ヘクセル─2 甘いクッキー②
「とっても美味しいです、ヘクセル姫。頑張られているんですね」
ヘクセルとファストが二人で町に出掛けた日から数ヵ月後、ヘクセルの姿はリドアスにあった。兄エルハに誘われ、晶穂たちに会いに来たのである。
銀の華の面々にまだ合格点に満たないクッキーを差し入れ、女子二人で中庭のベンチで話し込んでいるのだ。
晶穂に褒められ嬉しそうに微笑むヘクセルだが、ふと目を伏せ首を横に振る。
「まだまだ、よ。ファストに教授願えるのは、週に一度あるかないか。彼は他の料理もうまいから教わりたいのだけど、そこまでは手が回っていないわ」
「だとしても、とっても美味しいです」
「あなたは素直ね。……そんな風であったら。いえ、これは言っても仕方のないことですわ」
「ヘクセル姫……?」
何故なら、ヘクセルが想いを馳せた人物が誰か、わかってしまったから。晶穂がその人の名を口にすることは、
目を閉じ再び開いた時に、ヘクセルの瞳から悲しみの色は消えていた。
「……そうですわ。あなたもお菓子を作るとエルハから訊いているの。最近、あなたが作ったものを教えて下さらないかしら?」
「うっ……。き、きっとそのファストさんよりも下手ですよ?」
話を聞く限り、ファストの腕前はその辺りで店を出せるレベルだ。そんな人の話の後に自分の料理の腕前の話をするなど、と晶穂は躊躇する。
しかし、ヘクセルの眼光は強さを増す。すぐに白旗を上げることになった晶穂は、しぶしぶの体でベンチから腰を上げた。
「昨日、作ったパイが冷蔵庫にあります。ヘクセル姫の分を持ってきますから、待っていて下さいますか?」
「ええ、楽しみだわ」
にこりと微笑み晶穂を見送ったヘクセルは、彼女の姿が戸の向こうへ消えると息をついた。緊張の糸が切れたというよりは、自分の感情を落ち着かせられてほっとしたのである。
「まだ、完全に忘れられた……乗り越えたわけではないのね」
晶穂と話していると、胸の奥の奥にある何かが疼く。その鈍く微かな痛みは、ヘクセルを切なく
(とはいえ、晶穂を恨んでいるというわけではないし。あの方への想いには終止符を打ったのだか……)
「ヘクセル姫?」
「──!」
思考に入っていたヘクセルは、頭上から聞こえてきた声に驚き顔を上げた。すると、彼女の深く黒に近い茶色の瞳に青年の顔が映る。
「リン……」
「お久し振りですね、ヘクセル姫」
ぼんやりと呟いたヘクセルに、リンはわずかに目を細めて挨拶する。
「エルハさんから、ヘクセル姫もこちらに来ていると聞きました。クッキー、俺も頂きました」
「──っ。どう、だった?」
「おいしかったですよ。あなたは器用で努力家ですから、きっとすぐに目標まで辿り着けます」
「そう。……よかった、ありがとう」
ほっと胸を撫で下ろし、ヘクセルは微笑む。この人に認められることが、こんなにも嬉しいこととは思いもしなかった。もっと上を目指そう、と改めて思う。
リンも彼女に応じるように微笑し、ふと周りを見渡す。
「そういえば、晶穂もこちらにいると聞いたんですが」
「あの子は今、わたくしのためにパイを持ってきてくれている途中ですわ。宜ければ、一緒に待つかしら?」
「……いえ。俺はもう、一度食べさせてもらっていますから。それに」
「それに?」
「……いえ、何でもないです」
失言した、とでも言いたげに口元を手で覆うリン。ヘクセルは彼の顔がじわじわと赤く染まるのを見て、思わず笑みを零した。リンは晶穂が絡むと、とてもわかりやすい反応を示す。
「どうやら、パイには何かしらの曰くがあるようね? 楽しみだわ」
「……っ。俺は、戻ります。ヘクセル姫、また後で」
「ええ」
努めて落ち着いた仕草で踵を返したリンだが、戸を開けた瞬間に晶穂と鉢合わせする。互いに驚いて悲鳴をあげた。
「わっ」
「きゃっ」
「……っぶな」
驚いて身をすくませた晶穂は、パイを乗せた皿を取り落としかける。皿を支え、リンは晶穂の手にそれを持たせる。
