シドニアル 駆ける者
シドニアル・ノイリシア。
弱冠六歳にしてこの世を去った少年王子は、生前誰よりも走るのが速かった。それ以外は王城に遊びに来る鳥たちと戯れ、メイドや衛兵たちとかくれんぼをして困らせる、可愛らしい少年だったという。
「イリスあにうえ!」
「どうした、シドニアル?」
イリスが振り返ると、幼いシドニアルがボスッとぶつかるように抱き付いてくる。三才年下の弟を、イリスは
シドニアルもまた、ヘクセルもエルハルトも生まれていなかったこの頃は実兄イリスにべったりで、度々父母に叱られた。
「あのね、ぼくもあにうえといっしょにべんきょうするんだ! せんせいがゆるしてくださったから」
「お、そうなのか? じゃあ、一緒に行こうか」
「うんっ」
兄に手を引かれ、シドニアルは嬉しそうにスキップしていた。
「殿下……」
「シドニアル、起きて。本当に勉強が苦手だなぁ、シドは」
呆れて肩を竦める教師と、微苦笑を浮かべるイリス。二人は幼いシドニアルを揺すり起こすことはせず、出来るだけ静かに昨日の復習から始めた。
イリスがノイリシア王国の歴史と経済とを関連付けた講義を聞く中、ふと気が付くとシドニアルの肩がイリスの腕にあたっていた。
「ふふっ」
すーすーと穏やかな寝息をたてる弟を柔らかく見詰め、イリスは左腕を動かさないように気を付けながら勉強を再開した。
座学の苦手なシドニアルだが、体を動かすのは誰よりも得意だった。教師たちも声を揃え、ここ何年かで最も運動神経が良いと太鼓判を押す。
今日も今日とて、イリスの剣術鍛練の横で身軽に庭園を走り回っていた。その為、イリスの注意が散漫になる。
「シド、気が散る!」
「しゅうちゅうのれんしゅうになるからいいでしょー?」
「そうかもしれないけど」
ちらりとイリスが教師たる男の顔を見ると、彼は何処か楽しげに「それは良い」とシドニアルの肩を持った。
「イリス殿下、シドニアル殿下に負けぬよう頑張ってくださいませ」
「くっ」
イリスは再び気を引き締め、雑念を払って剣術に向き合うことになる。それでもシドニアルが怪我をしないか、頭の隅では気にしていた。
「ふふっ。がんばれがんばれー!」
木の上で足をぶらぶらさせながら、シドニアルは兄の姿を楽しそうに見て応援していた。その姿を見付けた侍従が慌てるが、お構いなしだ。
ある時、シドニアルは一人で王城内を歩いていた。早めに鍛練も勉強も終わってしまったが、イリスの勉強に付き合うのは退屈だ。時々相手をしてくれるメイドや侍従、衛兵たちも間が悪く忙しそうにしている。
「……そうだ」
シドニアルはふと思い立ち、父の執務室を訪ねることにした。基本的に、父はシドニアルたち子どもを表だって慈しむことはない。しかしそれと息子たちを嫌っているのとでは、雲泥の差がある。
とんとんとん。シドニアルは執務室の戸を叩く。
「ちちうえ、シドニアルです」
「おお、シドか。入りなさい」
入室の許可を得て、シドニアルはひょこっと扉から顔を覗かせた。彼の目の先にいるのは、忙しなくペンを走らせる父・シックサードの姿である。
ペンを止め、シックサードは息子を手招く。
「おいで、シドニアル。見ていてもつまらないだろうがな」
「いいよ……そういえばははうえが、からだをいためてないかしんぱいしていました」
「そうか。無茶しない程度に無理をしていると伝えておいてくれ」
「それ、よけいにははうえしんぱいしないですか?」
「かもしれんが、言わないよりは良いだろう。……さて」
トントン、とシックサードが書類の束を整える。事務仕事は終わったのだろうか。シドニアルが首を傾げると、シックサードは伸びをして立ち上がった。
「これからアゼルと一緒に、マスト武官長の案内で兵の演習場へ行く。一緒に来るか?」
アゼルとは、アゼル・ドルトーサという未来の武官長候補だ。シックサードの幼馴染でもある。そしてマストは現武官長であり、五年後には退官を控えた老年の男だ。
マストは老年だが、健脚で筋力もある。実年齢を聞いた誰もが、二度見する男だ。
「いきます!」
シドニアルは即答し、シックサードの後を駆けていく。
シックサードはそんな幼い息子に慈愛の視線を送り、次回はイリスも連れてこなくてはと思う。きっと、シドニアルだけが同行を許されたと知ればむくれてしまうだろう。あの子は長男で我慢を強いられているから、と。
「ちちうえ、こんどはあにうえもいっしょにしましょう!」
「……そうだな」
父の心を読んだかのように、シドニアルはシックサードを見上げ、微笑んだ。
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次回はネクロ・ウォンテッドのお話です。
お楽しみに。
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