ノイリシア王国編
イリス 誰が為に
王位継承権第一位の座にあり、ノイリシア王国で国王の右腕を務める青年・イリス。彼は正式に王太子として認められた後、更に多忙な毎日を送っていた。
集中していたイリスは慣れ親しんだ人の気配を感じたが、顔を上げずに彼女が近付くのに任せた。
「兄上、まだ仕事ですか?」
「ヘクセル。うん、もう少しかな」
陽が赤く染まり、部屋の大きな窓から入る光の色が変わっている。目の前の紙の束をオレンジ色に染めながら、呆れる妹の前でイリスはペンを動かし続けていた。
肩を竦めるヘクセルだが、彼女の腕にも兄から託された書類が抱えられていた。仕事の出来る妹に、イリスは幾つかの仕事を頼んでいる。
顔を上げないイリスに密かなため息をつきつつも、ヘクセルは「では」と踵を返した。
「
「……ありがとう、ヘクセル。頼むよ」
「心得ました」
深々と頭を下げ、ヘクセルは微笑して戸を閉めた。フリルが控えめにあしらわれたドレスは、活動的なヘクセルによく似合う。
(一時は塞ぎ込んでいたようだったけど、最近は笑顔を見せるようになったな。……よかった)
何故落ち込んでいたのかは、ヘクセル本人から直に聞いている。未練はないと言えばまだ嘘になる、そう言った上でヘクセルは笑った。
「いつか、彼が羨む程幸せになって見せますから。兄上は心配なさらないで下さい」
「わかった。何でも、出来ることがあるのなら教えてくれるかな」
「勿論です」
しっかりと頷いた妹の強さに内心敬意を感じたことを思い出し、イリスはふっと微笑んだ。水差しから冷たい水をコップに注ぎ、一気にあおった。
──コンコン。
そこで、訪れを告げる音が鳴らされる。イリスが「どうぞ」と許可すると、弟のエルハルトが顔を出した。
エルハルトは何年もノイリシア王国を離れて行方知れずだった、イリスの異母弟にあたる青年だ。現在は国に戻り、イリスの右腕としてメキメキと実力をつけている。
「兄上、ヘクセル姉上から仕事を手伝えと命じられて来ましたが?」
「はは、ありがとう」
「いいえ。……こちらですか?」
エルハルトが指したのは、机の端に積み重ねられた書類の束だ。そこから三分の一程の量を取り、自分の前に置く。
すっと懐からペンを取り出し、エルハルトは仕事をする顔になった。
「兄上。兄上の許可の必要なもの以外は、僕がさばきます。後二時間で終わらせましょう」
でないと、とエルハルトは意地悪く微笑む。
「ノエラが寝入ってしまいますからね」
「意地が悪いな、エルハ」
「褒め言葉ですね」
イリスが末の妹であるノエラを溺愛していることを知っているエルハルトは、ニヤッと唇の片方を引き上げて見せた。
イリスにとって、ノエラは大切な存在だ。今は王城ではなく近くの別邸で暮らしているが、毎日のように顔を見に行く。
「よし」
気合を入れ直し、手を握って開く。ずっとペンを握りっぱなしだった指に力がなくなっていたが、もう少しだけ酷使させてもらおう。再び愛用のペンを握って、イリスは書類と向き合った。
「終わった……。助かったよ、エルハ」
「いいえ、お役に立ててよかったです」
きっちり二時間後に今日やるべき仕事を全て終わらせた二人は、互いの健闘を称え合う。こんなことは毎回のようにやっているのだが、処理済みの書類が積み重なっているのを見るのは壮観だ。
では、とエルハルトは席を立つ。
「僕はこれで失礼します。また明日」
「ああ、おやすみ」
一礼し、エルハルトは部屋を出た。彼を見送って、イリスは一度伸びをする。肩をくるくると回してから、書類を指定の場所に置きに行った。
その一時間後、イリスの姿は別邸にあった。
「イリス兄上!」
「ノエラ、元気にしていたかい?」
「はいっ。クラリスとサラと、たくさん勉強しました」
訪れを告げた途端に走って抱き付いて来た少女は、イリスの問いに満面の笑顔で応じた。彼女はノエラ――ノイリシア王国第二王女である。
まだ六歳になったばかりのノエラの頭を撫で、イリスは控えていた女性二人に目を向けた。
「クラリス、サラ。いつもありがとう」
イリスが素直に礼を言うと、二人は顔を見合わせて微笑んだ。
「勿体なきお言葉ですわ、王太子殿下。アタシたちは姫様のご要望にお応えしているだけですもの」
「ふふっ、その通りです。ノエラ姫様は本当に好奇心旺盛で、勉強熱心です」
「クラリスとサラ、どっちもとっても優しいよ。ジスターニと
ジスターニと融は、クラリスと共にヘクセル直属の部下である。共に男性で、夜は王城にある兵舎で過ごす近衛だ。
「ノエラ様、イリス殿下に見てもらいたいものがあるのでしょう?」
「そうでした! 兄上、こっちに来て下さい」
「わかった。引っ張らなくても一緒に行くよ、ノエラ」
はしゃぐノエラに手を引かれ、イリスは妹の部屋へ赴く。そこにあったのは、ノエラの今日一日の成果だった。
数学、国語、外国語、政次に関するテキストやノートが散らばっている。どれも子ども用の「はじめての」と名のつくものではあるが、頑張っているのだと嫌でもわかる。
「……ありがとう、ノエラ」
「? どういたしまして」
かくっと首を傾げた妹は知らない。ノエラのその努力が、イリスに改めて王たるものとしての決意を新たにさせたことを。
ノエラが寝付いたのを見届け、イリスは別邸を後にした。護衛をと忘れ物を取りに来た融がついて来てくれ、王城へと足を進める。
「融、最近どうなんだい?」
「どう、とは」
「鍛錬、一人でよく早朝からやっているとジスターニが感心していたよ。時々ひっそり見守るのが楽しいってね」
「……あの人め」
軽くため息をつき、融はわずかに微笑んだ。
あることの影響で顔に残ったあばたを気にしてフードで顔を隠していた融だが、ある出来事の後にそれをやめていた。彼にそれを決意させた少女は、この国を助けた者たちの一員だ。
元々口数の少ない融だが、最近少しずつ話をしてくれるようになってきた。イリスが融やジスターニから剣術の指導を受けるようになったからかもしれない。
「……順調に、出来ていると思います。近いうちに、あいつを倒してみせますよ」
「期待しているよ」
二人は王城の入口まで進み、イリスはふと足を止めた。
「殿下?」
「融、少し付き合ってくれるかな?」
そう言って融が向かったのは、城内にある墓地だ。季節の花々に包まれた花園のようなそこに、イリスのもう一人の弟が眠っている。
「シドニアル、会いに来たよ」
幼い頃、不治の病で逝ってしまった弟・シドニアル。走るのが大好きで、いつも臣下を困らせていた。
イリスはシドニアルの眠る墓に手を合わせ、墓石を撫でた。
「見ててくれよ、シドニアル。兄は、きっと」
幼い笑顔を思い出し、イリスは微笑んだ。目を閉じ決意を新たにするイリスを見守り、融は風を感じて視線を巡らせた。
「……きっと、傍にいてくれていますよ」
「だと良いな」
ふ、とイリスは微笑む。立ち上がり、今度こそ自室へと向かった。
二人の背中を見送る少年が花園に立ち、微笑んでいた。
―――――
次回はヘクセルのお話です。
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