ヘクセル―1 甘いクッキー①

 ヘクセルの毎日は、王城庭園の水やりから始まる。自室に一番近い場所にある庭は、彼女が王城内で一番好きな場所の一つだ。

 普段は妹のノエラの世話をするために別邸で寝起きしているが、今日は兄イリスの手伝いで朝から忙しい予定だった。その為、王城にある部屋に泊ったのだ。

 どちらで過ごそうと、このルーティンは変わらないが。

「うーん、気持ちの良い朝ですわ」

 昇って来た陽に手をかざし、ヘクセルは微笑む。手に持ったじょうろの水はほとんどなくなり、庭園は瑞々しさに溢れている。

「さて、行かなくては」

 じょうろを片付け、ヘクセルは着替えるために自室に戻った。今身に付けているのは部屋着とも言うべき簡素なドレスだ。そのドレスから、王城に相応しい装いに着替える。

 侍女に手伝ってもらうのは、髪を整える時だけだ。服の着替えは自分で出来る。

「では、行ってきますわ」

「いってらっしゃいませ」

 部屋を出て、ヘクセルは真っ直ぐに兄の執務室へ向かう。午前中は兄を手伝い、午後は自分の勉強時間だ。イリスの顧問も務めた先生に師事し、政務や経済について学んでいる。

 更に最近は、姫としての学びにも力を入れるようになった。文化芸術について学び、裁縫や料理にも手を出している。

 全ては、彼を見返すために。

「兄上」

「来てくれたか、ヘクセル」

 今日も書類にまみれるイリスに苦笑し、ヘクセルは自分用のペンを手に取った。三分の一ほどの書類を譲り受け、整頓された文章に目を通す。

 王太子であるイリスには、国王である父に提出された裁定すべき書類の内半分が振り分けられているらしい。国王が一人でどれ程のものを裁いていたのかを考えると、悪寒を感じる。

「兄上、美味しそうですわね?」

 ふと気付くと、イリスの机の端に何種類ものクッキーが置かれているのを見付けた。さっきまでその皿の前には書類が塔のように積み重なっていたから、見えなかったらしい。最近兄の執務室を訪れると高頻度で置かれていて、食べると美味しい。

 しかし、ヘクセルはその製作者が誰かを知らずにいた。

 妹の指摘を受け、イリスは「これか。美味しいんだよね」と頬を緩める。

二月ふたつき程前から城に仕えるようになった騎士の一人が、なんと菓子を作るのが上手だと聞いてね。一度食べさせてもらったら美味しくて。以来、時々届けてもらっているんだ」

「騎士が……」

 ヘクセルは意外な思いで兄の言葉を聞き、ひょいっとクッキーを一枚口に入れた。ホロホロと崩れる生地の中から、チョコチップが飛び出す。食感と風味を楽しんで、ヘクセルは再び仕事へと戻った。


 翌日。ヘクセルはルーティンを終えると、イリスに頼まれていた買い物のために町へ出た。

 昨日の時点で紙とインクが足りなくなって、イリスは侍従に買ってくることを頼むようだったが、そこへヘクセルが割り込んだ。

「町の様子も見たいですし、行かせて頂けませんか?」

「一人、護衛をつけるなら」

 王族であるヘクセルが一人で町に出ることは、基本的にない。今日は最近入ったばかりだという騎士が、陰ながら同行してくれた。

「まず、文具店かしら」

「……」

 思わず呟いた独り言に、騎士は何も言わない。騎士の鎧ではなく動きやすく市中でも動きやすい平服で、一定距離をあけてついて来ていた。

 ヘクセルの服装は、城下町でよく見る若い女性のファッションだ。お忍びで出掛ける時、ヘクセルはシンプルで落ち着いた色目のワンピースを選ぶ。

 立ち寄った王室御用達の文具店で、ヘクセルは紙とインクの追加注文をした。まさか皇女自ら出向いたとは考えない店主は、気さくな態度で注文を受けてくれた。

「またご贔屓に、宜しくお願い致します」

「こちらこそ、お願い致します」

 丁寧に礼を述べ、ヘクセルは一束百枚程の紙とインク瓶二つを手持ちで持ち帰ることにした。

 ぐっと重くなったが、それを背負った鞄に入れてしまえば良い。ヘクセルはそう考えて、店先で鞄を開いた。

 そこへ、件の騎士がそっと近寄る。

「姫様、わたしがお持ちします」

「重いですわよ?」

「これくらいは、重い内に入りませんので」

 ふっと穏やかに微笑んだ騎士の青年は、片手でひょいっといとも簡単に鞄を持ち上げてみせた。目を丸くするヘクセルの目の前で、鞄を背負い振り向きざまに「行きましょう」と囁いた。

