アスタール 始まりの罠

 これは、リンたちがノイリシア王国へ来るきっかけとなった事件の始まり。


 アスタール・ジルフォニアは、普段シックサードの息子と娘たちの教育を任されている。今日もまた、いつもと同じように午前中の勉学の講師をしに行くために歩いていた。

 温かく、日差しも穏やかに射し込んでいる。アスタールは陽射しに目を細め、これから向かう部屋の主へと思考を移した。

「最初は、ノエラ様か。前回はあそこまでやったから……」

 素直で物覚えの良いノエラは、アスタールにとって教えやすい生徒だ。反対に姉のヘクセルは幼い頃、じっとしているのが苦手な女の子だった。あの頃は手を焼かされた、とアスタールは苦笑する。

 まさかその姫君に、再び手を焼くことになるなどと思いはしなかった。


「ノエラ様、アスタールでございます」

「はーい!」

 王城から少し離れた場所にある外宮。ノエラはいつも、そこで側近たちと共に過ごしている。幼い姫が余計なストレスに晒されないよう、危険のないようにとの配慮である。

 外宮の衛兵に挨拶し、アスタールはノエラの部屋の戸を叩く。するとすぐに、鈴を転がすような少女の声がして、ノエラが自ら戸を開けてくれた。

「せんせい、きょうもよろしくおねがいします!」

「はい。では、始めましょうか」

「はい!」

 ふわりとワンピースの裾が翻り、ノエラは勉強机の前に座った。そこには既に、テキストとノートが広げられている。

 アスタールは自分も持ってきた本を広げ、世界地図を壁にかけた。今日は、地理の講義をするのだ。

 世界には幾つかの国と、政府を持たないソディリスラと呼ばれる大陸とがある。それらの位置関係と情勢を分かりやすい言葉で説明し、ノエラの反応を見ながらテキストをめくった。


 講義も終盤に差し掛かり、アスタールはノエラからの質問に答えていた。

「……ということで、ご納得頂けますか? ノエラ様」

「はい、わかりました。つまり――ってことですね」

「その通り。やはり、よくわかっていますね」

 アスタールに手放しで褒められ、ノエラは嬉しそうに笑みを浮かべた。そんな姫に癒され、ふとアスタールは掛け時計を見る。そろそろ、次に講義へと向かわなければいけない時間だった。

「いけない。そろそろ時間です。ではノエラ様、また次回……」

「あの、アスタールせんせい!」

「何でしょう?」

 ノエラに呼び止められ、アスタールは足を止める。珍しいこともあるものだと思いつつ振り返ると、ノエラは少し困った顔をしていた。これを話すべきかどうか、と悩んでいるのか。

 アスタールは膝を折り、ノエラと同じ目線になる。そして、声色を出来る限り柔らかくした。

「どうしましたか、ノエラ様?」

「あの、ね」

「はい」

「……これから、あねうえのところにいくでしょう?」

「はい。次はヘクセル様の所ですね」

 ノエラの姉・ヘクセルの元に向かうのが、次のアスタールの仕事だ。それを確認した上で、ノエラは肩を竦めた。

「あねうえがおねがいするとおもうから、それにはんたいしないであげて?」

「お願い……?」

 あの気の強いヘクセルが、自分に何の「お願い」があるのか。若干の嫌な予感を覚えつつ、アスタールはノエラに向かって「わかりました」と頷いた。


(何を頼まれるというのか……)

 アスタールは内心の不安を顔に出さないよう気を付けながら、ヘクセルに向かって歴史の講義を行っていた。

 人によって講義内容を変えるのは手間だが、アスタールにとっては苦ではない。何度も何度も己の知識をあらため、確かなものにしていくのが楽しいのだ。

 そんなことを言うと、アゼルは苦々しい顔をするのだが。

「では、ヘクセル姫。私はこの辺りで失礼を……」

「ちょっと待ちなさい」

 普段通りに退出しようとしたアスタールは、強い物言いのヘクセルに押し留められた。何かと思えば、頼みがあるという。

「頼み、とは?」

「実は……家出した弟を迎えに行きたいの。それも、

「絶対に戻らなければいけない状況……?」

「そう。そのために、あなたに協力して欲しいの」

 お願い、とヘクセルが手を合わせてくる。

 王族は、アスタールを始めとした家臣のあるじだ。家臣は基本的に、王族に反することは許されない。

 しかし今、アスタールはとても辞退したかった。ヘクセルの言う「絶対」という状況を作り出す手伝いとは何なのか、想像したくなかったからだ。

 そしてその「絶対の状況」に置くべき人物は、長い間ノイリシア王国から姿を消している人物――エルハルト第二王子に間違いない。彼はノエラが生まれるより前に家出したため、彼女の存在を知らないはずだった。

 唐突な出来事に、アスタールは数歩後ずさる。

「え……いや……」

「お願いします。……父上の願いを、叶えてあげたいの」

「シックサード陛下、の?」

 ヘクセルの言葉に、アスタールは聞き返した。どういうことか、と目を瞬かせる。

 すると「よしっ」と言いたげに目を輝かせたヘクセルが、事の大まかな設計図を話し始めた。それは、アスタールが思ったよりも大規模な騙しである。

 冷汗をかきながら、アスタールは問う。ノエラはこれを知っているのか、と。

「いいえ。あの子には『アスタールにわたくしのお願いを聞くよう説得して』と頼んだだけ。自分が巻き込まれるなんて知らないわ」

「本当に、あなたは無茶ばかりですね」

 ため息をつきつつアスタールが言うと、ヘクセルは「仕方がないでしょう?」と笑っってみせた。

「父上に、彼を会わせるため。……手伝いをお願いね、アスタール」

 体調が優れず寝込んでいる幼馴染のためだと懇願され、アスタールは折れるしかなかった。


 ―――――

 次回はジスターニのお話です。

 お楽しみに。

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