コロナファイター!奴隷医矢吹。
@inaeshimuro
天国から追い出された女
ふと日付が分からなくなって、矢吹は親指の腹で無精髭をそっと撫でた。ふむ。この伸び具合からいって、家に帰れなくなって五日といったところか。
新型コロナが流行ってこの方、熱海の街では閑古鳥が鳴いていた。表通りは咳一つない。土産物屋はがらんどうで、流行りの寿司屋は予約もいらない。真夏のビーチはまっさらで、片付けるべき燃えさしもない。
だというのに!ここ熱海医科大学付属病院救急科は目が回るような忙しさだった。近隣の総合病院は軒並みコロナの院内感染で閉鎖し、すべての発熱患者が集中したのだ。2020年の夏は酷暑だった。発熱患者はコロナだったり、熱中症だったり、あるいはその両方だった。
PCRなどろくに追いつかず、矢吹達救急科のスタッフはそのすべてをコロナとして扱った。クソ暑い中、サージカルキャップをかぶりゴーグルをかけキツイN95マスクをつけガウンを着て手袋を二重にしシューズカバーを履いたのだった。汗だくになって一日中。劣悪な環境。そう。つまりはいつも通り、まったくもっていつも通りに忙しかった。
いや、一つだけいつも通りじゃないものがある。院内温泉が閉鎖したのだ。相模湾を見下ろす最上階の大浴場。硫黄がプンと香り、白濁した湯が肌を刺す。莫大な奨学金の返済も、意味不明な長期勤務も、雀の涙の給料も(寮費などもろもろ引いて手取り7万!)、湯につかってトロンと海を眺めればすべて洗い流せたのに。矢吹は無精ひげをイライラとこすった。
コンココンッ、独特のリズムが響いて、看護師の佐々木美幸が入ってきた。
「矢吹先生、ホットライン忘れてますよ」
そういって、救急要請専用のPHSを手渡してくる。
「あ、やば。ありがとう」
手を伸ばすが、届く直前にヒョイと外された。
「もうほんとに満床ですからね。お看取りだけの心肺停止とかならいいけど、あとは受けないでくださいね」
「はいはい、空床は天国のみね」
そのときまさに、佐々木が手に持つPHSが鳴った。アーモンド型の目を細め、もう絶対受けるなよ、と念押し手渡してくる。
「はい、熱海医科大学附属病院救急の矢吹です」
救急隊員が早口に病状をまくしたててくる。背後でモニターのアラーム音が響いている。
「呼吸数40回/分、酸素10L/分投与で
電話を切ると、佐々木が待ってましたと口を開く。
「満床っていいましたよね!?どうするんですか!?」
「満床なのは一般病床だろ?集中治療室が一床空いてる」
「だから!超重症でもなければ結局転院ですよ!このご時世転院先探すのもすごい大変なのに!どうしていつも無理して救急車とるんですか!?」
「だいじょーぶ。やばいバイタルだから。ギリギリ助かれば集中治療室、ギリギリだめなら天国。いずれにせよ行先はある。挿管と人工呼吸器の準備しといて」
そう言って今取ったメモを手渡すと、佐々木はひったくってズカズカと出ていった。
今この近くで救急をやっているのはうちだけだ。ここで受けなければ患者は死ぬ。別に俺が仕事を増やしているわけじゃない。
言いそびれた言い訳を小さくつぶやいて、矢吹はスタッフルームを後にした。
※※※※※
酸素を1mlも取りこぼすまいと、中年女性は大きく大きく息をしていた。コロナの集団感染が発生している老健施設の職員らしい。吐息に含まれるコロナウィルスが、今まさにマスクから漏れ出し舞い上がっている違いない。N95マスクが顔にフィットしているのをもう一度確認して、顔を覗き込んだ。
「救急科医の矢吹といいます。施設でクラスターが起きているとお聞きしました。本当に大変でしたね」
「入所の人っ・・・みんなっ・・・マスクっ・・・してくれなくてっ・・・」
「そうですよね・・・」
「食事っ・・・介助っ・・・中もっ・・・ゴホゴホっ・・・むせてっ・・・顔にっ・・・かかってっ・・・」
「怖かったですね」
「気を付けっ・・・てたけどっ・・・昨日からっ・・・息がっ・・・苦しくてッ・・・」
「お辛かったですね。よく分かりました。もう喋らなくて大丈夫ですよ。これから全身麻酔して喉にチューブを入れて、呼吸を補助する人工呼吸器に繋ぎますからね。いいですか?」
女性はかろうじてコクリと頷いた。潤んだ左目から、ツツツと涙が一筋落ちた。
「だいじょーぶ!ちょっとびっくりしちゃいましたね。でもね、うちはもう半年もコロナ診てますからね。ここにいるのはみんなベテラン中のベテランです。おんなじように人工呼吸器を使った人も、みーんな回復してますからね」
コクリ、小さな頷き。矢吹はともかく佐々木は若すぎるが、全身防護服で目しか見えない。ベテランと言い切ればベテランに見えるだろう。
「昨日も70代のおじいちゃんが回復して歩いて帰りましたから。心配しない!眠ってる間に、全部うまくやっとくからね。絶対大丈夫!すっかりよくなったら、またお会いしましょう」
もう頷きはなかった。呼吸がゆっくりになる。安心したというわけではない。背後のモニター音が急激な酸素濃度低下を告げていた。低酸素が限界を超え、呼吸と脈が今まさに止まろうとしてた。
「やばいやばい、マッキントッシュ!麻酔?いいよもう!もう意識ないから!」
わずかに力の残る口をこじ開けて、チューブをこじ入れる。人工呼吸器につなげて肺に酸素を送り込む。
まんじりと時間が過ぎていく。酸素がなかなか上がらない。これで駄目なら
「セーフ。なんとかなったな」
「絶対大丈夫とか言い切っちゃって、駄目だったらどうしてたんですか?」
佐々木がぐったりとした口調で、だがしかしまだ非難してくる。
「死人に口なし!助かったら命の恩人。リスクのない嘘というわけだ」
「さいってー」
「助かったからいいだろ。しかしほんとにギリギリだったな。天国も満床かな?さすがに疲れたわ」
「・・・過労死しないでくださいね。今死んだら地獄行きですよ。天国満床なんで」
「・・・」
ふたたびPHSの着信音。佐々木はキッとこちらを睨んでくる。
「こ・ん・ど・こ・そ!満床ですからね!」
「落ち着け。この着信音は救急隊からの電話じゃないって」
そういって処置台に置いてあったPHSのディスプレイを覗き込む。
459、地獄。
出来すぎた偶然か、たちの悪いジョークなのか。番号登録するまでもなく、我らが藤堂教授からの地獄の電話であった。
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