神庭世界編
甘音─1 離れた家族
長く、神に仕える神官として血脈を繋いで来た甘音の家。神官とは、神と人とを繋ぎ思いを受け渡す役割を持つ人々のことを指す。
甘音は幼い頃から神を身近に感じる才を持ち、何もない所に話しかけるような不思議な子どもだった。彼女の目には庭の花の上にも家の机の上にも、そして川の中や空にまでも尊い存在が見えていたのだ。
しかし、それは大多数の人々からすれば気味の悪いことだろう。甘音自身はそれにしばらく気付かなかったが、年の離れた姉・
ある日、織音はぼーっと向日葵の花を見上げていた甘音を自分の方に振り向かせ、彼女の目を覗き込んだ。小さく細い肩を掴み、言い聞かせる。
「甘音、聞いて? 向日葵の上に何か見えた?」
「うん、おねえちゃん。あの上にね、黄色い髪の毛の綺麗な妖精さんがいるの」
甘音が指差す先に、残念ながら織音は何も見出すことは出来ない。織音には神官として必要不可欠な『目』がなく、神を感じることが出来ないのだ。
「……そう」
織音は少しだけ痛そうな顔をして、そっと妹の頭を撫でた。嬉しそうに目を細める彼女を見詰め、自分が妹の自由を奪う罪悪感に心が沈む。
それでも伝えなければ、甘音はこの世界で生きていくことは難しい。織音は心を鬼にして、甘音と視線を合わせるために中腰になった。
「あのね、甘音。……甘音が見てる妖精さん、わたしには見えないの」
「……ん?」
「まだ言うのは早いのかもしれない。だけど、甘音がこれから傷付くことの方が怖いから……ごめんね」
「おねえちゃん?」
姉に抱き締められ、甘音は目を瞬かせる。織音の体が震えている気がして、幼い甘音は姉の背中をさすった。
「だいじょーぶ、だいじょーぶだよ?」
「……そうね。きっと、あなたなら大丈夫。きっと、あなたを受け入れてくれる誰かに出逢えるから」
織音の腕に力が籠り、甘音は驚いた。まだ十年も生きていない彼女には、十以上離れた姉の言いたいことの意味がまだ理解出来なかったのだ。
ただ、大丈夫だと繰り返すことしか出来なかった。
それから数年が経ち、甘音は十歳になった。
当時姉に言われた意味を理解し始めたのは、丁度その頃だったかもしれない。
妖精だと思って話しかけていたものが他人には見えず、怖がられていたのだと知った。ひそひそと後ろ指を指され、遠巻きにされているのだと知った。
しかし神官という立場を持つ家の子だということで、恐れと共に表面上は受け入れられていた。ただし、一人も友だちはいなかったが。
家族、特に父はそんな甘音の良き理解者だった。何故なら彼にも甘音と同じ才があり、神官の実家を継いでいたのだから。その代わり、母と姉は神と繋がる力はない。
「甘音、明日から
父がそう言ったのは、甘音が十歳になって一か月後のことだった。
禊は、真水を用いて心身共に洗い清める儀式を指す。それを長期間行なうことにより、神に近付いてその声を受け取ることが出来るようになっていく。
その代わり、禊の間は誰とも会うことは叶わない。家族でさえ、穢れを持ち込む可能性があるとして排される。
そんな厳しい条件があると理解した上で、甘音は首を縦に振った。
(だって、わたしはいつか神さまの所に行くんだから)
父から直接言われたことはなかったが、甘音は本能的な部分で知っていた。その時が近付いて来たのだ、と思ったに過ぎない。
甘音が禊を了承すると、父は険しい表情の中に寂しさをかすめて頷いた。
「……そうか」
一言だけ呟き、背を向けた父を今でも覚えている。
そして、運命の日が来た。
甘音十一歳の時、家族全員の夢枕に神が立ったのだ。彼女は甘音を指名し、ソディリスラの中央部に位置するアラストへ向かえと指示した。
「……甘音」
「お母さん」
出発直前、甘音は母に呼ばれた。
体があまり強くない母は、自室でゆっくりと過ごしていることの多い穏やかな気性の人だ。しかしその時は珍しく、動揺した様子で旅立つ娘を抱き締めた。
おっかなびっくりの甘音は、その力強い腕に更に驚く。普段の母からは想像も出来ない、普通の人の腕力。
「おかあ、さん……」
「……甘音、立派に役割を果たしなさい。私は、私たちはあなたが幸せであることを何よりも望んでいるわ」
「――うん。行ってきます」
「いってらっしゃい」
母の腕を離れ、甘音はとびっきりの笑顔を見せた。彼女の瞳に映るのは、母と父と姉。彼らと触れ合うことすらもうないのだと思うと、心が空虚になる気がした。
それでも、甘音は発つ。それが自分自身がこの世に生まれた意味だと信じて。
甘音が旅立って一年後。南の大陸にある彼女の実家の水鏡に連絡が入る。
「お姉ちゃん、久し振り!」
鏡の向こうには、幸せそうな妹の笑顔があった。
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