灰にならねば家族に会えない

思えば教授室など初めてだ。矢吹は出世から縁遠い、体のいい使いっぱしりだった。医者の少ない田舎の総合病院で馬車馬のように働かされ、コロナが流行ったと思えば大学病院に呼び戻され最前線に立たされる。


職場選択の自由など矢吹にはない。生まれた時から貧乏で、塾にも行けず地域枠という条件付きの枠でなんとか私立医学部に滑り込んだ。卒後9年間は勤務地を指定される。医者になったら貧乏から抜け出せるかと思ったが、まさか医者になっても貧乏とは思わなかった。特に大学病院は残業し放題定額制なので、膨大な奨学金の返済と寮費を引くと手取りはなんと6万円ぽっきり大変お買い得なのであった。いわゆる奴隷医というやつである。


教授室のいかにも高級そうなドアを眺めて、いよいよ身分の違いを思い知る。意を決してそれを叩くと、みっちり詰まった音がした。


「入れ」


不機嫌な声が短く響く。中に入ると大きな窓。相模湾が一望できる。藤堂教授は革張りソファーに沈み込み、ふんぞり返ってこちらを見ていた。


「矢吹、なぜ呼ばれたか分かるか?」

「・・・いえ」


思い当たる節が多すぎる。出世などしようがなく、ただ奴隷期間が過ぎ去るのを耐えていた矢吹は、大学病院特有のくだらぬルールなどことごとく無視していた。


「お前が3日前に体外式膜型人工肺ECMOを導入したコロナ症例のことだ」

「・・・あの人の経過は順調です」

「結果の話をしているのではない」

「すみません」


藤堂教授が吐き出す重だるい空気を、薄っぺらな謝罪がヒラリと舞った。


「あの症例の年齢を言ってみろ」

「年齢ですか・・・?70代だったと思いますが・・・」

「75歳と2ヶ月だ」


思い出した。矢吹が体外式膜型人工肺ECMOを入れたとき、同期の西蓮寺がサイレンみたいに騒いでた。確か救命率の低い75歳以上は・・・


「我が大学では75歳以上の症例には体外式膜型人工肺ECMOの導入を行っていない」

「導入しなければあの人は助けられなかったと思いますが・・・」

「そういう次元の話をしているのではない。いいか矢吹。我が熱海医科大学付属病院救急科は県からの多額の助成金を受け、ようやく体外式膜型人工肺ECMOセンターを設立したばかり。良好な治療成績を残し、継続的に助成を受ける必要がある」

「・・・だからといって・・・」

「矢吹。目の前の症例に捉われるな。我が体外式膜型人工肺ECMOセンターは今後多くの症例を救うことになる。体外式膜型人工肺ECMOセンターの存続こそが重要なのだ」


つまりは見殺しにしろと。大学の治療成績のために。なんという傲慢。何様のつもりだ。


ふぅ。


と息を整える。やりあっても無駄。この殿様にとって、下々の命など毛ほどにも価値がない。


矢吹には夢がある。貧乏を抜け出す、という大きな夢が。だから医者になった。貧乏というのはしつこくしつこく付きまとう。矢吹は母親が16の時の子で、子宮にいるときから貧乏だった。母親はせっかく定職についてもはしから男に貢ぐようなクズで、しかも貢ぐ相手は半年交代だった。父親がいったいどれ・・なのか、矢吹には皆目見当つかなかないでいた。


医者になってもやっぱり貧乏だったが、おかげで母親やその彼氏から金をせびられなかったのはよかった。そしてこの地域枠という縛りは、今年度で終わりなのだ。


今年さえ耐えれば、どこででも働ける。普通の医者として、超リッチな生活が始まるのだ。


「・・・よく、分かりました」

「うむ。今回の症例は結果的には幸いだった。だが我々医者というのは、目の前の症例だけでなく、今後出会う未来の症例のことも鑑みて、時には厳しい判断をしなければならない」


青森週4日年収2300万。佐賀週5日2500万。埼玉週5日1800万。素晴らしい求人の数々。借金なんて一瞬だ。やっと貧乏から抜け出せる。教授はなんだかんだ権力ちからがある。気に入らない元部下の再就職を邪魔するくらいわけはない。極力穏便に、この一年を切り抜ける。福島週5日2800万、北海道週5日2200万、茨城週4日1900万・・・


「今後同じような症例が来た場合、やはり厳密にプロトコールに則り治療を進めることが非常に重要だ。そのデータが必ずや将来より多くの症例を救うことになる」


小豆島週5日2600万、伊豆大島週5日2400万・・・


「例え個々の症例の不利益となったとしても全体としては・・・」




「・・・症例、じゃねぇ。カ・ナ・イ・さ・ん。名前を持った人間だ」

「おいお前・・・」

「コロナで死ぬと、灰にならなきゃ家族に会えない。ズダ袋でぐるぐるにされて、誰にも見送られず、火葬場に直行する死体を見たことありますか?75歳2ヶ月は見殺しにして、74歳11ヶ月は助けるんですか?先週まで元気にゴルフしてたんですよ。ああ、運が悪いですね。あと三ヶ月早ければ助けてあげたのに。残念です。ほら、この灰が金井さんですよ。あんた家族にそう説明してみろよ」


銅像みたく、藤堂教授はピクリとも動かない。夜の相模湾だけが、ライトアップされた浜辺に寄せては返す。カラン、教授の手にもつアイスコーヒーの氷が、溶けて一つだけ音を立てた。


「よくわかった。お前は大学病院の使命というものを理解できていないようだな」


やっちまった。バラ色の未来が、色褪せて崩れていく。喧嘩した教授に再就職をさんざん邪魔され、仕方なく開業したところ保健申請がことごとく却下され、ついには破産した医者もいるらしい。藤堂教授のねちっこそうな視線を、矢吹はぞっとした思いで受け止めた。


「本日をもってお前の集中治療部Bチームリーダーの任を解く」


あーあ。これからどうすっかな。オーストラリアって日本の医師免許使えるんだっけ?英語喋れないけど。


「同時に、本日をもってコロナ対策本部長に任命する」

「・・・えっ」


藤堂教授は口元をねちっこく歪めてニヤリと笑った。


「しっかり励むように」

「えっ、あっ・・・はい」


そうして矢吹は、聞いたこともない役職についたのであった。

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