落空世界編
二十六木和歌子 忘却の日々
日々何事もなく過ごすことを、人は日常と呼ぶ。
和歌子は今日も、のんびりと朝食を食べ終わった夫
「あなた、時間ですよ」
「わかった」
きちんと手を合わせ、心一郎は「ご馳走様」と呟く。その時の穏やかな仕草が、和歌子は好きだ。
「じゃあ、行ってくる」
「いってらっしゃい」
朝八時。全ての支度を整えた心一郎が、玄関を出る。紺色のスーツ姿で、朝日の中に大きな背中が消えた。
しん、と静まり返った室内。和歌子は「さて」と気合いを入れると、やるべき家事を始めた。
先程食器は片付けたため、シンクを拭いて生ゴミを出す。更に掃除機をかけ、固く絞った雑巾で床を拭いた。
「今晩、何にしようかしら……」
心一郎に出す夕食の献立を頭の中で考えつつテレビなどを乾いた布巾で拭き、買い物袋を持って外に出る。近所のスーパーでは今日魚が安い。
買い物を終えて帰宅すれば、もう正午を回っていた。
食パンをオーブントースターで焼き色が付くまで焼いて、バターを塗る。サラダと共に食パンにかぶり付き、テレビのバラエティーを見た。
自分で使った食器を片付け、まだ机を拭いていないことに気付く。
「ちょっと、これで拭いて……ん? 誰に頼んでるのかしら」
誰かに絞った布巾を渡そうと手を伸ばし、和歌子はふと立ち止まる。心一郎は仕事なのに、と苦笑する。
まるで若い女の子でも家にいたようではないか、と。
和歌子と心一郎に子どもはいない。だから、そんなことなどあり得ない。
「馬鹿ねぇ」
自嘲気味に笑い、和歌子は絞った布巾をパンパンッと広げてはたいた。
丁度その時、電話が鳴る。画面を見て相手が表示されているのを見て、和歌子は受話器を取った。
「もしもし、お母さん?」
『元気かしら、和歌子ちゃん』
和歌子の母は高齢であり、住む場所が遠いこともあって施設で暮らしている。最近軽度の認知症と診断され、専用の施設に移ったばかりだ。
「元気ですよ、お母さん」
『あなたのお兄ちゃんは?』
「……もうお母さん、お兄ちゃんなんて私にはいないわ」
母は誰と勘違いしているのか、和歌子にいもしない兄の消息を尋ねてくるようになった。母には何度言ったかもわからないが、和歌子は何度でもそう答える。
和歌子に兄等いないのだ、と。
『そうかね……?』
「そうよ。それよりも───」
話題を転換すると、母はすんなりとそちらへと舵を切る。内心ほっとしつつ、和歌子は首を捻った。
夕刻になり、カラスが家へと帰っていく。同じように、小学生が集団で下校していく元気な声が聞こえた。
「あと数時間、かしらね」
夕方のテレビ番組をBGMにして、和歌子は食事の支度を進めていく。今日は、鯖の味噌煮をメインに据えた。
洗濯物は畳まれて、既にタンスに入っている。後は、心一郎が帰ってきてからもう一度洗濯機を回すくらいだ。
その時、玄関で物音がした。
「ただいま」
「お帰りなさい。ご飯、出来てますよ」
先にお風呂ですか? 和歌子が尋ねると、心一郎は嬉しそうに頷いた。
こうして、日々は和やかに穏やかに過ぎていく。
わずかな違和感を覚えることはある。例えば、自分のふとした言動。例えば、実母の不可解な言葉。
しかし些細で些末なそれは、和歌子に疑念を抱かせることはない。
例えそれが、何者かによって消された記憶だとしても。彼女は気付かずに生きていく。
存在したはずの兄と、兄の娘への執着。和歌子が生涯を賭けて探し出した娘と過ごした記憶は、今や彼女の中からは消え失せた。
─────
次回は、レオラのお話です。
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