カリス 日常に影が落ちる
「――カリス殿!」
「おや、何かな?」
「はい。あの……」
今日も政府機関の建物の中で呼び止められ、カリスは足を止める。落ち着いた物腰で応対し、必要な指示を与えた。
カリスを呼び止めたのは年若い議員で、大先輩にあたるカリスに緊張しつつも言葉を選んで話しかけてくる。だからカリスも、それに応えるのだ。
議員が疑問が解けたと晴れやかな顔で去り、カリスはまた一人で中央議会の建物の中を歩く。
カツ、カツ、カツ。革靴のたてる静謐な廊下を割るような音は、一定間隔でリズムを刻む。
カリスは目的の部屋の前まで来ると、すっと深呼吸した。いつもそうだが、ここに入る時は緊張感を伴う。
まるで、自分とは異なる何者かと対峙するかのように。
コンコンコン。扉をノックすると、部屋の内側から「どうぞ」と落ち着いた老人の声が聞こえる。彼はいつも、秘書ではなく自分の声で返事をするのだ。
「失礼致します、首相」
カリスが入室すると、秘書を一人控えさせた好々爺がこちらを見て微笑んだ。
「おお、よく来たな。して、用件を聞こうか」
「はい。次の閣議でのことなのですが……」
カリスが書類を示しつつ、一つ一つ確認する。するとタオジは真剣な顔をして頷き、不明点には疑問を呈する。
不明点と言いつつも、それはタオジが知らないという意味ではない。この齢八十の老人は、自らがすべき仕事の全てを頭に入れていて忘れない。そのためこの場合、自分の意見と閣議で論ずべき事柄との違いがないように確認するのだ。
(本当に、この人は一体幾つなんだと頭を抱えたくなるな……)
二十歳はカリスの方が若いが、タオジの意欲と行動力には毎回舌を巻く。
「……と、これくらいのものかな」
「はい。ありがとうございます」
「何か気になることがあるのなら、ここで私に話して行っても良いぞ」
「タオジ首相、あなたは何でもお見通しですね」
降参だとばかりに肩の辺りまで両手を挙げ、カリスは苦く笑う。そして、最近見る夢について話し出した。
「最近、夢を見るのです」
「夢? どんな夢だ」
わずかにタオジの声に警戒の色が乗る。しかし本当にわずかな違いで、話すことに集中しているカリスは気付かない。
「はい。……何処か、深い森に私はいます。その向こうには素晴らしい宝があることを知っているのですが、一歩も進むことが出来ないのです」
「……続けて」
「夢の中の私は、何度も足を動かそうとします。しかし、足の裏が地面に貼り付いて離れない。そうこうしているうちに、私が行きたいと思っている方向から火の手が上がります」
火は燃え上がり、天を突くような火柱になる。呆然としているカリスのもとに、その火の粉が降って来るのだ。
「炎が上がる方向から、声が聞こえます。それは不明瞭な音ですが、私には確かに言葉として聞こえます」
「その声は、何と言っていたんだ?」
「ただ、『こちらへ来るな』『あっちへ行け』『二度と繰り返すな』と繰り返すのです」
「……」
考え込んでしまったタオジに、カリスは問う。これはどのような意味を持つのだろうか、と。
「この夢を見た朝は、決まって背中に汗をかいています。妻によれば、うなされているのだとか」
「ちなみに、その夢に出て来る場所に見覚えは?」
「ありません。……あれば、一度行ってみたいと考えておりましたが」
「──行ってはいかん」
「首相?」
思いの外強い口調で制され、カリスは驚いた。
タオジは普段、声を荒げることがない。どんなに紛糾する議会にあっても、際どい質問を記者にされても、穏やかに受け答えする。
秘書も驚いたのか、持っていた手帳を取り落とした。
ちらりと秘書を
タオジの目は、真っ直ぐにカリスを射貫いた。
「その夢は、きみが今後も穏やかに生きるための警告だ。普段は忘れておき、森に近付かないようにすると良い。……今夜にでも、新たな封印を施しておこう」
「首相、何かおっしゃいましたか?」
森に近付かないように。そう言った後、タオジは何かを呟いた。うまく耳が拾わず、カリスは聞き直す。
しかしタオジは緩く
「いや、
「確かに、最近は眠りも浅かったかもしれません。お言葉に甘え、今日はもう下がらせて頂きます」
「ああ、お疲れ様」
軽く手を振るタオジに頭を下げ、カリスは戸を閉めた。
「……そういえば」
廊下を歩いていたカリスは、つと足を止めた。先程戸を閉める瞬間に、タオジが何かを考える表情をしていたのが気にかかる。
「気にし過ぎか」
タオジに言われた通り、疲れているのだろう。昨夜も徹夜をしてしまったためか、喉を欠伸がせり上がる。それを噛み殺し、カリスは執務室に書類を置くと鞄を手に議会堂を去って行った。
「さて……ジュングの力が薄れているらしいな」
タオジはその夜、自宅で数十年ぶりに魔力を行使した。解けかけた力の結びつきを強化し、カリスの夢に干渉する。
「……よし、寝るか」
記憶の封印を元以上に固くしたタオジは、伸びをして寝床に入った。そして、すぐに規則正しい寝息をたて始める。
おそらく、カリスはあの夢をもう見ることはない。
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