「欠点は三つ。一つ目は、馬形態の間、インクが体表から蒸発し続けていること。放っておくと干からびてしまう。もう一つは、しばらく使わないと固まってしまうこと。これは油性のインクならではの欠点だ。三つめは、魔力濃度が不安定な所では、すぐ息切れすること。この三点さえ気を付けていれば、多少の事では──」
突然の雷が、会話を遮った。
「ひっ!」
少女は驚きのあまり、手を開いてしまった。
瓶は弧を描き地面に落下。尖った石に激突。ばらばらに粉砕。中のインクが四散した。
インクは地面をのたうちまわりながら馬に変化。そのまま勢いよく、洞窟の外へ駆け出してしまった。
「ああ、インク馬が!」
少女の叫び声がむなしく反響する。
反射的に黒猫紳士は言った。
「深呼吸だ。まず落ち着いて──」
黒猫紳士が話し終える前に、少女が洞窟の外に出ようとした。すかさず手を伸ばし、引き留める。
「落ち着けと言ったろう。この大雨では一寸先も見えん。無謀だ」
少女は黒猫紳士の手を払うと、口元に両手を当てた。
「おーい! インク馬さん! 戻ってきてー」
必死の叫び声は、雨音にかき消された。少女はしばらく考えたのち、黒猫紳士に提案してきた。
「万年筆のインクのにおいで、おびき寄せられない?」
「賢いな。以前逃げだした時は、この方法で戻ってきた」
「本当に!?」
少女は予備の万年筆用のインク瓶を手に、久方ぶりの笑みを浮かべた。嬉々として、洞窟の入り口にインクを撒いていく。
ひたすら待った。少女の表情は、最初こそ明るかったものの、次第に陰りが見え、最終的に真っ青になってしまった。今にも泣きそうである。
雨はその間も、止むどころかどんどん強まっていった。
「戻って……こない」
「雨のせいで、匂いがかき消されたか」
「ねこさま、ごめんなさい。わたしのせいでこんなことに。もしかしたら、足を滑らせたりしているかも。どうしよう、取り返しのつかないことを──」
少女の口に手をかざし、言葉を遮った。
「運が悪かっただけだ。君のせいじゃない」
少女は頷くと、しばらく口をつぐんだ。
重苦しい雰囲気が、狭い空間を満たす。最初に沈黙を破ったのは彼女だった。
「違う。やっぱりわたしのせい。わたしが酷いことを言ってしまったから、インク馬さんは怒っちゃったんだと思う。誰だってあんないい方されたら嫌よ。あらためてごめんなさい、あなたの友達に酷いことを言ってしまって」
黒猫紳士は少女の元へ近づくと、優しく頭を撫でた。
「間違いは誰にだってあるさ。……疲れたろう。少し、休んだらどうだ?」
少女は隣に座ると足を抱え、顔を埋めた。
雨音に寝息が混じった頃。洞窟の入り口に黒いシルエットが浮かび上がった。
「起きろ、そして見ろ。きっと驚くぞ」
「えっ?」
雨をかき分け、黒馬がゆっくりと入ってきた。雄大な足取りに、怒りや憎しみの感情は感じられない。
黒猫紳士は、馬が口に咥えているものを見て、肩を上下させた。
「なるほどな」
少女も、インク馬の異変に、気付いたらしい。
「わたしのレインコート! この雨の中、探しに行ってくれたの!?」
インク馬は、少女の前でかがむ。視線を合わせ一礼すると、彼女にコートを差し出した。
「ありがとう、インク馬さん。さっきはあんなこと言ってごめんなさい」
黒猫紳士は胸の高鳴りを感じ、声が少し上ずった。
「言っただろう? 私の仲間は何より利口だと」
少女は、インク馬をハンカチで拭いながら、高いソプラノの声で言った。
「ええ! これからよろしくね、インク馬さん」
インク馬は頷くと、万年筆用のインク瓶に帰っていった。
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