1-2   しきたり

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 僕の一番古い「母親の記憶」を紹介しよう。


 武術大会から数か月。本家にいながら一人で過ごしていた僕は、自分の力に違和感を抱くようになっていた。


 違和感を抱いたきっかけは母親にあるし、それを解消したのは、他でもない母親であった。


 なお、便宜上「母親」と記しているが、僕は一度もあの女を母親だと思ったことがない。感情的な理由もあるが、後に明らかにする理由からも、あの女はのだ。


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辰二郎しんじろう様、湯あみの準備が整いました」


 単純に風呂と言えばいいものを、この家の者はたいてい古びた言い回しをする。

 先日すでに本で読んでいるのだ(僕はもうルビがあればたいてい読めるから)。体や髪を洗うことは、よほど神聖なものでない限りは「風呂」でいいのだと。


 それでも口答えはしない。先日父に「なぜ」、「なに」と聞いたとき、黙っているよう言われたはずだから。ここに父はいないが、大人に対してそう何もかも問いただしてはいけないのだろう。


「はい、わかりました」


 本家の子供部屋――といっても、普段は机一つに畳が張ってあるだけの間――を出て、腰元の隣をゆったりと歩く。


 廊下や縁側は時間をかけて歩かねばならないらしい。テンポよく歩けるようになった頃、試しに走ってみていたのだが、その際家令に見つかって険しい顔をされた。そういうわけで、なんとなく「いけないこと」なのだと察しがついた。

 よく観察してみると、腰元はみんなうようにして歩いていた。つま先で地を蹴っていないというか、かかとを持ち上げていないというか。たいてい布の擦れる音しかしない。


 だから僕もそろそろと歩いている。隣の腰元はというと、やはりカタツムリのような速度だった。確かに、この家ではみんな着物だからこの歩き方が適しているのかもしれない。


 腰元は努めて正面を見ているようだが、時折僕の方に視線をやっていた。


 僕はまだその理由を知らない。



        - † -



 湯あみ……風呂を終えると、辺りはすっかり暗くなっていた。身を清めた上で夕食をとるのが索田家の日常だ(そう考えると「湯あみ」が正しいのかもしれない)。


 食事は家族でとらない。

 ――というより、なぜか一人でとる。


 今日も懐石料理だった。

 僧侶が修行の一貫としてとるような元の意味での「懐石」ではなくて、旬の食材を適切な方法で調理したもののことだ。


 例えば今日の献立は――


 柿の白え、うずらの八幡巻きに、松茸の煮物、そしてだし巻き卵。

 刺身はまぐろ、いか、カンパチの三種。サンマのけんちん焼きもある(見た目が嫌いだ)。

 炭水化物は栗ご飯で、汁物があさりの味噌汁。

 たくあん、カブ、きゅうりの漬物が少々。


 ――正直なところ、出てきて嬉しいのはだし巻き卵と栗ご飯くらいだった。


 世の中の親という立場の人間に伝えておきたいのだが、幼少期からこんなものを出されていても好きになるとは限らない。全体として美しいつくりだとは思うが、それに気づくのはもっと後のことだ。子供としてはどうでもいい。


 柿の白和えに箸を運ぶと、正座して控える腰元たちがため息を漏らした。所作がきれいだったのか、がおいしそうだったのかは不明だが。


 向こうの部屋では、父、兄、そして母親が共に食事をしている頃だろう。


 ――どうして僕はそこに入ることが許されないのだろうか。


 いや、許されないかどうかは分からない。「あっちへいってもいいですか?」なんて聞いたことがないのだ。でも何となく、駄目な予感はしている。



 一時間近くかけてとった食事は、僕にとっては決しておいしいものではなかった。

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