都会の人は皆下の毛を剃る
視界の隅に脱毛クリームを捉えて、矢吹は唐突に閃いた。これを藤堂教授のシャンプーに混入してみてはどうだろう。あえて少量混入し、気づかぬまま徐々に禿げ散らかす様を眺めたらさぞ痛快に違いない。
「ちょっと、ヤブ先生!なにぼーっとしてるの!?」
「あぁ、すいません。じゃあちょっとチクッとしますよ」
針先は細い手首に走る健康な動脈をなんなく探り当て、鮮やかな血液を吸い出し始めた。
「おおー、ヤブ先生採血うまくなったねぇ」
「そりゃ研修医のときとは違いますよ。いつも言ってけどその略し方やめてください。医者としてわりとシャレにならない」
今や集中治療室の看護師長である吾妻めぐみは、矢吹の研修医時代の循環器病等の看護主任であった。矢吹が今年度から大学に戻り久しぶりに一緒に働くようになった。
「えー。ヤブ先生はヤブ先生でしょ。覚えてる?血液サラサラの薬飲んでる患者さんの採血をしたら、血が止まらなくなって・・・すぐ来てください!動脈を刺したかもしれません!って大慌てでナースステーションに駆け込んできたの」
「まじで勘弁してください。それ医者2日目のときの話じゃないですか」
研修医時代を知られているということは、赤ん坊の頃オシメを替えられたのに等しい。どんなに成長してもいつまでも子供扱いされる。
「ほんと懐かしいなぁ。あとカテーテル検査の患者さんがみんな下の毛剃られてるもんだから、ヤブ先生すごい勘違いしてたよね。都会の人はみんな下の毛剃ってるんですね・・・、とか言っちゃってさ」
「あのときの恨みは絶対に忘れません」
「やだなぁ、先輩として優しく勘違いを訂正してあげたじゃない」
「嘘つけ。え、ヤブ先生まさか剃ってないの・・・?とかいって勘違いを助長させたくせに」
「面白いように騙されたよね。それでヤブ先生、結局自分の剃ったの?」
「・・・何も言いません」
病棟中に言いふらされ、賭けの対象にされた屈辱は忘れない。
「えー、ケチ。とにかくあの頃のヤブ先生はかわいかったなぁ。それがこんなに立派になって」
「吾妻さんにかかるといつまでも子供扱いされるから嫌になっちゃいますよ。まぁ実際吾妻さん俺の母親と同い年なんでしょうがいないですけど」
「おい、それは言うな」
矢吹が研修医の頃の記憶に比べ、もちろん吾妻は年を取った。だが目じりを縁取る魅力的な皺は、彼女の美しさを損なわせるどころかかえって際立たせていた。単にやたらと若作りな母親と比べ、積み重ねた洗練された美を矢吹は感じていた。
「さて、それで立派な救急科医になったヤブ先生が、なぜ重症でもないいちコロナ患者のところに来て問診やら採血やらをしているのかな?私が集中治療部の看護師長だからって特別扱いしなくていいわよ」
矢吹達救急科医と共に重症コロナ患者の対応にあたってきた集中治療室の看護師たちの中で、初めて感染したのが吾妻となってしまった。
「実は集中治療部のチームリーダー降ろされたんですよ。だから暇なんです」
「えっ・・・いつ?」
「昨日です。藤堂教授に呼び出されて」
「そう・・・私がいない間にそんなことになってたのね・・・それでさっきもぼーっとしてたのか」
「いやあれは藤堂教授のシャンプーにこの脱毛クリームを混入する方法を考えていました」
「それハンドクリームだってば!・・・物騒なこと考えるねー」
「あの妖怪に正攻法では押しても引いても勝てる気がしないので」
「あの人にハゲは似合わなそうだなぁ・・・そもそもあの歳だと当直とかしないからシャンプー病院にないんじゃない?」
「たしかに・・・ヘアオイルとか使わないですかねぇ」
「ヘアオイルも使わないね。激辛ソースとかにしてみたら?いつも飲んでるコーヒーに混ぜるとか!辛いの苦手だし」
「なるほど・・・でもコーヒー飲み始めたらずっと手に持ってません?」
「そうねー。まぁ実際にやるかどうかは別として復讐の方法考えると楽しいよね。しかしヤブ君をおろしたかー。藤堂宇先生結構かってると思ったのに」
「それでコロナ対策本部長に任命されました」
「うわっ、なんだ出世じゃない!おめでとう!」
「面倒ごとを押し付けられただけですよ。誰もやりたがらないから、押し付けても逃げられない俺があてられただけです。まぁそんなこんなでコロナ対策本部長なので、吾妻さんの感染経路を調査にきたというわけです」
「期待されてるんだよ!よかったねー。なるほどね。なんでも聞いて!」
自分のことのように喜ぶ吾妻を見て、矢吹は自分の頭の中にしか存在しない理想の母親を思う。美しく、聡明で常に自分の味方である母親。
「逆に感染経路でご自身で思い当たるフシは何かありますか?」
「それがあんまりないのよね。私が実際に診療に携わる機会は少ないし。私が感染するくらいならよっぽど普段ケアしてる子たちの方が危ないと思う」
「そうですよね・・・もう一人の医事課の二俣さんも感染経路がわからないんですよ。彼女に至ってはテレワークで週に二回しか出勤していませんし」
先月から施行した全職員PCR検査で陽性となったのは2人で、吾妻と、もう一人が医事課課長の二俣美穂であった。2人とも同年代の美人で、引く手あまたであろうに独身であった。
「実は二人は仲良しで、どこかに飲みに行ったとかないですよね?」
「全然。最近は接点なんてまったく・・・あ、ホストクラブ一緒に行ったわ」
「また適当な。熱海にホストクラブはないでしょう」
「失礼な。あるわよ熱海にだってホストクラブくらい」
「え・・・まさかほんとですか?いつ頃行ったんですか?」
「そうねー・・・15年くらい前?」
「・・・ややこしいこと言わないでください。というかなぜそのメンツでホストクラブなんて行ったんですか?それはそれで気になる」
「色々あったのよ。しかし藤堂先生も本気だねー。藤堂先生ぜったいヤブ先生に期待してるよ」
「ほんとですか?」
「美女の勘は当たるのよ」
そう言って吾妻は冗談にならないほど美しい笑みを浮かべるのであった。
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