「気を付けろよ、晶穂」
「う、うん。ありがと、リン」
「……じゃあな」
リンと入れ代わり、晶穂はヘクセルの隣に腰かける。そして、手にしていた皿を彼女に手渡した。
「これ、です。アップルパイの作り方で、林檎に似た果物を見付けて作ってみました」
「林檎って、地球にある果物の一つね。文献で読んだことがあるわ。それに似ていると言うと……リーフルかしら」
リーフルとは、固い実がオレンジ色の薄い皮に覆われた果物だ。形状は林檎によく似ている。
晶穂は頷くと、綺麗に焼き目が付いてジャムを塗ったために輝くリーフルパイを差し出す。ヘクセルはそれを受け取ると、フォークを入れた。
サクッと音がして、パイが一口大に切られる。湯気をたてるそれを一口食べ、ヘクセルは目を輝かせた。
「……おいしい」
「よかったです。お口に合ったようで」
安堵の笑みを浮かべる晶穂を横目に、ヘクセルはリーフルパイ一切れを一気に食べてしまった。パリパリとしたパイの食感が楽しく、また煮詰められたリーフルの甘味が増している。
ヘクセルは行儀よく「ご馳走さま」と手を合わせ、皿とフォークを晶穂に返した。
「とっても、おいしかったわ。私も、もっと頑張らなければね」
「姫様がそうおっしゃるなら、わたしも精進します」
「では、次の機会に私の料理も食べてもらいますわ。でないと、あの方との約束を果たせませんもの」
「……約束?」
晶穂が首を傾げ、ヘクセルはふふっと蠱惑的に微笑んで見せた。
「秘密。あなたも精々、飽きられぬよう頑張りなさい」
「はいっ」
秘密と言われきょとんとした晶穂だったが、ヘクセルに鼓舞されて微笑んだ。
「あなたが、リン団長ですか?」
「そうですが……あなたは?」
廊下の窓から晶穂とヘクセルの様子を見守っていたリンは、突然話しかけてきた青年に向かって不審の目を向けた。エルハが連れて来た護衛の中にいた騎士の一人だと思うが、名乗り合ったわけではない。
向こうも名乗らないのは無礼だと思ったのか、ぺこりと頭を下げてから自己紹介してくれた。
「失礼致しました。お……
「ご丁寧に、ありがとうございます。……もしかして、ヘクセル姫が料理を習っているという?」
「そちらもご存知でしたか。ええ、そうなんです」
ファストの生真面目な顔に嬉しそうな色が浮かび、リンは少し驚いた。目を見張るリンが自分を見ていることに気付き、ファストは咳払いをする。
「こほん。……私は、ヘクセル様を見守る一人の騎士に過ぎません。ですが、あの方には笑顔が似合う」
愛しげに細められるファストの目の先にあるのは、晶穂と語らうヘクセルの姿。リンは彼に同意しつつも、何故こんな話をされるのかと訝しく思っていた。
それがファストに伝わったのか、彼は苦笑する。
「すみません、突然」
「いえ。あなたがヘクセル姫を大切に思っていることは、充分に伝わってきますから。……俺は彼女を選べない。もう、心に決めたやつがいますから」
「姫様の隣の?」
ファストに言い当てられ、今度はリンは苦笑いをする番だった。どうやら、初対面の相手にもわかるほどにはわかりやすいらしい。
「――ええ。ですから、ヘクセル姫の笑顔を守るのは、俺じゃないんです」
あなたですよ。あえてそう言って突き付けることはせず、リンは
しかし、ファストにリンの意図は伝わる。彼は目を伏せ、それから決意を秘めた瞳で晴れやかに笑った。
「……俺に務まるかはわかりません。でも、精一杯護りたいと心から決めています」
全ては、一目惚れしたたった一人の
ファストの優しい視線に見守られ、ヘクセルはまた一歩前に進もうとしていた。
二人の運命の糸が結び付くのは、もう少し先のことになる。
―――――
次回は、ノエラのお話です。
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