「これで、お使いは終わりでしょう。姫様の行きたいところへ、お供しますよ」

「……ふふっ。では、お願いしようかしら。ええと……」

 目の前の青年の名前を呼ぶことが出来ず、ヘクセルは視線を彷徨わせる。挙動不審な彼女の仕草の意味を汲み取り、騎士はぽんっと手のひらを合わせた。

「申し遅れました。ノイリシア王国イリス殿下配下の騎士、ファストと申します」

 流れるような礼をして、騎士ファストはヘクセルに挨拶した。彼の黒髪が陽の光を受けて輝き、ヘクセルは思わず目を細めた。

「ファスト。では、少しだけ付き合って頂きますわ」

「何処へでも」

 ヘクセルは焦げ茶の髪をなびかせ、冒険に出るような気持ちで町へ出た。

 彼女がまず向かったのは、書店だった。王城の中にも巨大な書庫があって王族ならば自由に出入り出来るが、ヘクセルが探しているのは人々が読む恋愛小説だった。政治や経済、歴史文化の書籍は幾らでもあるが、物語は数えるほどしか所蔵されていないのである。

「これが、今人気のある物語なのかしら」

 小説コーナーでヘクセルが見つけたのは、平積みされた姫君と騎士の物語。それを手に取り裏表紙に書かれたあらすじを読んで、羨ましいと感じてしまう。

(このお話の姫は、愛する人と幼い頃に出逢っていたのね。こんな運命みたいな恋、憧れはあるけれど……王女であるわたくしには不可能に近いわ)

 王女という存在は、昔から不自由なものだ。自由恋愛など許されず、いつか故国の為に身を捧げる存在だ。

 だからこそ、リンという青年に心惹かれたのかもしれないとヘクセルは思う。王族や国というものに縛られず、大切だと言い切る者たちの為に戦う彼を、ヘクセルは欲しいと焦がれた。

 しかし結局、その恋は実らなかった。リンには心に決めた相手がおり、ヘクセルはフラれてしまったのだ。

「……ふぅ」

「姫様? 如何されましたか」

「ファスト、何でもありませんわ」

 顔を覗き込まれ、ヘクセルは苦笑する。本気で心配しているらしい青年にもう一度「大丈夫」と伝えると、一人で会計をするための列に並びに行った。


 夕刻、ヘクセルの姿は王城の玄関口にあった。

 書店の次は可愛らしいケーキ店に行き、ノエラへのお土産として焼き菓子を買い求めた。多めに買ったのは、兄や弟へのおすそわけ分もあったから。

「今日は、お付き合い下さってありがとうございます」

 ヘクセルは同じ店で買ったクッキーをファストに手渡しながら、感謝の言葉を口にした。クッキーの入った袋を受け取り、ファストは笑みを零す。

「こちらこそ、楽しく過ごさせて頂きました。……それで、宜しければ」

「これは……」

 ファストが懐から取り出したのは、花や小鳥の形をしたクッキーのセットだった。アイシングされたそれらは、緑色のリボンを結んだ透明な袋に入っている。

 クッキーを持つ騎士。ヘクセルはふと、今朝のイリスとの会話を思い出した。兄は言っていたではないか、最近王城に仕え始めた騎士の一人がお菓子作りをすると。

「あなた、もしかして私の兄にクッキーを差し入れている?」

「ええ。イリス殿下が気に入って下さったということで、時折差し入れております」

「そうなのね! 私も、あなたのクッキーの味が好きだわ」

 今朝一枚食べただけだが、ヘクセルはあのクッキーに魅了されていた。その作者が目の前にいるという事実に、彼女の胸は高鳴る。

 ぐいっとヘクセルに顔を近付けられ、ファストの顔が淡く赤く染まる。自分が美形の部類に入るのだということも忘れ、ヘクセルは目を輝かせた。

「是非、私にも作り方を教えて下さらないかしら?」

「え……っ!? で、ですが俺みたいな一介の兵士になんて教わらなくても王城には料理──」

「私は、教えて欲しいの。あなたに、あなたが作って人を笑顔にするクッキーの作り方を教わりたいのです。お願い出来ませんか?」

「──……っ」

 じっと見詰められ、ファストは首まで真っ赤にして狼狽した。手を握られ、無意識の上目遣いで真剣な顔をして願うヘクセルの顔を正面からは見られない。


 実はファストは、王城仕え初日にヘクセルを偶然見掛けて一目惚れしていた。誰にも打ち明けなかったにもかかわらず同期にはバレてしまい、縁あってヘクセルの兄イリスの下につくことになった。

 それらの奇跡とも言える出来事の連続の先に、よもやこんなことが待ち受けていようとは。ファストは思考を停止しかけつつ、ヘクセルの目を見返して微笑んだ。

「俺で、宜しければ」

「ありがとう!」

 満面の笑みを浮かべ、ヘクセルはファストの手を強く握り締めた。


「……ということがあって、ようやくここまで作れるようになったの」

 ヘクセルは隣で興味津々にこちらの話を聞く少女に、少し照れの入った笑みを向けた。

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