銀の華の物語―6

エルハ─1 幼き日

「エルハルト様、何処に行かれたのですかー?」

 年若いメイドの高い声が響く。その声に応じるべき少年の姿はないが、代わりに王城で働く同僚が近付いてきた。

「また、エルハルト様がおられないのですか?」

「そうなのです。異国から使者の方に挨拶を、と言づかっていますのに」

 どうしましょう。頬に手をあて狼狽えるメイドに、同僚は苦笑をにじませる。

「あの方は、人前が本当に苦手でおられるから。大丈夫、いつの間にか戻って来られているわ」

「だと良いけれど」

 二人のメイドは肩を竦め、改めて人探しを始める。彼女らの足音が遠ざかってから、草むらに隠れていた幼い少年は立ち上がった。

「ふぅ、これで良しかな」

 腕を軽く上に伸ばし、エルハルトは傍に置いていた本を手にとって歩き出す。その方向は、メイドたちがいる方ではない。

 エルハルトと呼ばれた少年が向かう先は、巨大な円筒形の建物だ。この国にある出版物全てを収めているという、まことしやかな噂がある図書館である。

 小さな体全身を使って重い扉を押し開けると、鼻腔を古い紙の香りがくすぐる。エルハルトにとって、馴染みのある香りだ。

「また来たのですか、エルハルト殿下」

「書庫長」

 背伸びをして本棚を覗いていたエルハルトは、これまた馴染みの声に気付いて振り返った。そこに立っていたのは、呆れ顔をした老年の男性だ。

 髪も髭も白く染まった彼は、この図書館全てを取りまとめ、知る男だ。何度となく忍んでやって来るエルハルトを黙って受け入れ、気が済むまで放置してくれる。

「今度は、何から逃げて来たのです?」

「逃げたわけじゃないです。ただ……」

「ただ?」

「ただ、本が呼んでる気がしただけで……す」

「それをサボりと言うのですよ」

 言い訳を並べ立てるエルハルトの頭を軽く撫で、書庫長は踵を返した。何だかんだ言いつつ、彼はエルハルトを追い出そうとはしない。

 居心地の悪い思いをしていたエルハルトは、ほっと息をつく。肩の力を抜いたエルハルトを、書庫長は振り返る。

「探しているものがあれば、お声がけください。奥の受付で仕事をしていますから」

「ありがとう、ございます」

 白髪の後ろ姿を見送り、エルハルトは再び本棚へと目を向けた。自分の倍以上高い場所にある本を取るためには、本棚に立て掛けてある梯子を持って来なければならない。

 自分の手の届く範囲にある書物は、半数以上は読破したと思う。だからエルハルトは、離れたところにあった梯子を取りに行った。


 いつものように夕刻まで図書館の中で過ごしたエルハルトは、二冊の本を小脇に抱えて外に出た。植物の図鑑と経営論の本だ。

 それらを持って部屋に戻るのかと思いきや、彼の目的は違う。自然と足が向いたのは、季節の花が咲き揃う庭園だった。

 夕日に照らされた道を進み、庭園の中でも一段高い場所を目指す。そこは庭の中心にあり、屋根付きの休憩所が設けられているのだ。

 エルハルトが休憩所に近付くと、先客がいた。

「イリス兄上」

「やあ、エルハルト」

 弟に声をかけられ、イリスは眼鏡を外して片手を挙げた。彼の手元を覗くと、国家論等という小難しいタイトルの本が積み重なっていた。

「兄上も、ここで読書を?」

「ああ。ここは静かで心地良いし、難しい本を読むのに適していると思う。……こうやって、サボり癖のある弟とも話せるしね」

「うっ……ごめんなさい」

 メイドの言葉が思い出され、エルハルトは目を伏せた。イリスや姉のヘクセルは、おそらく国王らと共にきちんと使者への挨拶を終えたのだ。現在末の王子であるエルハルトだけは、いつも駄々をこねて公式の場には出ないでいた。

 これではいけない。わかってはいるのだが、どうしても足がすくむ。イリスたちもそれを知っているから、エルハルトに強要しない。

 兄姉らの気持ちが嬉しいと共に、申し訳なくもあった。だから、少しくらいの意趣返しは受け止めたい。

 殊勝な態度のエルハルトに目を細め、イリスは弟の頭を軽く撫でた。

「おいで。それが今日読む本なんだろう? 一緒に読もう」

「……良いん、ですか?」

「丁度、一人ではつまらなくなっていたところだよ」

 兄に微笑まれ、エルハルトははにかんだ。ととと、とイリスの前に立つと、向い合わせの席に腰かける。

 ものを書くのには適さない装飾の組み合わされたテーブルには、透明なシートが乗せてある。こうすることで、表面が平らになるのだ。

 テーブルの上にはイリスの飲みかけの紅茶が置かれ、エルハルトも要るかと訊かれた。しかし、エルハルトは首を横に振る。

「大丈夫です。喉は渇いていないので」

「わかった」

 それ以上勧めることもなく、イリスは書物に目を落とす。エルハルトも同様に、本の中へと意識を飛ばした。


 どれ程の時が経っただろうか。エルハルトがふと顔を上げると、目の前に湯気のたつホットチョコレートが置かれていた。

「えっ」

「さっき入れてきた。おいしいと思うよ」

 目を瞬かせる弟に微笑みかけ、イリスは自らのコップを手にした。飲んでみろと言外で促されて、エルハルトはそっとコップを両手で包む。

 ほんのり温かいそれを喉に流し入れると、体が冷えていたことを自覚した。

 ほっとわずかに白む息を吐き、エルハルトはそっと兄を盗み見た。再び書物に没頭する兄に、彼は聞こえないくらいの声で呟く。

「兄上、ぼくは自信がないよ……」

「何か言ったかい、エルハルト?」

 イリスが顔を上げたが、エルハルトは再び言葉を紡ぐ気はなかった。かぶりを振り、ホットチョコレートを一気に飲み干す。

「何でもない。ぼく、もう行くね」

「わかった。またな」

 止めるでもなく、イリスは弟に軽く手を振った。彼はもう少しだけここにいるらしい。エルハルトも本とコップを手にして軽く会釈する。

 しばらく歩いて庭園を出ると、エルハルトの足は徐々に速くなる。もうすぐ陽が沈むが、この時間になるとようやく母と話すことが出来るのだ。

 体の弱い母を、エルハルトは大切に思っていた。寝る前に一日あったことを話して、おやすみの挨拶をする。

「母上、熱とか出てないと良いけど」

 コップをキッチンに返し、エルハルトは王城の廊下を駆けて行く。


 これは、エルハルトが大切な母を亡くすより前の一幕。

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